暗闇の中の光
ちょっと長いです。
赤に対抗する色。
全てを吸収し無限の可能性を表す黒がすぐにノアールの頭に浮かぶ。
影や闇を象徴する色でもあるが、その中に沢山の美しい色が隠されているともとらえることができる。
そして闇と混沌の中から秩序が生まれ光も生まれるのだ。
扉が下方からゆっくりと黒く塗り替えられていく。
だが身悶えるように赤は黒と混ざり合いながら色を変化させる。
隔絶と孤独、束縛を意味する紺色を経てから紫の色に落ち着いた。
「逃避と過去……?」
そして癒し。
これはフィリーの本心なのか。
それならばとノアールは短く息を吸い、輝く光のイメージを思い浮かべる。
硝子のように透明で、水晶のように純粋な色。
再び扉の色が変わる。
嫉妬、変化、安らぎの緑から不安や注意を促し目覚めを意味する黄色へと移り、恐怖と吸収を表すオレンジすぐに打消し金色へ。
金色は不安と恐怖心を表す。
でも過去の出来事を整理し学んだことを自分の知識として取り入れ、苦しみ悲しみを手放してしまうという消化と吸収の意味もある。
それにノアールのイメージした光の色に限りなく近い。
手応えを感じた。
魔法は心が揺らいだ方の負けだ。
心の底では助けを求めている者の拒絶は本心では無いため脆い。
「……開けっ」
金色が輝き中央から白い光が射す。
四方八方細い光の筋が伸び、やがて扉を飲み込み見えなくなる。
ノアールはノブを握る手を意識してゆっくりと回した。
蝶番が軋んだ音を立てて入口を開ける。
「やるじゃん!ノアール」
背中を叩いてセシルが褒める。
叩かれたずぶ濡れの服が背中に張り付いて気持ちが悪い。
だが雨のお陰で淀んでいた空気が浄化されたのかさっきより異臭は気にならなくなっていた。
「先行くぜ」
するりと扉の隙間からライカが侵入しヘレーネも後に続く。
ノアールとセシルも急いで追うが、中に入ってすぐに二人の背中にぶつかって足を止めざるを得なくなった。
「どうし……ええっ!?なんで?」
ライカの肩越しに覗き込み我が目を疑った。
入ってすぐが台所で手前が竃のある土間。
奥側に板の間。
そしてさらに奥が六畳ほどの部屋で全部。
奥の間にリディアはいた。
「放しなさい。死ぬわよ」
下手に動けずにヘレーネが諫めるように声をかける。
ライカも困ったように頭を掻いて「そう来たか」と毒づいた。
「遅かったみたいだね。どうする?お姫さま」
「どうするって……」
青白い顔で必死に抑え込もうとするリディアの腕をぼんやりと眺めた。
床に散る金色の髪は三つ編みがほどけかけ、角灯の灯りを受けて波立ち緩い光を弾いている。
もがく様に爪先が床の上を滑り、突き上げる両腕は薄茶色の頭を優しく抱え込んでいた。
仰向けに倒れたフィリーの上に覆いかぶさり白い首を左手で握り締め、右手がその手首を必死で掴んでいるのはリディアの精一杯の抵抗に見えた。
命の危機があるのはリディアではなくフィリーの方。
「意外とリディアは積極的だね。絵的には女同士に見えるから美しいけど……相手があたしじゃなくてやっぱり残念だなぁ」
セシルがいつもの笑えない冗談を口にしたのでノアールは眉を寄せる。
今の状況で何故そんな軽口を叩けるのか不思議だ。
「助けるんでしょ?」
「……ああ」
最初の問いに戻りどうするのかという確認にようやく頷いた。
セシルが満足気に微笑むと「仰せの通りに」と請け負って斜め右前にいるライカの朱色の帯を手早く緩めた。
「ああ!おいっ」
「セシル!?」
「なにを」
三人の少年の声が重なる。
悪戯めいた笑顔を浮かべてどういう手品かするりと解けたセシルの身長より長い帯を両腕に巻きつけると、ぴょんっと飛び跳ねて角灯の近くに着地した。
「リディ。約束通り止めに来たよ」
巻きつけた帯を腕から外してそっと角灯の上に垂らす。
セシルの表情は見えないが、呼び掛けた声は今まで聞いたことが無いほど優しくいたわりの響きがあった。
ゆっくりと角灯からの灯りが薄らいでいく。
びくりとリディアの背中が動いて、喉の奥で悲鳴を上げた。朱色の布はオレンジの炎を遮断しようと床に層を成す。
いくら暗示にかかっていようとも心の底から湧きあがってくる恐怖とトラウマは抗いきれないのだろう。
リディアは暗闇を恐れる。そこに隙ができるはずだ。
暗転――。
「っやぁぁああああ!!」
