新たな世界
「さてどうやって私を納得させるのかな?」
肩を竦めレインはその印象的な琥珀の瞳を瞬かせてヘレーネの前に立つ。身長は高くも無く低くも無い。すらりとした身体は男特有の角張りも固さも皆無で、しなやかさで美しい長い手足が動くたびにドキリと胸が弾む。芳しく美しい女性が甘い香りと空気を醸し出すように、レインはそこに存在しているという事実だけで人の目と注意を惹き艶めいた怪しげな魅力を発揮する。
それは意識して出している物ではないのだろうが、その威力は本人が一番に理解し自分に優位になるように振る舞う。
その力に屈してしまいそうな自分がいるのを必死で押し隠しふわりと頬笑んで見せる。
「レインを納得させるなどきっとできないでしょう」
「やる前から諦めてどうやってセシルを手に入れるんだい?」
「先程いったように私にはセシルが必要なんです。そのために父である貴方にも了承して頂きたいの。危険な仕事をお願いするのだからそれなりの褒賞と、最低限の保証はします」
何事が起こるのか想定ができない以上絶対に命を護ると確約はできない。でもセシルの命を無駄に散らせるつもりはないのだと解って欲しかった。
「セシルはまだレインとしては未熟だ。期待に添えるような仕事ができるとは私は思えないけれどね」
「完璧なレインになってしまっては人々を魅了しすぎて混乱を招き私の手に余りますから。今のセシルが私には必要なんです」
「一年もあれば熟して王都は堕落することになるかもしれない」
レインの危惧はその通りで、舞踏会での注目を集めていた様子を見る限りセシルの血が熟し人々を狂わせる日はそう遠くない。
そうなればレインを囲い込んだヘレーネに非難が集まり立場を危うくさせる。
今まで後見人として支えてくれていたフォルビア侯爵も、カールレッド王子の寿命が尽きることが確定し協力することを受け入れてくれたグラウィンド公爵も手を引く。
そして今回セシルにクインス家を継がせることを渋々ながら認めてくれた宰相閣下にも顔を合わせることができなくなるだろう。
「その時は私が責任を取り王位継承権をトラカンの領主である王弟殿下へとお譲りいたします」
「成程。戦で荒れる国へと傾けるのも厭わないと」
「そうならないように努力はします。そしてノアールが言ったように人は変われる。どんな人と関わり、どんな目標を掲げるかで自ずと結果もついてくるんです。セシルは得難い女性で、それはレインだからではないと思います」
「セシルを形作っているのはレインとしての経験と技術だ。引き離して考えることはできないよ」
「まだ完全なレインではないのなら、そこにあるのはセシルの本質として備わった性格や思考であるとも言えるでしょう?」
論じられる己に対する評価や推測を微妙な顔で聞いているセシルに顔を向けて「どう?留まりたいと思ったのは、レインとしての自分よりセシルとしての感情が強いでしょう?」と問う。
「あたしの中で自分とレインの境界線は曖昧で無いに等しいから。よく解らない」
頭を振り正直に解らないと答えたセシルにヘレーネは小首を傾げて苦笑する。
「レインならば執着などせずに、留まろうとは思わないはずだけど」
「……あたしはできそこないだから」
「人はみなできそこないなのよ。セシル」
だからこそ寄り添い、力を合わせて協力して生きていく。
自分に無い物に惹かれ、焦がれ、求めるのだから。
「人はみな違う意志を持ち生きている。だから貴女も貴女の気持ちを優先して生きていい」
「誰よりも自分の想い通りに生きられないヘレーネがいうのは痛々しいよ」
「あら?だからこそ他の人にはそう生きて欲しいって思うのに。それにね。私は決めたの。自分の意思でこの運命を生きるって」
始まりは願わぬ物であっても、その道を拓き共に歩いてくれる人がいてくれるならそれも悪くないのだ。例え思い描いていた未来とは違っていても、失われていく時間と命を無駄に消耗するわけにはいかない。
ヘレーネもこの国を愛している。
自分が降りれば戦禍で疲弊し朽ち果てる運命しかフィライト国に待っていないのならば逃げることは赦されないし、逃げたくは無い。
「レイン、貴方がセシルと一緒に居たいと願うのならば王都に留まるのも構わない。でもセシルを連れて行くのは許可できません」
