遠回り
影を作る目蓋の窪み、くるりと上を向いている睫毛、薄い唇が微かに開いて小さな白い歯を見せている。
額に張り付いている前髪を払い除けてそっと濡れたタオルを乗せた。
ほっとため息をこぼすと枕元の炎が揺れる。
「……やっぱり熱が」
さっきまで血の失せていた頬が上気していた。
帰り際にアイスバーグは熱が出るだろうから気をつけておいてと言い置いていった。
まさにその通りになってリディアは憂鬱な気持ちになる。
セシルの左腕にしっかりと包帯が巻かれているのをマーサと二人で汚れた服を脱がせて清潔なシャツに着替えさせた時に確認した。
居間から出てきたのはアイスバーグだけでセシルはソファの上で気を失ったようにして眠っていた。
本当は一緒に夕飯を食べようと思って待っていたのだが、仕方なく帰宅していた父にリディアのベッドまで運んでもらった。
それから自分だけ家族と食事をしてセシルの分は枕元に用意し著中で目が覚めたら食べさせることにした。
真っ暗な外が怖くてリディアは窓に厚いカーテンを引く。
部屋の入り口の扉は外されて、何枚もの色とりどりの布がかけられているだけ。
閉鎖的な空間にしないようにせめてもの抵抗。
家具も圧迫感を少なくするために低いものばかり選んである。
出窓に置いてある植物は幸福の木という名の観葉植物。
悪い夢を絡め取り良い夢だけを部屋に招き入れるという遠い国の糸で編んだ網のような飾り物。
夜に眠れないリディアの為に退屈しないように集められた物語集。
部屋のあちこちに小さな皿に油を入れて火を点けた明かりが部屋を揺らめかせながらオレンジ色に染めて、壁に映る自分の影にびくつきながらいつもベッドの上で夜が明けるのを待つ。
そんな孤独な夜が今日だけは違う。
「……ヘレーネに気を付けて、か」
セシルの言葉を思い返してぼんやりと呟く。
ベッドを振り返るとそこに眠る少女の姿が幻想的に浮かび上がっていた。
リディアのせいで怪我をしたセシル。
ヘレーネがセシルを攻撃したのはどうしてだろう?
本当に彼女が六年前の事件に関係があるのだろうか?
それとも他に知られては困る秘密があるのか。
「名簿に無いヘレーネの名前」
秘密を突けば危険が及ぶ。
それは当然だ。
知られたくないから秘密なのであって、それを洩らさないためにはどんな手段でも辞さないのが普通だろう。
セシルはヘレーネの秘密に触れた。
だから怪我をした。
リディアの事件に関係が無かったとしても、そんな無茶な行動をとらせてしまった責任は自分にもあると思う。
「わたしが犯人を覚えていれば良かったのに」
左手を胸に抱き俯く。
どんなに思い出そうとしても片鱗さえも思い出せない。
六年間という時間が記憶を薄れさせているわけではないのだ。
あの時も同じように思い出そうとしたが無理だった。
思い出そうとすること自体が苦しい。
これは精神的な恐怖からなのか、呪いの力なのか解らないが頭痛がして吐き気が込み上げてくる。
できることがない。
あまりに無力だ。
それが嫌で自分で解く方法を見つけるために入学した魔法学園で学ぶのは基礎ばかりの日々。
核心へと近づくのはいつのことだろう?
自信がつくのは?
遠回りばかりでもどかしい。
独りで戦えない自分が愚かで憎い。
「リディ……」
ベッドから名を呼ばれて顔を上げるとセシルが起き上がろうとしていた。
慌てて駆け寄ると枕元からラベンダーの香りがふわりと舞い上がる。
「良い匂い」
「鎮静効果のあるラベンダーの香油が混ぜてあるから」
ベッドの傍にある丸テーブルの上で揺れる白い皿を指差し教える。
それから用意していたセシル用の食事を小さな銀の盆に乗せたまま持ち上げてベッドへ置く。
米と麦を牛乳で炊いた物と木苺のムース。
「食欲はある?もっと食べられそうならマフィンをマーサが焼いてくれてたから持ってくるけど」
「うん。食べる」
尋ねると素直に要求してきたのでリディアは立ち上がり入り口の布を寄せて廊下へと出た。
離れる瞬間にベッドを見るとスプーンを掴んで嬉々として口に運んでいる姿が見えたので安堵して進む。
食欲があるのなら大丈夫だろう。
熱もすぐに下がるはずだ。
リディアは二階の自室から台所へと向かい、大きな作業台の上乗せられたマフィンを目指す。
マーサが掛けてくれていた白い布巾を退けると、紙の型に入れられて美味しそうに焼かれたマフィンが三個皿に並んでいた。
布巾を広げてその上にマフィンを置き軽く包んで持ち上げて、ちらりと目を走らせると作業台に乗せられていた油皿の油は残りが少なく芯が短くなっていた。
そう長く持たないだろう。
