守秘義務
差し出された木の椀を受け取ってノアールは礼をいう。
温かな湯気を立てているトマトと米を煮込んだ粥に感動して顔を上げるとレットソムが不思議そうに「どうしたぁ?嫌いなのか?」と首を傾げる。
「違うんです。逆です」
「そうか。俺の唯一の得意料理だからなぁ。味わって食えよ」
「いただきます」
大きく息を吸ってトマトの甘酸っぱい香りを楽しんでからスプーンで掬うと、赤いスープの中から米とズッキーニが現れる。
口に頬張るとズッキーニの独特の匂いがトマトの酸味と絶妙に混ざり合って広がって、コーンと細かく刻んだトマトが目にも御馳走だ。
「カメリアはズッキーニが嫌いだからなぁ。食べてくれねぇんだわ」
残念そうに言いながらも自分も美味しそうに手を動かしている。
ズッキーニを嫌うカメリアは仕事を終わらせてとっくに退社していて狭い事務所には所長と学生の二人しかいない。
こんな風に門限を過ぎた後は帰れずに紅蓮も事務所で食事をしたり寝たりしているのだろうか。
時間は門限から軽く三時間は経ち、外の方では歓楽街特有の喧騒と嬌声が轟いているようだ。
大人達の一時の快楽や刹那的な出会いを求める刺激的な時間は事件を調べているノアールの真剣さとは裏腹に深まっていっている。
「どうしてここに事務所を構えたんですか?」
素朴な疑問はレットソムに苦笑いを生んだ。
歓楽街の路地を入った解り辛い立地条件は仕事を持ち込む人達には不親切だろう。
「ここが一番必要としているからだな。多分」
夜が更ける程に目が冴えてくるのかレットソムははっきりと喋るようになった。
眠たげだった目蓋も心なしか持ち上がり翡翠のような瞳がよく見える。
「一番必要としている?」
「そうだ。俺たちは何でも屋とか便利屋とか呼ばれている仕事をやっている。つまり困っている人に金で雇われる。普通の生活をしている者にはまず必要とされない。こういう人がたくさん集まる所は色んな諍いや事件が起こる。役人を呼ぶよりも俺たちの方が速く駆けつけるから必要とされるんだな」
スプーンを銜えたまま説明して右手でわしわしと坊主頭を掻く。
確かに諍いや事件は商店街や住宅地、広場ではここに比べて少ないかもしれない。
酒が入れば人は気が大きくなりちょっとしたことで喧嘩を始める。
「喧嘩の仲裁が主な仕事なんですか……」
「そういう仕事も多いな。だが本当にくだらない仕事もいっぱいある。例えば近所の猫が入り込んできて夕食の魚を盗んでいくのをなんとかしくれとか、背中にできた湿疹に薬を塗ってくれだとかな。蜂に刺されたとかで針を抜いてほしいっておっさんの尻を前にした時には正直廃業しようかとも思ったが……好きなんだよ。こういうなんでもない仕事をするのが」
「医者に行けばいいのに」
蜂に刺されたのならば普通は医者に行くだろう。
それをしないで厄介事万請負所にわざわざ依頼するとは。
レットソムは大笑いした後で「だよなぁ」と頷く。
「でもそういう奴らがいてくれるから俺たちは生活ができるってわけだ」
「……そんなもんですか?」
納得できずに首をひねるノアールに軽い口調で「そういうもんだ」と返す。
食べ終えた食器を持って立ち上がると近寄ってきてノアールの分まで取り上げ応接室の方へと入って行く。
どうやらそちらの方に水回りも設置されているようだ。
食事も奥の方から用意して持ってきたから事務所は狭いが奥の方はそこそこ広いのかもしれない。
ノアールは目の前の資料に再び集中する。
事件の内容と調査の結果が事細かに書きつけられ、地図や証言、目撃された少年の人相書きまで載っていた。
リディアの左手に残された傷のことや焼き鏝の絵まで描かれている。
犯行を行えそうな人物の名前は実に五十を超えノアールを驚かせた。
受け取ったメモには二十強と書いてあったのはある程度絞られた後の数だったのだと気づく。
これほどの人達に怨まれていたのだと思うと背筋が凍える。
リディアはあの事件の時に殺されていてもおかしくは無かったのだ。