「俺がどこまでも追いかけて行き、セシルを連れ戻す。あんたを殺してでも俺はやる」
ライカの敵意を籠めた瞳にレインは「殺してでも……ね」と自嘲の笑みに似た物を浮かべる。そして娘の頭に手を乗せて優しく撫でると「無茶苦茶だ」と明るく囁いた。
「でもレインも同じことをした」
「そうだね。私もクラウディアを殺してセシルを手に入れた」
「ライカが幾ら強くてもレインには敵わないよ。あたし達は逃げ足だけは天下一品だからね。きっと追いつけない。そんなに月日を費やしてライカを王都から出したら元々の目的を達成できないよ。本当に無茶苦茶で考え無しだ」
「大義のためにセシルを取り込もうとしているのに、おかしな子たちだ」
忍び笑いを洩らして親子はヘレーネとライカの決意を滑稽だと評する。
その通りかもしれないが、それほどセシルの力が不可欠だと思っているのだとどうやったら伝わるのか。
「セシル。自由には犠牲がつきものだ。残るのならばなにを犠牲にするのかな?」
レインは顔を覗き込み、セシルは顔を上げて見つめ合う。琥珀の瞳が交わった瞬間に目には見えない波動のような物を感じてヘレーネが一歩下がる。ライカが護るように背中に庇い、ノアールが言葉にならない声を上げた。
男の持つ空気が変わり、従わせようという強い意思と圧迫感が支配する。王気に似た覇気が辺りを包み、呼吸すら満足にできない。目には見えない力がレインから放たれ、知らずに膝を折ろうとしている自分に気づき奮い立たせる。
ヘレーネがレインに膝を折ることは赦されざる行動だ。
「セ……シル!」
名を呼んで手を伸ばすノアールの額には汗が浮いている。
ふと見ればレインはセシルの手を取り優しく引き寄せようとしていた。
これで解った。
レインは娘を手放す気などない。
セシルがディアモンドに残りたいと思っていても、自分に従わせ諦めさせてしまう。
「残るより私と行った方が賢明だ。セシルは愚か者でも間抜けでもない。よく考えれば自由に対する犠牲の対価は等しくないのだと解るはずだよ」
更に空気が重量を増した気がする。セシルは瞬きもせずに直向きな瞳でレインを見上げているだけで言葉を発しない。
「一瞬の執着など取るに足らないし、直ぐに消え去り忘れてしまう。そうだ。私が忘れさせてあげるから大丈夫安心しなさい」
レインが両腕で抱き締めるとセシルはその胸に頬を当てて目を伏せる。流されそうになっているのを見てヘレーネは無性に腹が立った。その対象がレインになのか、セシルになのか解らないが目の前に立っているライカの腕を押して前に出る。
「しっかりしなさい!貴女は自分の自由な意思でここに残りたいと選んだんじゃないの?ここでレインのいいなりなって従うことはただの服従よ!レインがやっていることは貴女のなによりも嫌う権利と自由を奪う行為なんじゃないの!?」
「私はセシルの父親だ。保護者である私が娘の幸せを護るために従わせることは悪ではない。当然の権利だよ」
人差し指を唇に当てて黙っていて欲しいと意思表示されるが、ここで引き下がってはセシルをみすみすレインに渡すことになってしまう。
折角ディアモンドに残ってもいいと思ってくれたのに。
「残念だけれどフィライト国では十五歳になったら色々な権利を与えられるのよ。保護者だろうが、親だろうが関係なくひとりで生きて行こうと思えば生きられる。自由な意思で選択できる。それを害する権利は誰にも無いのよ」
「セシルと私はフィライト国民じゃないからね」
「いいえ。セシル・レイン・クインスはれっきとしたフィライト国民よ?忘れたのかしら」
正式に登録されたセシルの戸籍は彼女をフィライト国民として認め、国が護る対象であると保証してくれる物だ。
「詭弁だ」
「それこそ貴方たちの得意分野でしょう?」
煽って見せるとレインが半眼になって大きなため息を吐く。片手でセシルを抱き、片手を上着の袷目に入れる。ライカがヘレーネの肩を掴んで後ろに下がらせて身構え、ノアールは眉間に力を入れて奥歯を噛み締めた。
「またひとつ入国を禁止される国が増えるのか」
やれやれといいたげな顔で、大した憂慮でもなさそうに言い放ちゆっくりと懐の手を動かす。
「………………ない」