セシルの目が覚めるのが遅れていたらマフィンを取りには来られなかった。
グズグズしていると火が消えてしまう。
急ぎ足で来た道を戻り部屋に入るとセシルはベッドから抜け出して、出窓の幸福の木を物珍しそうに見ていた。
テーブルの上には食べ終えられた食器の乗った盆が置かれ、水差しの水を飲んだのかコップの横に少量の水が零れている。
「セシルまだ寝てないとだめだよ」
「マフィンは?」
布団の上に飛び乗ってセシルが催促する。
呆れながら布巾を差し出すと目を輝かせて受け取り、胡坐をかいて膝の上で広げさっそくひとつ頬張り左手でリディアの分を取り突き出してきた。
断ろうとしたがあまりにも美味しそうに食べている姿に誘われてつい手を出す。
「ブルーベリーだ」
中に入っていたブルーベリ-のジャムに歓声を上げてセシルが赤い頬を緩めた。
リディアも香ばしさと甘さに癒される。
マーサのマフィンは触感を楽しめるように刻んだナッツ類が生地の中に入っているのだ。
だから香ばしさと甘さに時折ナッツのカリッとした触感が良いリズムを生む。
そして中央に特製のブルーベリージャムが待ち構えている。
「マーサは本当に料理上手なの。収穫祭の時に焼いてくれるチェリーパイは最高なんだから」
リディアがまるで自分のことのように自慢すると、驚いたように瞬きそれから破顔してセシルは頷いた。
そして指に着いたジャムを舐めながら「毎日食べられるなんてリディアが羨ましいね」とぼやく。
「ママも美人で優しそうだし」
「そう?ありがとう。セシルのママはどんな人?」
「死んだ」
素っ気無いほどの口調で感慨も無く死んだと言われてリディアは心臓が三度打つ間ぐらい思考が停止した。
セシルが不思議そうに首を傾げて「どうかした?」と問う様子は母親が死んで、いないのだという人間の悲しみは感じられない。
「えっと、ウソ?」
「ほんと」
あっさりと否定されて混乱する。
自分の母親が死んだとしたら今のセシルのように話すことはできないだろう。
どうしてセシルは軽々しく口にできるのか。
「リディは幸せだね」
目を伏せて皮肉を混ぜたような声で笑う。
そういえば兄弟の話をした時に家族のことを聞こうと思ったら話を変えられた。
あの時に気付くべきだったのだ。
セシルは家族に対していい思い出が無いのだと。
「ごめん。わたし」
上手な言い訳の仕方も対処の仕方も知らない。
ただ謝るしかできない自分が情けなかった。
愛されて育つ子供ばかりではないのだと解らないほど世間知らずではないが、想像ができるほど他の家族や現実を知らない。
セシルは最後のマフィンを無言のまま食べ終えてようやく「親を憎まずに済んでいるから今の所あたしも幸せ者だ」と口にした。
親を憎むという言葉はあまりにも攻撃的でリディアは恐ろしさに身震いする。
「リディが思ってるような過酷な環境で育ったわけじゃないよ」
可笑しそうにセシルは肩を揺らしてリディアを見つめる。
だがその言葉を素直に信じるほど愚かではないつもりだ。
彼女から幸せな家族の匂いは全くと言っていいほど感じられない。
生活感が無いのだ。
浮世離れしたヘレーネとは違う意味で日常の積み重ねというものが見えてこない。
特殊な環境で生きてきたのは間違いないだろう。
「退学させたりしない」
「リディア?」
学園を辞めさせられたらセシルとは二度と会えない。
ディアモンドを出て行ってしまったら探しようがないのだ。
名簿に載っている親の所に戻るとは思えないし、日ごろから行動の読めないセシルの行方を追うことは難しいだろう。
それならばできることは退学を回避することしかない。
学園に引き止めておかなくては、セシルはリディアの元からいなくなってしまう。
「いやなの。絶対に退学なんてさせないから」
「……それは友達としていってる?」
「!?」
思わず唇を押えて息を飲んだ。
セシルがいなくなることに怯えて必死で繋ぎ止めようとしていたことに今更ながら気付く。
無意識だ。
一番恐れなければならない、注意しなければならない自分の中の敵。
既に危険な目にあわせてしまったセシルを更に追い込むことになる。
「リディアにいっておかなきゃならないことがある」
布巾をテーブルに置いてから座り直すとセシルはピンク色の膝を抱えてため息をつく。
口を開けばまた無意識に引きずられて感情が溢れだしてしまいそうで怖かった。
だから顎を動かして先を促した。
「リディは呪われてるんじゃない。暗示にかけられてる」
告げられた内容を受け入れられずにリディアは首を振った。
激しく動かして目の前にいるはずのセシルの姿がぶれて見えなくする。
「誘拐された後でドライノスに診てもらったんだよね?」
