赤い扉
大気を震わせて海に雷が落ちた。
生温い風は衰えるどころか次第に強さを増していく。
ノアールは不穏な気配と予感に背中を押されるように足を動かすが、前を走るセシルとヘレーネに遅れを取っている。
やはり運動能力に長けている者の足には敵わない。
王都ディアモンドは港へと向けて傾斜があるために階段と坂が多い。
スラム街は学園の門から見て逆方向に位置しているから、いったん下ってから城壁を伝いにぐるりと一周する形になる。
歓楽街の坂を駆け上りながら鼻の上で跳ね上がる眼鏡の向こうで、セシルが左腕を気にして舌打ちするのが見えた。
「どうかしたの?」
声をかけるとなぜかヘレーネの方がばつが悪そうに俯いてセシルの答えを聞きたく無さそうにする。
「好奇心は身を滅ぼすと学んだ代償かな」
「それ……」
問い質そうとするとセシルは足を止めてノアールの首に右腕を回してきた。
またあの蠱惑的な瞳で微笑むので身構える。
「心配しないで。ノアールへの好奇心で身を滅ぼすのなら本望だからさ」
「またっ!そんなことを」
「ふふん」
鼻で笑ってから解放し、随分先へ行ってしまったヘレーネを追いかけ直すセシルにそれ以上聞けずにしぶしぶ諦める。
筋肉の攣り始めた脹脛を叱咤しながら前へと送り出しながら空を伺う。
今はまだ降り出していないが、いつ雨粒が落ちてきてもおかしくはない。
急で細い階段を下りると左手はもうスラム街だ。
右手側の一段高い場所は開発区で、真新しい建物が建っている。
逆にスラムの建物は古くとても快適とはいえない物だった。
どこからともなく漂ってきた異臭に頬を引き攣らせ、リディアの父親が速くスラム街の住環境を善くしてくれのことを希望する。
「こっちだ」
今日も目つきの悪い三白眼と綺麗に並んだ歯を見せて笑う憎めない顔で、幾つかある細い路地の一つからライカが手招きをした。
ヘレーネは一番この地域に相応しくない格好なのに気にも留めず路地に飛び込んでさっさと先へ進んでいく。
その後をセシル。
そしてノアール、ライカが最後に続いた。
妙に静かで人通りも無い。
道の真ん中に溝があり、その上には板が乗せられているが所々踏み抜かれていたり腐ったりしている。
異臭の元はそこからで、生活用汚水が流れていた。
こんな所で人が住めるのかと驚きつつ吐き気をこらえるので精一杯だ。
「そこだ」
ヘレーネが赤い扉の前に差し掛かった所でライカが目的の場所を告げた。
セシルがぎゅっとノブを握りしめるがびくともしない。
「無駄だよ」
懐から針金を出したセシルを止める。
舌打ちしたので一応無駄だとは解ってはいたようだ。
入れ代りに扉の前に立つと見えない圧力に押し返される感じがした。
赤い色はエネルギー、怒り、拒絶を表し、そして勝負を意味する。
これは挑戦状だ。
トラカンの中等魔法学校を出たフィリーの魔法にノアールが敵うのか。
「……やるしかないっ」
大きく深呼吸をしながらノブを握ると抵抗するように電気が奔る。
そして空からポツリと雫が落ちてきた。
「降ってきやがった」
ライカが空を仰ぎそう呟いたのを背中で聞きながら、ノアールは暴れ馬のように乱暴に拒絶する扉へと集中する。
心を落ち着かせるための呪文を何度も口の中で繰り返しながら。
たまりかねたように降り出した雨は激しく頬を打ち、髪や服を濡らしていく中そんな現実からゆっくりと乖離し始めて心地よくなる。
ノアールの目の前にあるのはただ赤い扉だけ。
その向こうにどこか悲しそうなフィリーが立っているのが感じられて背中が震えた。