「セシル?」
「いか、ない」
レインの手首を押えてセシルがはっきりと答えた。
月光を弾いて煌めいた瞳には拒絶の意思と決意の大きさを含んでいる。レインは眉を寄せて腕の中の娘を軽く揺さぶり「本気か?」と確認した。
「毎回レインの奥さんに疎まれ嫉妬されて邪険にされるのは正直しんどいんだ。寂しいし、辛いんだよ。だから一緒には行かない」
「ばかだな。そんなことどうして」
「あたしができそこないだからだよ、きっと。愚かにも執着して、満たされることを知った間抜けなんだ。レインとしては不合格。落第者。だから死んだと思って、新しいレインを作りなよ。それともその刃であたしを殺す?あたしはそれでも構わないよ」
レインはセシルの柔らかな髪に顔を埋めて「できない」と震える声で呟く。他者を殺めることは容易くても血縁者である娘を殺すことはやはりできないのだろう。
レインにしか執着を赦さない過酷な生き方をセシルによって否定され恐怖に震えているのか。
「…………二度目だ」
ぽつりと零された言葉の意味を知る者はいないのか、セシルも怪訝そうな顔で「二度目?」と聞き返す。
「私はレインに刃向ったことも、疑問すら抱いたことは無いんだ。放浪することも、悲しい昔話も、歴代伝えられる技術や知識を習得して、寄ってくる人の感情を支配し悦ばせる。そうして生きて行くことを辛いと思わないし、それがお互いのためだと理解している。独り立ちをして初めての役割が次のレインを作ること。一番明るくて楽しいクラウディアを選んだ。一緒に旅をする相手として連れて回るにはそういう性格の子供の方がいいと思ったからね」
それが間違いだったのかもしれないと続けてレインは一呼吸開ける。
「明るい癖に寂しがり屋のクラウディアの血が混じったことでセシルは私より母親を恋しがる子だった。クラウディアから引き離せば暴れて喚き立てる。両手を母親に突き出して助けを求めるから私は焦って説得する労力も割かずにクラウディアを殺めた。床に倒れた血まみれの母親をセシルはベッドの上から俯せになって眺めて、次に非難するように私を見た。赤ん坊が私の行為を責めるなんて驚愕だよ」
「有り得ない。レインの気のせいだ」
「いや、気のせいじゃないよ。セシルを抱えて逃げようとしたら今まで以上の激しい抵抗にあったからね。あの時も瞳には強い拒絶と私への嫌悪が滲んでいたから……少なからず衝撃を受けたよ」
赤ん坊の表情の中に拒絶はあっても、嫌悪という感情が存在できるとは思えない。それでもレインはそれに近い物をセシルの中に見出したのかもしれなかった。
「私はその時まで誰かに拒まれるという経験をしたことが無かった。初めて恐怖と戦慄を覚えたんだ。必死で子育てをしながら、レインとしての生き方を教えて行くうちにセシルの瞳から拒絶と嫌悪は消え慕ってくれるようになった時私の中に芽生えた執着はもうすごい物だったよ」
肩を揺らして笑う声に自嘲の響きが混ざっていた。
「他の誰にも渡したくないと思ったんだよ。笑えるだろ?」
「いいえ。娘を持つ父親は皆そう思っているって聞いているから」
「とにかくなによりも大切なんだ。不幸になると解っている娘を置いて立ち去ることも、クラウディアを殺したように簡単に殺めることも、セシルがいるのに新しいレインを作ることもできない。だからセシル、私と一緒に来て欲しい」
どうか――と願い片手で掻き抱く父の中でセシルは可愛らしい顔で微笑んだ。
初めて見る少女のような笑顔にヘレーネの胸の内側が引っ掻かれ、その痛みと共にその笑みは刻まれる。
「たったの一年だよ。一年経ってレインとして生きることへの未練があったら、あたしはレインを探し出してまた一緒に旅をする。その時はちゃんとレインのいうこときくし、なんだってするから」
「だめだ。不幸になる」
「ならないかもしれない。だから今は離れて暮らそう」
肩で胸を押してセシルはレインの腕から逃れる。
ノアールの隣に立ち少し照れ臭そうな顔で父を眺めると「あたしが犠牲にするのはレインとの大切で濃厚な時間だよ」と高らかに声を張り上げて覚悟を口にする。
「レインの名前と同じぐらい大切な物だから、今回の自由に支払う価値はあると思う」
「……それだけの価値が彼らにあると?」