耳を劈くような悲鳴がノアールの胸を苦くする。
喉が裂けるのではないかと不安になるほど搾り出される痛切な声が逃げ場を失い部屋中を駆け巡った。
同時に不規則に逃げ惑う足音が激しい混乱を表している。
ノアールは一歩無意味に前に出た。
さっきまで目の前にいたはずのライカもヘレーネの気配も無い。
ようやく暗闇に慣れ始めた視界の中に濃い影と鈴の音が飛び込んできた。
「大丈夫だからっ」
ぶつかられてたたらを踏みながら、後ろへと流れそうになる身体を膝に力を入れて支えた。
横へ逃げる影に腕を伸ばして阻む。
「誰もリディアを傷つけたりしないよ」
「やだ!出して!ここから出してっ」
「リディ……あわわ」
泣き叫ぶ声が反転して遠ざかる。
捕まえ損ねたノアールの代わりに角灯を覆っていた帯を取り除いてセシルがリディアを抱き留めた。
こちらを見るセシルの目がからかうように笑みの形をしていた。
「捕まえた」
ぎゅっと抱き締めてセシルが楽しげに声を上げる。
リディアはしばらく身を捩り逃れようとしていたが、部屋が炎の力を取り戻したのに気付いて少しずつおとなしくなった。
「こっちは問題ない」
ライカがフィリーの安否を報せた所でノアールは目を丸くする。
あの暗闇の中、音も無く彼は続きの部屋のフィリーの元へ移動したらしい。
セシルにもリディアにもぶつからずに。
ヘレーネもフィリーの傍で膝を着き、ほっと胸を撫で下ろしている。
「わたし……わたし、フィリーを殺すところだった」
改めて自分の行為を思い出したのか、蒼白な顔でへたり込む。
セシルも座りリディアの肩を抱くと「だね」と首肯する。
緑の瞳に涙が溜まり、涙腺から溢れ出る次の涙に押されて零れ落ちた。
動揺が頬を引き攣らせ、色を失った唇が何事か言おうと動くが言葉にならないのか悔しそうに前歯で押える。
「フィリーはそのつもりで行動を起こしたんだよ」
ノアールは自己嫌悪に陥るリディアを慰めるためにいうと、軋む床板を踏みしめてヘレーネに助けられて身を起こしたフィリーの前へと移動した。
灰紫色の瞳が茫洋とした視線を床の上に散らす。絞められていた喉元を白い手が押え、薄い唇の端が左右に持ち上げられる。
下がった目尻の際に溜まっていた涙を肩で拭うとフィリーは焦点を結んだ眼を上げた。
「貴方はルクリア・ファプシスの息子フィル・ファプシスですね?」
「……そうだよ。久しぶりにその名で呼ばれた。リディアもぼくの名前までは思い出してはくれなかったしね」
詰まったような声に咳を二度してから認めるとフィリーが微笑んだ。
乱れた黄色のワンピースの裾を正して座り直す。
汚れた口元を手の甲でぐいっと拭い申し訳なさそうな表情を浮かべてリディアを見た。
「賭けはぼくの負けみたいだ。待っていた人じゃない人が来ちゃったしね」
「どういうことなの?」
ヘレーネの問いにフィリーは視線をライカとヘレーネに向ける。
「二人がぼくを監視していたのは知ってたけど、まさか邪魔しに来るとは思ってなかった。それからノアールが魔法を打ち破って入ってくることも計算外だったし」
両脚を肩幅に広げてから膝に徐々に力を入れるようにして立ち上がり首を竦めた。
その仕草はおとなしい従順な少女の物ではなく、少年らしいさっぱりとした物だったのでそれが元々のフィリーの性格だと知る。
「まったくスカートってやつはひらひらして動きにくいし、ばれないように女の子のふりを続けるのもしんどいし……。セシルは平気で人前で着替えるしね」
「役得だって思わないあんたはどうかしてるよ」
少し頬を染めて照れたようにはにかむフィリーにセシルは悪びれもせずに応える。
ノアールとしてはフィリーの方の肩を持ちたい気分で一杯だった。
同じ男として気持ちはよく解る。
「男だって知ってたらもっと盛大に脱いであげたのにさ」
「セシル……」
全員の絶句と驚愕を得て満足気なセシルの笑顔が悔しい。
図らずも皆が同時にため息を吐き部屋の中に不思議な一体感が芽生える。
温かく柔らかいオレンジの光が六人を優しく包んだ。
「おら。勿体つけてねぇでさっさと暗示を解きやがれ」
ライカが思い出したように後ろからフィリーの背中を叩く。
だがゆっくりと頭を振ってフィリーは目を伏せる。
素直に応じると思っていた全員が拒絶されて息を飲んだ。
