成功を祈る
ベッドの上で寝返りを打ちゆるゆると息を吐き出す。
昔の先輩たちが残した天井の汚れや染みから逃れるように壁を見るがそこにもなんらかの傷や落書きが残っている。
両隣の部屋には誰もいないのか静かだが、階下の方からは楽しげな声が聞こえ、天井よりもずっと遠く高い所からは球技に勤しむ怒声と歓声が風に乗って聞こえてくる。
身体が怠い。
時間は昼を過ぎているのになかなか起き上がれない。
昨日紅蓮を追いかけて階段を駆け上ったりしたせいか脚がひどく痛い。
ただ身体が動かないのは筋肉痛が原因ではなく微熱があるからだ。
食欲も無い。
ぐったりとして寝ているノアールを心配して声をかけてくれる友人は紅蓮ぐらいしかいないのに。
その友人はあろうことか紅蓮にとって鬼門であるリストへ行っている。
一年前に同じように出かけて行っただろう紅蓮は、三日で戻れる距離を八か月もかかって戻ってきた。
リストはディアモンドの東にある村といってもいいような小さな町だ。
主な産業はなく、魔法具の研究や売買盛んな魔法都市トラカンに向かう北の街道と神聖国である隣国キトラスへと続く東の街道の交わる場所として旅人たちが落としていくささやかな金で成り立っているような町。
紅蓮は荷運びの仕事を頼まれてそのリストまで向かった。
難しい内容でもないし、危険な道中でもない。
それなのに荷物を運び終え町を出た後、忽然と姿を消した。
所長は手を尽くして探そうと動き、国は人を出し、魔法学園側も探知魔法や遠見の魔法を使って捜索したが行方は知れぬまま。
やがて捜索の手は緩み日々は過ぎて半ば諦めかけていた頃、王城前の広場をぼんやりとうろついているところを城門の警備している門番に保護された。
幸運なことに記憶も持ち物も一切失っていた紅蓮が魔法学園の生徒だとすぐに解ったのは、その門番が八か月前に紅蓮の捜索に関わっていたからだ。
それが無かったら紅蓮は学園にも戻れず、どこの誰だか未だに解らずにいたかもしれない。
「リスト……」
近くて遠い町に感じられる。
無事に戻ってきて欲しい。
ちゃんと記憶をどこかに置いてきたりせずにノアールのことを忘れずに。
そういえばリディアのように一部の記憶を失うのと、全ての記憶を失うのではどちらが辛いのだろうか。
こんな風に感傷的になるのはきっと調子が悪いからだ。
憂鬱な気分のまま寝返りを繰り返しているとぶしつけなノックの後に遠慮なくドアが開けられた。
「ノアール!客だぜ」
クラスは違うが同じ学年の少年だ。
無類の賭け事好きで一階の遊戯室でいつもトランプやチェスをしている。
もちろん金や物を賭けて。
細面に目が細くつり上がっていてきつめの顔立ちになりそうなところを眉が垂れているおかげで愛嬌のある顔になっている。
その顔を見るために体を起こして「客って……?」と尋ねる。
セシルだろうか?
もしそうなら部屋まで遠慮なく押しかけてくるだろう。
だが入り口にいるのは一人だけだ。
「下で待たせてるけど、あれは二年のライカだな」
「二年生?ライカ……?」
知り合いではない。
名前も初めて聞いたし、二年生で知っているのは紅蓮だけだ。
あとは昨日知り合ったヘレーネとフィリー。
なかなかベッドから出てこないノアールに痺れを切らして「なんか急ぎの用だっていってたぜ?」と腕を組んでいる。
「お前ライカになにしたんだよ?」
急ぎの用と急かされてノアールは渋々床に足を下し探るような目をした少年の横を通りながら「解らない」と答えて通り過ぎる。
まだ足元がふらふらするが仕方がない。
背中まである長い髪を手櫛で整えながら階段を下りていくと、見知らぬ上級生が重い玄関扉の前で立って待っていた。
「おう。お前がノアールか?」
いかにも悪そうな目つきでじろじろと睨むように見てくる三白眼に怯みながらノアールはただ頷くしかなかった。
「俺が頼まれてわざわざ来てやったんだ。ありがたく思いやがれ」
押しつけがましい言い方は好ましくないが、雑に切られた緑にも見える黒い前髪の下から覗く赤茶色の瞳には剣呑さは無く、ただ明るい活力に満ちた輝きがある。
歯並びの良い白い歯を見せて笑うと褐色の肌の左頬にある傷が歪む屈託のない笑顔は悪くない。
ガラが悪いというよりは悪戯小僧に近い雰囲気だ。
「あの……誰に頼まれて来たんですか?」
さっぱり解らない。
ノアールはまだぼんやりとしている頭を軽く振って尋ねるとライカは眉を片方だけ跳ね上げて「あれだあれ。厄介事万なんとかってとこの親父だ」と答える。