「う~ん。まあそういうことかな。まだよく解らないけど」
そうなればいいなと思っていると続けてセシルがライカに手を差し出す。握手かと怪訝そうな顔で手を乗せれば「ちょっと!」と手を払い除けられた。眉を跳ね上げて「なんのつもりだっ!」怒鳴ったライカにセシルは呆れたような目を向けた。
「書類。あたしの身を護る大切な物を寄越してよ」
「ちっ。紛らわしい」
「ちょっ!なんなのさっ。投げつけるとか有り得ないんだけど!宰相閣下の署名の入った重要書類だってのに」
胸元に投げつけられた封書を受け止めてセシルが文句をいうがライカはそっぽを向いて知らぬふり。
「力加減の解らない乱暴者と握手して怪我させられたら困るからね。ヘレーネちゃんと猛犬の躾けしといてよ」
「女性の扱いはライカの専門外だから。検討しとくわ」
「検討じゃなくて約束して」
胸のポケットに書類を入れてセシルはヘレーネに催促してくる。さてどうしようかと苦笑すればライカが仏頂面で睨んできた。
「まあ……追々ね」
確かに社交界で生きて行くには女の扱いを知らぬより、最低限の作法と力加減は必須である。相手に怪我をさせてはいらぬ訴訟を受け処罰されることもあるだろう。
大事な人材を失うのはヘレーネにとって痛手となる。
それも少ない友人であるのならば尚のこと。
ライカは嫌がるだろうがそこは飲んでもらうしかないだろう。
「セシルっ!」
通りに響いた声に全員が驚いたようにそちらへと視線を向けた。
暗い道を淡いピンクのドレスを絡げて駆けてくる少女の姿に全員が目を丸くする。
踵の高い華奢な靴を左手に持ち、右手がスカートの裾をたくし上げているので絹の靴下に包まれた足が惜しげも無く見えていて際どい。
何度も転びそうになりながらも懸命に走ってくるリディアの目にはセシルしか映っていないようだ。
「リディ」
軽やかに地を蹴りセシルは残りを詰めて少女を抱き留めた。途中で放り投げられた白銀色の靴を慌ててノアールが回収に向かうために横を擦り抜けて行く。
「心配、したんだから!セシルがいなくなっちゃうんじゃないかって思ったら、わたし我慢できなくてっ」
「お屋敷を飛び出してきちゃったの?ひとりで危ないのに」
結い上げられていた髪は崩れ、剥き出しに近い肩に流れていた。
髪を飾っていた宝石のついた幾つもの小さなピンも走って来た道中に何個かは転がっているに違いない。なんとか髪に残っている物のひとつを掴んで取りセシルは嬉しそうに微笑んだ。
「お嬢様夜道は危険ですよ。しっかり見張っておいてくださいといっておいたのにフォルビア家の従者は無能ばかりのようだ」
「本当にクライブも然り」
「え?なんで?さっきの御者の人がここに、どうして?」
ようやくセシル以外に人がいることに気付いてリディアが慌てる。フォルビア家のお仕着せを着ているレインと気安く話しているセシルを見て首を傾げた。
「ご紹介が遅れました。私マロウ・レインと申します」
「マロウ……レイン?まさか、セシルの!」
「そうだよ。碌でもない父親のレインだ」
「あの。わたしリディアです。セシルにはいっぱいお世話になってます」
父だと気づいたリディアが狼狽しセシルの腕を押して体を離して挨拶しようとするのを「いいって」と遮ってぎゅうぎゅうと腕の中へと閉じ込めてレインの目から隠そうと背中を向けた。
「なんで?ご挨拶させて」
「いいよ。目が合えば妊娠させられる」
「え?ほんとにそんなことできるの!?」
「できるできる。レインにはそれぐらい朝飯前だから」
「できません!もう。リディアが信じたら困るだろ」
戦々恐々としているリディアを見ながらノアールがため息と共にセシルの後頭部を軽く小突く。そして小さな靴を揃えてリディアの前に置いた。
「あ。ありがとう」
忘れてたと今度こそセシルの腕から解放されて放り出した靴へ足を差し入れる。その絹の靴下に滲む赤いものを認めヘレーネは近づいて膝を着いた
「だめだよ。ヘレーネ。ドレスが汚れちゃう」
「平気よ。それよりも随分無茶して走ってきたのね」
近くで見ると靴下は破れ、親指と小指の爪が剥げかけていた。踵は石でも踏んだのか切れて出血している。「大丈夫だから」とヘレーネの肩を押して身を引きスカートの裾を押えて血だらけの足を隠す。