ヘレーネが「どうして?」と腕に縋りつく。
再びゆるゆると首を振り「……ぼくには解くことができないんだ」と小さな声で言い訳するように項垂れた。
「もしかして……待っていた人って」
紅蓮がリストまで迎えに行った人のことだろう。
「暗示の鍵となる言葉は母さんの声でないとだめなんだ。母さんがリディアを……エディルさんを赦す言葉が鍵なんだから」
エディルへの憎しみを、娘を通して訴える暗示を解く言葉が赦しの言葉だとは。
例えリディアが鍵となる言葉を思い出しても解くことはできなかったということだ。
無駄な努力だったのか。
脱力感がノアールを襲う。
力の及ばない無力さを感じつつも魔法都市トラカンの魔法学校は高いレベルの授業をしているのだと脱帽する。
たかが暗示と思っていたがそう簡単に解くことのできない物をかけられる実力。
敵うわけが無い。
「母さんはやっぱりまだ過去から抜け出せないのかな……」
諦めてしまっているフィリーの言葉にレッドソムの声が正気に戻してくれた。
紅蓮を信じられないのかと聞かれてノアールは信じると答えたはずだ。
それにレットソムは始めからずっと「あいつなら遣り遂げて帰ってくる」と言い張った。
拳を握りしめてノアールは顎を上げた。
「来るよ。絶対に紅蓮がルクリアさんを連れてくる」
「ノアール……?」
「絶対に紅蓮は信頼を裏切ったりしない。だから」
その瞬間扉が激しく蹴り開けられ、外の風雨が入り込んできた。
雷鳴と雨音が騒がしいほど鼓膜を叩く。
蒸し暑い空気が揺れて背の高い影と女性の影が稲光に浮き上がった。
「あれ……遅かったか?」
呑気な声が少し困って中にいる六人を見た。
マントのフードを後ろに落とすと、目にも鮮やかな赤い髪が現れる。
濡れた顔を右手で拭うと左手で女を中へと押しやった。
「紅蓮!」
感動して名前を呼ぶと「なあ、オレ間に合わなかったのか?」と自信なさげに聞いてくるのがとても残念だ。
大きく首を左右に振って大丈夫だと教えるとやっと安堵したように紅蓮は頷いた。
女がずぶ濡れの外套を脱ぎ捨てるとフィリーの前までつかつかと歩み寄る。
その顔を見てリディアが怯えたようにセシルに身を寄せるので、女性がルクリアであることは間違いがないようだ。
薄汚れた床に黒い足跡を残して近づくと濡れて千切れそうな紙を息子の鼻先に突き出す。
「母さん」
喜びを隠さずにフィリーは母親に笑いかけたが、その頬を白い手が容赦なく打ち付けた。
乾いた音が響いて近くにいたヘレーネが肩を跳ね上げて青くなる。
ライカは眉を片方持ち上げて唇の端を下げた。
床に落ちた手紙は雨で文面が滲んで無残な姿をしていた。
「こんな……自分の息子がこんなに愚かだとは」
「でも」
「憎い男の肩を持って娘を助けろですって!?」
痩せこけた頬を痙攣させながらルクリアは再度頬に掌を落とし、よろけたフィリーの胸倉を掴んで引き寄せた。
「あんたはなにを見てきたの!?父親の無残な死に様を忘れたとはいわせないわよ!!」
再び上げられた手を見て「やめて」と叫んで凶行を止めたのはリディアだった。
涙ながらにしがみ付き、ガクガクと首を揺らしながら必死に恐怖と闘っている。
逃げ出そうとする身体とそこに留まろうとする足。
目を逸らすまいと眉間に力を入れているが焦点はあっていない。
「このっ!汚い手で触らないでちょうだい!!」
腕を力づくで振り払いルクリアが鋭く睨みつける。
その冷たい双眸に揺らめく怒りと憎しみは未だに衰えることを知らないようだ。
「あんたが人を殺して牢へ入れられて、その姿を嘲笑うために面会に行く日を心待ちにしていたのに。残念だわ!」
予定が狂ってと吐き捨てるとリディアの髪を鷲掴みにして引き倒した。
そして乱れた髪を整えながら息子に向き直る。
フィリーは頬を押さえて俯いたまま。
「高い金を出して学校を出したのに、これぐらいで躓いてもらっちゃ困るのよ」
「その金も……エディルさんが出した金だろ」
凍えるような声がフィリーの唇から出され、ルクリアは険しい表情で息子の肩に手を置いた。
だがその手を軽く肩を動かして拒絶しゆるりと顔を上げる。
悲しみも憎しみも無い澄んだ瞳で母親を見やると首を振った。
