裏切り
「話ってなに?」
角灯に火が入れられて部屋がほんのりと照らされる。
それを確認してからリディアは扉を閉めて中へと入った。
なにも無い部屋に浮かび上がる二つの影。
まだ混乱している頭を振ってから部屋を見渡すと狭い長屋のような家は二間しかなく、玄関から入ってすぐ土間と板間のある台所。
続きの間は六畳くらいの広さしかない。
記憶通りの場所に指を引っ掻ける窪みのある床板があった。
来るまでに通った路地も窓の割れた家も、老人が座っていた玄関先の木箱もそのまま変わらずにあって、本当にあれから六年も経っているのか自信が無くなる。
この家の真っ赤な扉だけはペンキが剥がれて無残な姿をさらしていたけれど。
「ここに来るまで恐がらなかったところを見ると思い出したみたいだね」
どこか困ったかのように首を傾げて角灯を手に部屋の真ん中へと歩く。
しゃがみ込み懐かしそうな表情を浮かべて床の窪みをなぞる繊細な指の動きに心臓がきゅっと痛む。
掃除のされていない家は埃が積り、鼠の糞や虫の死骸が転がっていた。
「……やめて。そこは開けないで」
ここに来るまで恐くて仕方が無かった。
何度も何度も足を止めそうになるのを必死で動かしてここまできたのはリディア自身だ。
無理やり連れてこられたわけではない。
逃げようと思えばいつだって逃げられる状態だったし、二歩ほど後ろを歩いてここまで来た。
でも自分が監禁されていた場所を見ることはそれ以上の恐怖をリディアに与える。
まだそこに六年前の自分が閉じ込められているようで恐ろしい。
だがリディアの懇願を聞き入れてはくれず、角灯をいったん床に下してから両手で床板を持ち上げる。
血の臭いと黴の臭いが混ざった空気が一斉に噴き出して思い出したばかりの記憶を揺さぶった。
竃で焼かれた焼き鏝が当てられた掌の熱さと肉の焼ける臭い。
沈鬱な表情と呪詛。
振り下ろされた刃の冷たさと流れ出る血の熱さ。
痛みと恐怖、苦しみと諦め。
朦朧とする意識と判断力。
罵倒し続ける女の形相と声。
「やめて!」
女がリディアの前に立ち塞がり覆いかぶさるようにして両手を広げる。
真っ黒な口腔から悔しげな声で呻いて、とっさに頭を庇い蹲ったリディアの左手を掴む。
皮手袋がはめられているはずの左手はなぜだか剥き出しになっていて、引き攣れた傷跡やおぞましい火傷の痕を曝け出していた。
女はそれを眺めて唇を歪める。
「いつまでも過去に縛られていないで」
だけれど恐怖に絡めとられそうになったリディアを寂しげな響きの声が現実へと連れ戻す。
足元で角灯が燃えているのをぼんやりと見つめながら六年前と変わらず柔らかな口調で諭す。
「話があるんでしょ?」
促されてゆっくりと頷く。
ちらりと確認するとちゃんと左手には皮手袋がはまっている。
安堵しているのを気取られないように瞬きを繰り返して一歩近づいた。
竦みあがった足を動かすのは難しいことだったけれど前に出ないと終わらせることができないから。
「わたしとわたしの近くにいる人を二度と傷つけさせたりしない。そのためにはどんなに怖くても、困難でも立ち向かわなきゃならない」
震えてはいたがちゃんといえたのに。
相手は金の髪の下で目を伏せて微動だにしなかった。
細い顎も頬も鼻も口も凍ったかのように動かない。
リディアは唇を湿らせながら勇気を出して名を呼んだ。
だが小さく頭を振って拒絶された。
「……本当は思い出される前に終わらせるつもりだったんだけど予定が狂っちゃった」
ようやくこちらを向いた灰紫の瞳には疲れたような弱々しい光しかなく、リディアは心細さを覚えた。
「暗示の鍵の言葉は思い出せた?」
小首を傾げて微笑む小さな顔を正視できずに目を逸らした。
その先に貯蔵庫が口を開けていて全身が総毛立つ。
軽い眩暈と混乱が再び起ころうとしていて焦って息を飲みこんだ。
「どうしてぼくが犯人だって解っているのについてきたりしたの」
「話が……」
「ばかだなぁ。リディアは。殺されるかもしれないのに」
嘲笑して顔を歪めると母親そっくりになる。
怯えながらもリディアは「そんなことできない」と言い切ると眉を跳ね上げて少年は目を丸くした。
怪訝そうな表情で眉間に皺を寄せる顔を正面から見て再度あなたにはできないと断言する。
「やってみないと解らないよ?」
リディアがなかなか踏み出せない一歩を軽々と詰め寄り少年は表情を消して瞳を覗き込んでくる。
「ぼくらの憎しみは簡単に消えたりしない物だったんだ。だからディアモンドを出てから五年も経っているのに事件を起こすことができた」
「最初から、憎しみなんてなかったくせに」
少年がどんなに憎んでいたといっても信じられない。
あの時も今だってその瞳には優しさと後悔が居ついている。
リディアが傷ついたように少年もまた罪から逃れられずに苦しみ傷ついているのだ。
「試してみる?」
怪しく瞳が揺れる。
囁くような声が耳朶に触れ身体が痺れた。
見つめる眼から視線を外せない。
瞳孔がどんどん広がっていくのが解るほど近い。
吸い込まれる。
「誰を殺すのか。誰が殺すのか」
「やめて」
暗示だと気づいて逃げようと身じろぎをしたリディアの両腕を掴んで少年は後退さる。
すぐ後ろに貯蔵庫が口を開けているのに構わず後ろ向きのまま進むから引きずられるようにリディアの足も動いてしまう。
だんだんと穴が近づいてくる。
「お願い」
角灯の炎が揺れる。
少年の踵が縁ぎりぎりまで行って止まると「どちらが勝つか」と悠然と微笑んで左足を起点にくるりと回転した。
リディアの位置と少年の位置が代わる。
今貯蔵庫に背を向けているのはリディアだ。
「賭けてみようか?」
「やめて!フィリー」
「違うよ。ぼくはそんな名前じゃない」
忘れてしまったんだねと続けて少年は悲しそうにため息を吐く。
足が空を掻く。
支えられていた腕が放され後ろへと倒れ、夢中で手を突き出すが冷たい眼差しがリディアを眺めているだけだった。
信じていたのに。
やはり憎しみは彼の中にあって「ごめんなさい」と半泣きになりながら謝ったのは偽りだったのだろうか。
悲しみが、後悔が胸をぎゅっと締め付けて暗闇へと突き落す。
裏切られたと感じたのを境にぷつりと意識が飛んだ。