「リディアの方こそ折角のドレスが汚れてしまうわ。それにこの状態で靴を履いても歩けないでしょ」
「履けないなら持って歩くから」
「リディ。力が有り余ってるのがいるから心配しなくてもいいよ」
親指を立ててライカを指差しにやにやと笑う。指された方は頬を歪めて嫌そうな顔をするが、運ぶのが嫌なのではなく指を差されたという行為が苛立たせているのだ。
「でも」
「大丈夫。ライカならリディアひとり担いでも私より速く走れるから」
申し訳なさそうな少女の心を少しでも軽くするためにヘレーネはにこりと微笑む。
「えっと……わたし来ない方がよかったみたい。邪魔だったよね」
「そんなことない!リディがあたしのために恐いはずの暗い道を走って来てくれたんだから」
フォルビア家の屋敷からここまでは結構な距離がある。その間の暗い道はリディアにとってどれほど恐ろしい道程だっただろうか。闇に沈んだ道をセシルのために駆け抜けてくれたのだ。
「いや、でも夢中で。恐いとか思うよりも、セシルがいなくなる方がわたし的には辛くて。だからね、あの」
しどろもどろになっているリディアを愉快そうに見つめて「愛は障害を越えるってね。やっぱりリディを運ぶのはあたしがやる」と背中と膝の後ろを掬い上げるようにして抱え上げる。
「え?ちょっとセシルっ」
「フォルビア侯爵家までならなんとかなるってば」
「いや。無茶があるよ!」
「なんで?ノアールがやりたいの?」
「僕にはリディアを運ぶのはちょっと難しいというか――」
今度はノアールの口が鈍くなりそれに気付いたリディアが顔を真っ赤にして「どうせ重いよ!」と声を上げた。
「え!?いや、そうじゃなくて。僕の力が足りないんであって決してリディアが重いわけでは」
「なんかそんなに全力で言い訳されると逆に重いって宣告されてる気がする……」
必死で言い繕っているノアールに不服そうなリディアが据わった眼で見つめる。
「違うってばっ!なんで!?」
「それならば私が立候補しよう」
楽しそうなやり取りに黙っていられなくなったレインが参加して手を挙げると素早い動きでセシルの腕からリディアを奪おうと近づいてくる。目を吊り上げて威嚇し「だめー!レインはあっちに行って。手の届かないあっちの屋敷の方まで!」とノアールの後ろまで移動して舌を突き出す。
「どうして?」
「リディは柔かくて気持ちがいいからレインが変な気を起こしちゃ困る」
「少し味見した位で減る物でもないのに」
「いいからっ!」
「はいはい」
会話だけ聞いているととても親子の会話とは思えない。
レインは見た目も若いので年上のお兄さんといった風に見える。
「全く……騒がしいったらないわね」
「これ以上は近所迷惑だろうが」
「それもそうね。でもリディアのことを考えると馬車を用意するしか――。そうだわ」
ヘレーネは浮かんだ妙案に手を打って楽しくじゃれ合っている輪の中に参戦した。「ちょっといいかしら」と発言すると一斉に四対の瞳がこちらを見つめる。
期待の籠った目と不思議そうな目、胡乱な目から様子を窺う様な目。
「侯爵様から預かっている物があるの。セシルに」
「なに?」
警戒しているセシルにライカがずんずんと近づいて腕を突き出した。その手に握られているのは五つの鍵が金属の輪にぶら下がった物。眉間に皺を寄せて「なにそれ」と言葉少なに質問する。
「クインス家の鍵よ。幸いここから近いから、そこで傷の手当てをしてフォルビア家から馬車が来るまで待ちましょう」
「馬車は誰が呼びに行くのさ」
受け取りながらもっともな疑問をされ、一番身軽で足が速いライカにヘレーネは視線をやる。大きなため息を吐いてライカが「そいつが牙を剥いたらどうすんだ」とレインを指すので大丈夫だと背中を叩いた。
「その時はその時。それに便利屋が戻るまで見張っていてくれるわ」
最後の方はライカにだけ聞こえる声で伝えると渋々首肯して「気ぃ抜くなよ」と警告するとするりと闇の中へ消えた。
「当たり前じゃない」
聞こえるわけはないのにそう応えてから未だにワイワイと騒ぎ立てている四人に声をかけて案内するために先頭を歩く。
「ねえ?どうしてセシルがクインス家の鍵を受け取ったの?」
