朝帰り
強張った肩を回しながら寮の扉を開けると昼食時の騒々しさと熱気が寝不足のノアールを襲う。
普通なら朝と夜以外は出ないのだが春休みの間は寮に残っている学生のために昼食が用意される。
さながら一欠けらの砂糖に群がる蟻のように食堂に集まっている姿をぼんやりと眺めて「すさまじいなぁ」と嘆息する。
ぎゅうぎゅう詰めの食堂には若い力と生命力に溢れていてとてもじゃないがノアールに入り込む隙は無い。
食欲もなかったから階段を上っていくと二日前に紅蓮に呼び止められた踊り場で、ライカが訪ねて来た時に呼びに来てくれた少年と鉢合わせた。
ノアールを認めたとたんニヤニヤと口元を緩ませ好奇心の浮かんだ視線を向けてくる。
嫌な予感に無視して行こうとすると少年は腕を伸ばしてノアールの首を引き寄せ「生意気に朝帰りかよ」とからかいの言葉を口にした。
「違うよ。考えているようなことはなにもしてない」
「別に隠さなくってもいいじゃないか。奥手そうだと思ってたけど案外大胆だな」
笑う少年の腕から逃れようとすると逆に強く絡んでくるので顔をしかめながらノアールはなんとか逃げ道を探す。
しつこく相手を尋ねてくるが答えようにも彼が期待するような返答ができるはずもない。
朝まで一緒にいたのは所長のレットソムだ。
しかも気付いたら机に突っ伏して寝ていて身体中が痛いし、疲れは取れるどころか重なり眉間の奥が痛んで辛い。
「お前モテるからいいよなぁ。知ってるか?学年で三本の指に入ってるんだってよ」
「知らないし、興味無いから」
「お前ホント生意気だなっ」
女の子にきゃあきゃあいわれるのは嫌な気はしないけど周りをうろつかれたりするのは面倒だし疲れる。
学園には勉強をしに来ているのに色恋沙汰で時間を無駄にしたくないといくら訴えても誰にも同意してもらえない。
なげかわしいことだ。
年頃の少年たちには勉強よりも異性に興味が湧くのだろうし、数学の方程式より恋の駆け引きの方が魅力的なのだろう。
ただノアールには数学や物理の方が楽しく大切なのだから仕方がない。
「ちくしょう。なんだって神はこうも無慈悲なんだ」
がっくりと肩を落としてようやくノアールを解放すると少年の出身地は信仰心の厚い国なのか恨めしそうに呟いた。
フィライトを中心とする魔法や科学の進んだ国では宗教という考えや思想はどちらかというと希薄で宗教国は文明が遅れているとみなす傾向が強いのは残念ながら事実だ。
ノアールも宗教という文化に馴染めないがそもそもそれを否定するつもりは無い。
「ただの遺伝だよ。僕の兄さんはどっちも整った顔立ちだし、女性にモテるし」
神が無慈悲だとかそういう問題ではなく、ただの遺伝子の問題だ。
セレスティア家は北の民に多い、透き通るような肌と彫りの深い端正な顔立ちしている。
領地と共にその容姿も子孫に受け継がれているということだけだ。
「あの紅蓮先輩だってこの間女の子が訪ねてきて手紙もらってたぐらいだってのに、なんで信仰深いおれには試練ばかりをお与えになるのかっ!」
くうっと唸りながら嘆く少年の言葉にノアールはパッと顔を上げる。
「ねえ、その手紙ってなんのこと?」
「さあね」
完全に捻くれてしまった少年は聞き返しても素知らぬ顔で唇を突き出しているばかり。
なんとか機嫌を直してもらい手紙を渡した女の子を教えてもらわねばと必死で詰め寄る。
「誰が訪ねてきたのか教えてよ」
少年の袖を掴んで引っ張るが横を向いて聞こえないふりをされた。
いくら考えても普通の少年が望む物を思いつけずにノアールは早々に降参する。
「どうしたら教えてくれる?」
長いため息を吐きだした後でそう尋ねると少年が細い目を光らせて顎に手をやった。
悩んでいるというより迷っているように見える。
何事か呟いて決心をしたのか「ローレンを紹介してくれ」と求められたが紹介して欲しいという相手の名前を聞いても顔が浮かばずに狼狽えた。
「えっと……誰?」
「誰って、お前はっ!図書塔で何度も会ってるくせに知らねぇとはいわせねぇぞ」
「図書塔?」
考えてみるがさっぱり解らず首を捻るノアールを見かねて少年は苛立たしげに図書委員の二年生だと教える。
そこでようやくあの金の巻き毛の知的な少女の顔を思い出し、ローレンという名なのかと今更ながら記憶した。
それよりも目の前の少年がひとつ上の少女に思いを寄せていることが驚きである。
しかも大人っぽく物静かな少女と目の前の少年が釣り合うとはとても思えず戸惑いが増した。
大体紹介するほど仲がいいわけでもないのに。
