犯行
描写で残酷なシーンがあります。
ご注意ください。
「行こう」
優しく微笑んで差し出される手をすぐに握り返すほど子供ではない。
恥ずかしがっていると向こうから手を取られた。
細くて繊細な白い手。
太陽の光に輝く黄金色の髪。
どこか憂いを含んだ紫の瞳。
幼さと賢さを同時に兼ね備えた少年が導くまま時計塔を見ながら階段を下りて宿場街へと出た。
収穫祭が近いので東門は人の出入りが多い。
少年がはぐれないようにとぎゅっと手を握りしめて引き寄せると人混みの中を縫うように歩く。
少年が慣れた足取りで階段を上ると喧騒は遠のいた。
少し速度を上げながら取り留めも無い会話をする。
その中で時々家族のことを聞かれて不思議に思いながらもそれに答えていく。
王城を左手に見ながら二人は静かな道を歩き、やがて見えてきた開発区にほっと気が緩んで心が弾んだ。
目的地は近い。
「違うよ。こっち」
だが少年は更に奥へと道を選ぶ。
そこで警戒心がやっと生まれ一応抵抗をしたが華奢な体つきでも相手は男だ。
腕を取られて階段を転がるように駆け下りた。
叫ぼうとする口を塞がれて薄暗い路地へと連れ込まれた。
慎重な目つきで少年が辺りを窺いながらずんずんと暗い方へと進んでいく。
手入れがされていない古い木造の家ばかりが隙間なく建ち並び、人がすれ違うのがやっとの路地が普段から道として使われているのを示すかのように玄関らしい貧弱な扉がこちらを向いて作られている。
くねくねと曲がりくねった道は途中で枝分かれしていて、歩き進むうちに方向感覚も距離感も無くなっていった。
なによりも恐い。
不思議な嗅いだことも無い臭いがどこからともなく漂っていて気分が悪い。
陽も射さないのか暗く、じめじめとして空気も重い。
途中で割れた窓の向こうから二人を濁った眼で見ている女や、玄関先の木箱に座り込んだ汚れた服を着た老人がいたが、どちらもちらりと見ただけでなにもいってはこなかった。
「ここだよ」
最近塗られたのか、てらてらとした鮮やかな赤い色の扉の前で少年が立ち止まる。
変則的なノックを何度か繰り返すと中から開け女が顔を出した。
ジロジロと眺めた後で「間違いない」と満足げに頷き首の後ろを掴んで乱暴に中へと引きずり込まれた。
女は少年と同じような金髪を無造作に纏めて灰色のローブを着ていた。
痩せた頬にギラギラと輝く灰紫の瞳が恐ろしい。
顔色も表情も無い。
背後で扉が閉められ鍵をかける音がする。
逃げられないという状況に改めて恐怖が身体を襲う。
ぐいぐいと容赦のない力で引っ張られ台所へと出た。
そこには椅子もテーブルも無く、ただ床にぽっかりと穴が開いている。
食糧貯蔵庫。
縁まで歩かされて足元を覗き込む。
剥き出しの土が四方を囲んだ狭い空間。
立ち上がることも、身を起こすことも、手足を伸ばすこともできない場所。
その中に入らなければならないのだと気づいて慄いた。
後ろ手にされて手首をきつく縄で縛られる。
なぜ?
どうして?
その問いを口にする前に後ろから猿轡を噛ませられた。
そして背中を冷たい手が押し、抵抗できないまま突き落とされる。
肩から落ちて悲鳴を上げたがくぐもった呻き声にしかならなかった。
女の足音が遠ざかり、残された少年が床板を下す。
その瞬間顔を歪めて辛そうに「ごめんね」と謝罪する。
必死で首を振り、目で懇願するが少年はゆっくりと下ろしていく。
部屋の薄暗く乏しい灯りが細くなり、埃と光の残滓が微かに煌めいた後で真の暗闇になった。
ぼそぼそと女と少年の話声が聞こえてくるが、小声で話しているせいか所々しか聞き取れなかった。
父親の名前を強い口調で何度か女が口にしたので、漠然と自分がこうして囚われている理由が父親にあるのだと理解する。
少年は自分の父親とリディアの父親が一緒に働いているので、こっそり仕事場に行って驚かせようと声をかけてきた。
最初は信用できずに断ったが、少年は「そっか」とすぐに引き下がって少し喋った後で帰って行った。
それから次の日もまた現れ、その日は「一緒に遊ぼうよ」と時計塔の近くにある公園で他の子たちと混ざって追いかけっこをして遊んだ。
そして次の日も来て、みんなでかくれんぼをして遊ぶ。
次の日はボール遊びを。
少年は優しくて、物知りだった。
自分の知らない街のことを話してくれた。
リディアは少年を好きになっていたし、初めの頃の警戒心は薄れていたから二人で王城前の広場で父親の仕事の話になり、初めて会った時と同じように父親の仕事場に行かないかと誘われた。
そしてリディアは頷いた。
それが間違いだったのだ。
土は湿って黴臭く、流れる涙が染みて更に冷たくなる。
温かな家と食事、そして家族が恋しい。
父はこの親子になにをしたのだろうか?