そして前開きの上着の襟を重ねた不思議な服の袷から畳んだ紙を取り出す。
受け取り中を確認するとリディアの父親のことが書いてあった。
角ばった字できっちりと書かれているが調査書とは違い散文的でメモに近い。
「ありがとう」
紙を畳み直して素直に礼を言う。
ライカは「良いってことよ」と快活に笑い右手を差し出した。
その仕草の意味が解らずにぽかんとしていると「駄賃寄越せ。俺はただ働きはしないんだよ」と催促された。
「ええっと……今は持ち合わせがないから」
部屋で寝ていた格好のままで降りてきているのだ。
急に金を請求されても困る。
ノアールは取りに戻ることにしてライカを待たせて部屋へと戻る。
脚が怠くて重い。
だが身体を動かしたからか微熱による倦怠感は無くなっていた。
戻ったついでに着替え、襟の高いシャツを着て細身のパンツを穿く。
靴を履いてから髪を束ね、財布を持って部屋を出た。
すぐには一階に下りずに各階にある洗面所へと行き顔を洗うと更に気分がよくなる。
顔色も昨日よりはましに見える。
鏡の向こうにいるどこか頼りない自分を振り切るようにして階下に戻った。
「さっきよりはましな格好だな。早起きは三文の徳っていうのに」
「三文……?聞いたことない言葉だ」
「だろうな。東の最果ての小さな島国の言葉だかんな」
大陸の東の端より更に海の向こうの島国の話はノアールも聞いたことがあった。
そこはとてつもなく遠く、辿り着くのが容易ではない国らしい。
国交を結ぼうにも上陸許可も出さず、独自の文化を形成しており着る物や言葉も特殊なんだそうだ。
進んでいるとは言えない閉鎖的な島国だが魅力も多く、何とか交流し輸出入したいと考えている貿易商も後を絶たないらしい。
「ライカさんはそこの出身なんですか?」
「俺は生まれも育ちもディアモンドだが、じいちゃんは生粋」
「……すごいっ!」
黒とも紺とも違う色の上着は丁度尻が隠れるくらいで、よく見ると前と後ろで分かれており、横を縫っていない物だった。
前身頃を胸の辺りで交差させて朱色の長い帯で締めている。
下のパンツはゆったりとした生成りの物で足首の部分を絞ってある珍しいデザインだ。
「これは俺流に着崩してるけどな。本場はもっと違うらしい」
「……その色すごく綺麗だ」
見たことが無い青とも黒とも違う色。
感動しているノアールに「藍染だ」と教えると顔を顰められてしまった。
「ところでなんでそのエディル=テミラーナとかいう奴を調べてんだ」
話題を変えようと必死で搾り出したのだろう。
ライカが突然リディアの父親の名前を口にした。
「盗み見たんですか?」と責めるとニッと笑って「べつにいいじゃねえか」と開き直る。
そういう所がなぜか憎めなかった。
「六年前の誘拐事件の犯人を捜してるんです」
「あん?でもエディルってのは誘拐された子供の親だろうが」
「……ライカさん事件の事詳しいですね」
説明するまでも無く六年前の誘拐事件がリディアのことだと解るのは少し意外だ。
当時は街を騒がせた事件だったろうが六年も経てば関係の無い立場の者は忘れてしまう。
それを父親の名前だけで言い当てた。
意外というよりも異常ともいえる。
「俺も関係者だからな」
「え!?」
ひょいっと肩を竦めてなんでもない事のように吐き出された言葉は信じられない物だった。
ノ アールが上擦った声を出したのをライカはカカッと声を上げて笑うと「俺目撃者」と自分を親指で指す。
「あの日誘拐された子供が十歳ぐらいの男と手を繋いで歩いてるのを見た」
何度も役人に聞かれ誘拐された子供の名前もうんざりするほど耳にしたのだろうから、それは覚えていても不思議ではなかった。
でも誘拐犯が子供だとは――。
「違う。子供がいる親が犯人」
自分の子供を使って警戒させずに誘拐したのだ。
もしくは無関係の子供を利用したのか。
リディアにかけた高度な暗示の技術を使えば簡単だろう。
「今更犯人探しとはどういう了見だ?」
「言えない」
静かに顎を横に振って拒絶する。
財布の中から銅貨を一枚取り出して握らせるとノアールは玄関から外へと出た。
今日も天気がいい。
昼まで寝ていたために太陽は西に若干傾いているが、澄んだ青空と暖かい空気が心地よかった。
昨日紅蓮を追いかけて駆け上がった階段をゆっくりと上り、グラウンドの端を歩く。