セシルの「あの時殺されていれば苦しみは少なかったかも」という言葉が思い出されて更に気が滅入ってきた。
「はかどってるか?」
戻ってきたレットソムが声を弾ませて聞いてくる。
それに眼だけを上げて顎を横に振ると「だろうな」と嬉しそうに頷く。
「容疑者を絞り込むために必要な情報は載ってるだろ」
「はい。まず目撃された少年を実子だと仮定してその年頃の息子がいる人物を選ぶ」
そこで人物の名前が大体半分ほどに減る。
レットソムは腕を組んでノアールの作業を見守っている。
緊張しながら読み終えている資料の情報を元に更にその中から十人ほどに絞り込んだ。
「犯行の動機が弱い人を排除してこの人数……。それから目撃された少年の髪や目の色から絞って」
「五人だな」
残された五人はそれぞれ会社が倒産して全てを手放してしまっている。
現在ディアモンドに住んでいる者は誰一人としていない。
「この中で奥さんが亡くなった人と娘さんを娼館に身売りした人、それから本人が自殺した人を選んで三人」
その三人の名前をじっと見つめる。
考えているとエディルの顔が浮かんできた。
肩の荷が下りたようなそんな表情でもうすぐ全てが終わると告げた声。
なぜ紅蓮はリストへ行った?
なにをしに行ったんだろう。
紅蓮は依頼人に直接頼まれた仕事だといっていた。
でも朝会った時には仕事で出かけるとはいっていなかった。
つまり依頼人はノアールがセシルとリディアの家に行っている間に来たことになる。
そして紅蓮は仕事を引き受けた。
誰が紅蓮を訪ねてきたのかは寮生に聞けば解るだろう。
エディルがもうすぐ終わるといっていたのは紅蓮がリストに行ったからではないだろうか。
もしかしてリストに犯人がいる?
「テミラーナ氏はこの件から手を引けといわなかったか?」
唐突に耳元で鋭い声が聞こえた。
弾かれたように顔向けると厳しい表情でレットソムが見下ろしていた。
「もうすぐ全てが終わるといわれました」
正直に答えるとレットソムは嘆息して目を覗き込んでくる。
その強い眼差しは真っ直ぐにノアールを捕えて逃がさない。
ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込み、恐る恐る唇を動かした。
「それでもリディアのためになにかしたかったんです。まさかこんなにも強い執念で縛っていたとは思っていなかったから驚いたけど……あの暗示はひど過ぎる。リディアが一人で犠牲になる必要なんてないのに」
「お前は紅蓮が信用できないか?」
「え?」
思わず聞き返すとレットソムは顎を撫でながら薄く笑った。
もう一度「できないか?」と問われて悩む。
紅蓮本人は信用に値する男だと思ってけど紅蓮が行動している内容について情報が無い今はなんともいえない。
返答に困っていると「なんだ。あいつ。信用ねぇなぁ」と肩を揺らして所長が笑う。
「今あいつはリストから戻ってきている頃だ。紅蓮はちゃんと仕事をするし、約束は守る奴だ。まあちょっと抜けてて記憶を落としてきちまったりするけども、今回の仕事はそんなに難しいことじゃない。手紙を届けて相手を連れて来るだけだからな」
「守秘義務があるんじゃないんですか?」
「今更だろ?で。どうだ?」
改めて信用できるかと問われればノアールは頷くしかない。
余程のことが無い限り紅蓮は手紙を届けて、その誰かを連れて戻ってくるだろう。
でもそうじゃない。
「僕には僕にできることをやります」
再び候補の名前に取り組む。
やりたいからやるのだ。
きっとみんなで解決へと努力すれば良い結果を出せるはずだ。
「……魔法学園卒業者はこの中にいますか?」
「いない」
即座に返される言葉にノアールは頭を抱えた。
高度な暗示をかけられる技術をどこで身につけたのか。
それが解れば犯人を特定できるだろう。
だがそんな簡単に犯行がばれるようならとっくの昔に捕まっているはずだ。
だがエディルには犯人の目星がついていた。
本当に?