恐ろしい、こんなことをするほどのなにを。
「出るんだ」
どれほどの時間が流れたのかは暗闇の中では判断がつかない。
突然床板があげられ角灯の灯りが目を射して眩む。
目を閉じたリディアの腕を乱暴に掴み引きずり出されたけれど長時間同じ体勢を取らされていた身体は固まり痺れ、自分の意志では上手く動かすことができない。
床に投げ出された肌に温かな空気を感じ、痛む目を凝らして周囲を見る。
竃に火が焚かれているようだが、食事の支度をしているわけではないようだ。
女はリディアに背を向けて竃に火搔き棒を突っ込んでいる。
視線を動かしてみても少年の姿はどこにもない。
逃げなくちゃと必死で身体を動かし玄関の方へと移動しようとするけれど、力の入らない四肢は役に立たなかった。
もとより後ろ手にされているので這うことも身を起こすこともできない。
「恨むのならあんたの父親を恨みな」
つかつかと足音が近づき背中を押えられると胸が潰され息が苦しくて涙が浮かぶ。
女は膝でリディアを押え込むと、手に持っていた火搔き棒を床に置いた。
木が焦げる臭いと熱が伝わって全身がぶわっと総毛立つ。
身を捩りながら視線を動かして見ると火搔き棒より短い、焼き鏝だった。
罪人のように焼き鏝を当てられるという恐怖が理性を奪い、リディアは獣のように呻いて足をばたつかせ暴れたけれど口汚く罵る女に焼き鏝の柄の部分で後頭部を殴られ意識がぼんやりとする。
リディアの握りしめていた指を女は力づくで広げ、その掌に熱く熱せられた焼き鏝をぐいっと押し当てた。
「んーっ!!」
やはり悲鳴はくぐもった声にしかならない。
遠のいていた意識はあっという間に現実に引き戻され、熱い掌と皮膚と肉の焼けるどこか甘い臭いがした。
痛みよりも熱さが頭の先まで貫き、涙が勝手に流れる。
猿轡が擦れ、涎を垂らしながら狂乱するリディアを女は楽しそうに眺めていた。
「お前の身体に私の恨みと苦しみを刻みこんでやる。そして永遠に怯え暮らすんだよ」
優しく囁いてから女は立ち上がり、焼き鏝を床に放り投げた。
それを合図に玄関が開き、黒いローブに身を包んだ少年が現れる。
沈鬱な表情でリディアを見て、そして母親を見た。
女は調理台の上に置いてあった包丁を手に少年に歩み寄り手渡した。
その包丁は新品なのか竃の火を受けてキラリと輝く。
「古の力を用いて永遠に汝を捕え縛する。冥界の王の名において汝の魂は我が物なり」
少年が刃に触れ目を閉じ宣言する。
再び目を開くとゆっくりとリディアに近づき周囲を歩く。
「汝の目は我が物なり」
少年が屈みこみリディアの目を覗き込む。
瞳孔が開き、吸い込まれそうになる。
「汝の手足は我が物なり。汝の心も我が物なり。汝の臓腑も我が物なり」
低くなったかと思えば高くなり、流れるように言ったかと思えば厳かになる少年の声は耳から入り脳に染み込んでくる。
「汝の血もまた我が物なり」
少年の白い手が伸ばされ赤黒く焼け爛れた手に触れる。
その瞬間に痛みが漣のように押し寄せリディアは身体をくの字にした。
膝を腹部に引き寄せて苦痛に耐える。
「これをもって血の契約とする」
目の前に血に濡れた包丁が晒された。
赤い色と痛みがそれはリディアの物なのだと否応無く突き付ける。
「冥界の王はずっと見ている。逃れることはできない」呟きながら少年は立ち上がり女と入れ替わった。
入れ替わる時に受け取ったのか女の手には包丁があった。
「――っ!!」
外してくれるのかと期待した時だった。
新たな激しい痛みが襲い正気を失う。
女がせせら笑い耳元で囁く。
「お前が家族以外の大切な人ができた時にまた会おう。その時が大切な人を失う時だ」
肉が抉られる感覚に意識が混濁してくる。
焼けるような痛みから逃れようとするが、それは後から追いかけてきてすぐに取り込まれる。
何度も何度も叫んだが声にはならず助けも来なかった。
絶望と恐怖と痛みだけが傍にありリディアは意識を手放した。
そうするしかなかった。
気が付けばいつの間にか暗闇の中で湿気と黴臭い臭いに包まれていた。
熱いのか寒いのかも解らなくなっていて、リディアは考えることも放棄してただじっと闇を見つめていた。