「でも……」
「誰が訪ねてきたのか知りたいんだろ?」
半ば脅すような口ぶりから逃れようとするノアールを角に追いやり壁に押し付けて退路を断たって鋭い目つきで睨んでくる。
よくよく考えれば思い人を知られた以上少年がノアールを見逃すとは思えない。
ここはおとなしく協力した方がいいだろう。
「分かった。でも上手くいかなくても僕のせいにしないでよね?」
一応念を押して承諾すると少年は必死な顔で頷き、額を近づけて訪ねてきた少女の名をそっと告げた。
「それ……本当に?」
「嘘ついてなんの得があるんだよ」
「ああ。うん。そうだね。ありがとう」
「それより頼んだからな」
次は少年が念を押す番だった。
それに上の空で頷くと少年は軽い足取りで階下へと駆け下りて行った。
ノアールは部屋に戻ろうとして思い止まりくるりと身を返すと来た道を戻る。
寝不足の身体には少々きつい階段を上り切りグラウンドに出ると湿気のある風が海から吹いてきた。
空を見ると黒い雨雲がすごい勢いで陸地に向かってきている。
ぞわぞわする寒気が全身を這いまわる気色悪さに身震いがした。
「……嫌な感じだ」
春の嵐は被害が大きい。
浮足立っている人間をあざ笑うかのように作物を荒し、街を破壊し命を奪う。
稲光が雲の中で怪しく光り、さっきまでの青空が嘘のように上空を灰色に染めていく。
ノアールは駆け出し図書塔へと向かうと入り口は開かれており、受付にいる金の髪の少女が見えた。
どうやら帰郷を終えて戻ってきたらしい。
「あら。こんにちは」
頬を持ち上げてにっこりと微笑むと少女は声をかけてきた。
さっき話に出ていたローレンだと意識するとなぜか上手く応えることができない。
会釈で済ませて中に入り姿を探すが今日は誰もいないのか、ノアールの荒い呼吸だけが広い空間に吸い込まれていく。
「誰か探してるの?」
「ええっと……友達を」
鼻の下を拭ってゆっくりと息を吐き出し、それから同じようにゆっくりと吸い込む。
それでようやく呼吸が落ち着いてきたが探していたセシルの姿を見出せずに焦りが募る。
ここで会えなければ寮まで行かなくてはならない。
だが訪ねて行けばまた面倒なことになりそうでできればそれはしたくなかった。
「友達ってもしかしてこの間の女の子?」
この前の女の子がリディアを指しているので首を振ろうとしたがローレンが「さっき帰ったよ」と続けたので動きを止める。
見事な巻き毛を今日も二つに分けて結び、白い肌に薄らと朱を滲ませた少女がまた美しく笑う。
「彼女って優秀な人ばかりと知り合いみたいね」
「優秀な人?」
「うん。セレスティアくんとそれから今日一緒にいたフィリーも十位以内から落ちたことないし」
ノアールはその言葉に痺れたように固まった。
だがローレンは気づいていないのか楽しそうにお喋りを続ける。
「彼女は魔法都市トラカンの中等魔法学校から推薦を貰ってフリザードに来た子なの。入学してきたときすごく注目されて、技術も学力もかなり飛び抜けてたんだよ。セレスティアくんのお友達の子はいつも難しい本ばかりを見てたからフィリーに色々教えてもらえばきっともっと伸びるだろうね」
どこか羨ましそうな声でそう結び、ローレンが黙ってしまったノアールにようやく気付いて怪訝そうな顔をする。
その顔をぼんやりと見返して震える唇を噛みしめた。
まさかこんな所でフィリーが幼い頃から魔法漬けの日々を過ごしていたと明かされるとは思ってもいなかった。
トラカンの中等魔法学校は五歳から十歳まで魔法小等部で学んだ子供しか入れない所だ。
ひと握りの優秀な生徒だけを育て上げる質の高い授業は望んでも受けられるものではない。
エリート中のエリート。
ノアールだって許されるのならばトラカンで学びたかった。
だが魔法小等部を出ていなければ入れないトラカン中等魔法学校はノアールにとって高嶺の花だ。
「どうかした?」
「……危ない」
ノアールの中で線が結ばれる。
疲労の溜まった脚に鞭打って図書塔を飛び出した。
通路を折れて正面玄関を出ると激しい突風に押し戻され、驚いて空を見上げると厚い雲が蜷局を巻きディアモンドを覆っているのが見える。
いつ降り出してもおかしくない。
「急がないと」
焦りが冷静な判断を奪う。
魔方陣へと行きかけて迷い、進路を女子寮の方へと向けた。
たとえどんな噂を広げられようとも、今はセシルの力が必要だった。
ごうっと音を立てながら風がノアールの髪を乱す。
眼鏡が吹き飛ばされそうになって慌てて押えた。
答えは意外にも近くにあったのに。