確認されたので仕方なく頷いた。
セシルは膝の間に顎を乗せて気乗りしないというように話を続ける。
「ドライノスは暗示だとすぐに見抜いた。でもリディは頑なに呪いだと信じていたし、両親はドライノスの進める治療を拒んだ」
「だって……呪いをかけられたわたしが言ってるのに信じてくれないんだもん」
今と変わらない冷たく事務的な態度でドライノスはリディアにそれは呪いではないと答えた。
そして両親に説明した治療法は失われた記憶を呼び覚ます薬を飲むことだった。
ただし選んだ記憶だけを取り出すことは難しく、無秩序に思い出された記憶が次から次へと蘇り激しく混乱を伴う治療だ。
両親は拒み、そして自分にかけられているのは暗示ではなく呪いだと信じているリディアも薬を嫌がった。
「事件についてなにも覚えてないリディの言葉をどうして信じるの?あたしは最初から疑ってた。だから呪いじゃないってすぐに気付いたよ。ノアールは信じてたけどね」
「そんな」
「でも調べたら暗示の方が質が悪かった。呪いならリディの大切な人を奪うのは魔法の力だけど、暗示なら大切な人を奪うのはリディ自身になるんだから」
動揺するリディアが立ち直る前にセシルは次から次へと言葉を繋ぐ。
頭が理解する前に知らされる情報が真実なのか考えることもできない。
「暗示を解く方法はかけた本人が解く場合と、かけられたリディが暗示だと受け入れ使われた鍵となる言葉を思いだすことしかない」
「鍵?言葉?」
「ノアールは犯人を捜してる。でもきっと難しいし時間がかかる。リディアはそれまで待つことができる?」
六年間待てたのだから何年でも待てるはずだ。
なのに頷けない。
待てると断言することができない。
さっきの無意識が怖い。
揺れ動き不安定な感情が行き着く場所が破滅へと向かっているような気がする。
独りは寂しい。
苦しい。
差しのべられたセシルの手は温かかった。
「ドライノスは遅すぎる対応のギリギリのラインだっていってた。リディが自分で判断して飲んで」
掌を上に向けられて乗せられた小さな薬瓶は緑色の美しい硝子でできていた。
硬質な感触だが硝子自体はセシルの体温で温められていて優しい。
「本当に呪いじゃないの?」
「あたしとノアールを信じて」
セシルはドライノスではなく自分達を信じろといっている。
呪いではなく暗示だとしたらリディアが大切な人をこの手で奪ってしまうのだ。
遠回りだ。
ここで薬を飲めば記憶が蘇り犯人に近づける。
恐れて飲まなければなにも解決はしないし、先へも進まない。
飲めばかけられたのが呪いなのか暗示なのかはっきりするだろう。
自分ばかりが安全な道を行くことはもうできない。
したくない。
「飲むよ」
決心して蓋を開けるとセシルは苦痛にゆがんだ顔で天井を仰ぐ。
そのままで「飲めばリディの頭の中は十五年間の記憶でいっぱいになる。混乱して戻ってこられなくなるかもしれない。それでもいいの?」と最終確認してくる。
「飲む」
言い終わる前に瓶を口に当てて呷った。
味は無い。
量は二口分。
喉を通る時に温い感触を水のような液体がするりと胃に到達する。
ラベンダーの香りが動いて熱い腕がリディアを引き寄せた。
「あたし……リディアとノアールに出会えてよかったよ」
「これで終わるから。二度とわたしを、わたしの回りの人達を傷つけさせたりしない」
ぎゅっと瓶を握りしめてリディアはセシルの肩に頬を乗せた。
視線を下せば鋭利な刃物で斬りつけられた傷がある。
その場所を眺めながら祈るように。
「ねえセシル。もしわたしが誰かを傷つけようとしたら止めてくれる?」
「……それって相手はあたしじゃない場合だよね?リディはあたしを大切な人に選んでくれないつもりなの」
拗ねたように呟きセシルは腕を放して顔を覗き込んできた。
炎が揺れて部屋全体が輪郭を失ったように薄れていく。
セシルの声はまだ続いているのにどこか遠くで話しているかのように聞き取れない。
どこか責めるような響きがあるのだけが解った。
似たようなことが最近あったと気づく。
唇が動きセシルがまだなにかいっているのに耳が、脳が動くのを止めたかのように理解できない。
視力だけが霞みながらも像を結ぶ。
「セシル……どこにも」
行かないでという言葉は音を持つことができずに口の中で溶けた。
自分が泣いているような気がしたが確かなこととは思えない。
そうだ。
学園で倒れた時にフィリーが同じように何度も何度も繰り返し伝えようとしていた。
取り乱し聞こえないリディアに「ごめんなさい」と。
突然暗転してまた独りぼっちの世界に放り出された。