「ぼくは最初から恨んでなんかいなかった。父さんの会社が倒産したのも、それだけの腕しかなかったからだ。エディルさんが手を広げても生き残った会社はたくさんあった。勝手に恨んで八つ当たりして……。間違ってたんだよ。なにもかも」
息を吐き出してから唾を飲み込みフィリーは小さく笑って見せる。
「恨む権利は母さんにも父さんにもあった。でも事件を起こしていいなんて、そんな権利は誰にもなかったんだ」
「そんなこと本気でいっているの!?」
「本気だよ。十分すぎるほどの金はエディルさんから貰ったじゃないか。その金でぼくたちは随分助けられただろ?リディアがこれ以上苦しむのは間違ってる。だから助けてあげて欲しい」
お願いだと懇願されてルクリアは取り乱したように唇を震わせて息子に取りすがる。
だがそれも素っ気無くかわされて身の置き所を見つけられずに床に膝をついた。
その腕を遠慮がちに引いたのはやはりリディアだった。
「わたしは回りにいる人を二度と傷つけたくない。その中にフィリーも入ってるの。だからお願い……パパとわたしを赦して」
「なにを」
「パパは恨まれるようなことをしてた。本当は嫌だけどその代わりにわたしが傷つけられるのも分かる。でも関係の無い人を巻き込むのは間違ってると思う。あなたの気が済むまで何度でも謝るから……お願い」
リディアの罪でもないのに額を床に擦り付けるようにして頭を下げる。
犯人を恐れて怯えていた図書塔での姿を思い出しながらノアールは意外にも強い所のあったリディアに驚く。
それともこの短い間に成長したのだろうか。
「赦しを乞うのはぼくたちの方だ。リディアは悪くないよ」
「パパがお祖父さまに認められたいってつまらない意地のためにたくさんの人を苦しめたのは事実だから。それにフィリーのお父さんも死んじゃったんでしょ?」
「そうよ!!あんたたちなんか苦しめばいいのよ。不幸になればいいんだわ」
「母さん!!いい加減にしなよ!」
フィリーがとうとう我慢できずにルクリアの肩を掴んで拳を握る。
それを止めたのはライカだった。
そして紅蓮が二人の間に入る。
「もう十分リディアもその家族も苦しんでる。これ以上不幸になればいいだなんてそんなこと許されるわけない」
紺色の瞳に蔑んだ色を浮かべルクリアを睨み、ヘレーネがリディアを支えて立ち上がる。
紅蓮が分からないと首を傾げて「ここに来るまでずっとフィリーのことを心配してたのに。そろそろ素直にならないと息子と決別することになりますよ?」と熱く青い瞳でじっと見つめる。
リストからここまで一緒に来た紅蓮には本心を隠せないと思ったのか強張っていた背中から力がふっと抜けていく。
「唯一の味方だと思っていたフィリーに裏切られたと思ったんですね」
ノアールは切なくて眉を寄せて呟く。
その声を聞いた途端に泣き崩れたルクリアの激しく震える肩甲骨をそっとリディアが擦る。
恐る恐る動く手に気付いて顔を上げたルクリアは涙に濡れた頬を歪めて「こんなはずじゃなかったのよ」と喉を詰まらせた。
「ごめんなさい」
悄然と謝るリディアに「違うのよ」とルクリアが顎を小さく振る。
その声は悔恨に溢れていた。
「エディルはすぐにあなたにかけられた暗示を解くと思っていたのに。まさか六年もそのままにしておくとは思わなかった。それにフィルは十歳だった。子供がかける暗示が本当にかかるとも思えなかったし……簡単に解けると」
思ってたのよと続け嗚咽に変わる。
軽い気持ちで犯行に及んだわけではなかっただろうが、ルクリアは息子の暗示の力を軽く見積もり、リディアの父の判断を見誤った。
苦しめばいいと思っていただろうが、ここまで長引くとは考えていなかったのだろう。
「こんなことになるとは」
「思ってなかったんだよね?」
リディアは優しく続け、分かっていると頷く。
女はその声に励まされるように顔を上げて「赦されるとは思っていないわ……。私の恨みも消えることは無い。でもあなたには罪は無い」と喉を詰まらせた。
「母さん」
フィリーが母親の隣に膝を着き促すとルクリアは「こんなこと私が口にするのはおかしいと心底思うけど……赦すわ。ごめんなさい」と謝罪した。
「……嬉しい。ありがとう。ルクリアさん」
顔を覆ってリディアは肩を震わせる。
暗闇の中でやっと光を見つけたのだろうか。
泣きじゃくりながら何度も何度も礼を言っては嬉しそうに笑った。
ようやく次で「再会の呪い編」終了です。