マーサが犯人に心当たりがありそうだといっていただけで、本人はなにもいっていない。
「テミラーナ氏は犯人捜しを依頼していたんですよね?」
「ああ」
「犯人の行方を捜していたんですか?それとも犯人を捜していたんですか?」
「どうしてそんなことを聞きたがる?」
ぶすっとした顔でレットソムが近くの椅子を引っ張り出して座った。
ノアールは資料に並んでいる五十人の名前を見ながら「どっちですか?」と再度確認する。
「守秘義務だ」
「今更でしょ?」
「ああ!!可愛くねぇな。お前」
「……ありがとうございます」
セシル流の返しで苦笑するとレットソムはやはり「褒めてねぇよ」と下唇を突き出す。
皮肉かよとブツブツ呟きながらも諦めたように前者だと答えた。
やはり最初から目星はついていた。
それでも一応可能性として高い者の名を調べたのだろう。
もしくはカムフラージュ。
偽装する必要があるのなら更に犯人は絞られる。
相手は親しい人間。
だからこそエディルは犯人探しに難色を示したのだ。
「……ルクリア・ファプシス」
彼女の旦那は自殺している。
しかもエディルと修業時代に一緒に学びライバルとしてお互い一目置いていた間柄だ。
二十歳で独立したエディルとは違い二十八歳まで修行し独立したのは遅かった。
修業時代の稼ぎの悪い頃にルクリアと結婚し息子も生まれている。
そんな苦労させた妻子にようやく楽をさせてやれると意気込んでいたが、エディルが事業の拡大を計り三年後に倒産。
多額の借金を苦に自殺。
ルクリアとその息子はディアモンドを出て行方が分からなくなっている。
息子の髪も金髪で年齢も申し分ない。
「紅蓮はどんな感じだ?」
考え事に没頭しているノアールをレットソムの声が現実に戻す。
振り返ると真剣な様子で答えを待っていた。
「どうって……よく食べて、よく動いて、よく喋ります。元気です」
「楽しそうか?」
「勉強は嫌いみたいですけど。大体は楽しそうです」
「そりゃよかった」
ようやく安堵したように呟きレットソムがため息を吐く。
学園生活を心配されるとは紅蓮の勉強嫌いはここでも有名らしい。
逆にノアールが聞きたいことがあったので尋ねることにした。
「紅蓮は記憶を失っても困ったりしてないけど、たったひとつだけ思い出したいことがあるっていってました」
「ああ……あれか。欲しいものだろ?」
やはり知っているようだ。
ノアールは前に一度だけ思い詰めたように紅蓮がこぼしたのを覚えていた。
どうやら記憶を失う前の紅蓮にはどうしても欲しいものがあったらしい。
それが厄介事万請負所でバイトを始めたきっかけだった。
だが全てを忘れてしまった紅蓮にはそれがなんだったのか解らない。
それがなんだったのか知りたいと切実に思っているようだった。
「もしかしたら所長さんなら知っているかと思って」
「知らねぇな」
にやにや笑いながらレットソムは嘯く。
知らないわけが無い。
だが紅蓮にも教えない昔の記憶の欠片をノアール教えてくれるとも思ってはいなかったので素直に諦めた。
レットソムが時機を見て紅蓮に教えくれればそれでいい。
「あいつはなににも変わってない。記憶を失う前も失った後も本質的なものはなにひとつ変わっちゃいない。だからあいつは誰が教えなくてもその欲しかったものに辿り着くよ」
誇らしげに笑って指を突き付けて「絶対に」といい切った。
紅蓮はしっかりとこの事務所に居場所を作っている。
そして受け入れられていた。
その暖かい場所を羨ましいと思う。
自分にはそんな場所があるだろうか?
遠い実家を思い出してみるがそこは違う気がした。
学園、クラス、寮。
そのどこにもないような気がして寂しくなる。
不安になる。
「だからお前もきっと辿り着く。探していればな」
「……はい」
なにに辿り着くのか解らないがレットソムの激励はノアールの背中を押してくれた。
取り敢えずなにを目指していくのかを探さなければならないなと確認してひとり頷いてみた。