寝ている時に聞こえていたとおりグラウンドでは楽しげに運動している寮生たちがいた。
いつもなら本棟に入る正面入口へ向かう所だが今日は校門の方へと足を向ける。
その途中でちょうど中庭の方から歩いてきたセシルと出会う。
「今日は気分どう?お姫さま」
いつものようにからかいながら手を上げるセシルに一応不服そうな顔をし向けてから「お陰様で」とだけ答えた。
「今日は図書塔じゃない?」
珍しいこともあると笑った後にセシルが表情を引き締めてからノアールの耳元に唇を寄せた。
また悪ふざけかと身構えるとくすりと苦笑する気配がして「ヘレーネに気を付けて」と囁いた。
「ヘレーネに?」
「昨日から探ってるけどどうもおかしいんだ。全く手がかりが無い」
「……気のせいじゃないの?」
「名簿にも名前が無かった。フィリーのはあったのにヘレーネのは無い」
「名簿に名前が無い?」
そんなはずは無い。
大体は入学する時に簡単な身元調査のような物を提出する。
そして担任が所有するクラスの名簿には両親の名前や住所、持病があれば病歴も載っていて生徒になにかあった時に対処するための大切な名簿だ。
その名簿にヘレーネの名前が無いとは考えられない。
有り得ないのだ。
「それより……教員室に忍び込んだの?」
「一応見せてもらいますって言った。誰もいなかったけどね」
悪びれもせずに認める。簡単に生徒の目に触れるような所に置いてあるわけではないので、きっと忍び込んだ挙句に鍵も開け中身を見たのだろう。
危ないことをする。
見つかればただでは済まされない。
「とにかくどこにもヘレーネに関する個人情報は無い。まるで隠蔽されてるみたいに」
肩を竦めて見せ別段困ったような素振りもせずに「お手上げかな」とこぼす。
「そういえば……ヘレーネはセレスティア家のことをなんであんなに知っていたんだろう」
「ノアールの実家のこと?」
「実は後継者問題で揉めてるんだ。遠く離れたディアモンドに住んでるヘレーネがその事を知っているはずもないのに知ってた。なんか他にも知ってそうな口ぶりで……」
継ぎたいものが継げばいいといった言葉が耳に甦る。
その声がひどく物憂げで投げ遣りだった事も思い出す。
まるで権力争いなど辟易だと言わんばかりに。
もしかしたらヘレーネも望まない後継者争いに巻き込まれているのかもしれない。
あんなに上等の衣服を身に着けているぐらいだからかなりの身分の争いなのかもしれない。
「とにかくヘレーネには気を付けて」
再度言い含めるように告げてセシルは「いいね?」と念を押すのも忘れない。
それに頷いてからこれからどうするのかと尋ねると、にやりと笑って「諦めない」と図書塔の方を指差した。
正確に言うと図書塔の向こう側。
西棟を差している。
それが意味していることを理解するのには時間がかかった。
諦めないという言葉はヘレーネの素性を探ることであり、名簿には載っていない情報を得るためには学生課の奥に保管してある重要書類や資料室のある部屋に行けばいい。
そこは生徒が立ち入ることのできない場所。
偽りの資料や改竄や隠蔽は無い。
「セシル。それはまずい」
「あたしには恐いものなんかないから大丈夫」
「でも……見つかれば間違いなく」
「退学」
平然と言い放つセシルが信じられない。
紅蓮が再び記憶を失うかもしれない旅へと出て行ったことよりも更に理解できない事だった。
ノアールは魔法や勉強が大好きでどうしてもこの魔法学園に入学したかった。
憧れの学園で好きなことが出来る日々は何物にも代えられない物だ。
それを平気で手放してもいいとは。
「あたしは来たくてここに来たわけじゃないからね。退学なんて怖くない。それにあんな食い意地の張った女ばかりの寮からも解放されたい」
それは昨日聞いた。
自分の意志で入学したわけではないと。
でもそこで出会ったノアールのことやリディアの事を簡単に切り離してしまえるのは辛い。
悔しいのだ。
とてつもなく。
ノアールは元々交流関係が広い方ではないし、友達も積極的に作ろうとは思わない。
それでも知り合った人達との繋がりは大切にしたい。
「そんなに心配しなくても見つからなきゃいいんだし」
「……やるからには失敗しないように」
「解ってる」
明るい笑い声を残してセシルは手を振って正面玄関に入って行く。
その後ろ姿を見送ってから、心の中で無事と成功を祈った。
それから自分もやらなくてはいけない事をしようと気合を入れ直して魔方陣を目指した。