「あ!そうだった。あたしクインス家の養子になったから。別に養子にして欲しいなんて一言もいっちゃいないんだけどさ。でもこれでリディとは親戚関係になるし。これからもよろしく」
「じゃあ……どこにも行かないの?ここにいてくれるの?」
「当分はね」
「セシルっ。ありがと」
首にしがみ付いて泣きじゃくるリディアの背を二度優しく叩いてからしっかりと抱き支え「こちらこそ」と囁くセシルの声は喜びに溢れ、しっかりと満たされている者が出せる張りのある物だった。
奪うか奪われるかの生き方をしてきた孤独な少女が、去ることよりも留まることを選択して満足そうな顔をしているのを見れば自分の判断が間違っていなかったのだと思えて心底ほっとした。
「私は納得もしていなければ、了承もしていないよ。でもセシルが決めたことだからこれ以上はなにもいわないが……。もし娘が不幸になるようなことがあれば私は容赦しない。きっとこの国を滅ぼす者となるから覚悟しておきなさい」
「しっかり心に留めておきます」
神妙に頷くとレインが破顔して「よろしい」とヘレーネの肩に励ますように触れ、そして娘を振り返り「それじゃ私は行くよ」とあっさりとした別れの言葉を口にした。
「あ、そう。気を付けて。あんまり人に恨まれないようにね」
「お互い様だ。それでは諸君尊い目標に向かって頑張るんだよ」
あんまりにも軽い別れ方に「え?なに?それだけ?」とノアールが困惑して手を振って通りを去って行く後ろ姿を何度も振り返る。
あれだけ熱心に口説いていたから、別れる際も引きずるのかと思っていたので拍子抜けしたのは間違いない。
「いつもこんなもんだよ。別れは次の出会いに繋がるんだからいつまでも悔やんでいたって仕方が無いし。湿っぽいのはもうお腹いっぱいだ」
「それもそうね」
納得してヘレーネは見えてきたクインス家を手で示すと三人の目が輝いた。重厚な横長の二階建ての屋敷は細長い窓とアーチ型の外回廊がついた美しい建物だ。今は住む人がいないことを報せるように窓には全て鎧戸が下されている。無人とはいえ管理はされているので、住もうと思えば今夜からでも住めるようにはなっているはずだ。
「ひとりで住むには勿体無いね。ノアール一緒に住む?」
「んー。寮費が苦しくなったら頼むかも」
「いつでもどうぞ」
「ずるい!わたしも住みたい」
「大歓迎。でもリディにはフォルビア家の屋敷があるでしょ」
「じゃあ泊まりに来るから」
「どうぞ」
楽しげな会話は聞いていて飽きないが近所の目もあるのでさっさと中へと入った方がいいだろう。鉄の門を開けて入り庭を見てセシルが「改良の余地ありだね」と評したようにここの庭は殺風景だ。今の季節が冬であることを差し引いても華やかさも、見た目の楽しさも持ち合わせていない。
「貴女好みの素敵な庭にすればいいわ。さあ玄関はこっちよ」
セシルを促して両開きの扉の前に立たせるとリディアを下して鍵の中で一番立派で大きい物を選んで差し込む。かちゃりと音を立てて開く音は未だ見ぬ未来への期待を掻き立ててくれる。
「いくよ」
セシルが扉を引き開けてノアールとリディアが息を飲む。その顔に希望を浮かべ輝かしい将来を信じて疑わないキラキラと輝く物を見つけてヘレーネは胸を弾ませた。
今まさに一歩を刻む。
どんな困難や裏切りが待ち受けているのか解らないが、今は思い悩むことは止めよう。
まっさらな気持ちで彼らのように全てを楽しめればきっとなにも恐れることは無い。
ひとりでなら歩めぬ道も信じられる者と共になら心強く進めるはずだ。
全ての者が皆望む物を手に入れられるわけではないが、その努力は無駄では無く奮起し頑張った者にはそれ相応の物が得られる。
ヘレーネの中途半端だった立場は今大きく変貌を遂げ、一年間という短い猶予期間の内に多くの信頼と忠誠を得られるように足掻かなくてはいけない。
そのための決意。
そしてヘレーネ=セラフィスという名前との決別。
もう二度とあの家にその名で訪れることは無いのだと思うと悲しくて悔やまれるが、過去に囚われていては進めない。この一年社交界でその名を名乗ることになるが、新しい王子としての名前がいずれは用意されるだろう。
感傷的になっているのは失う者の大きさを知っているから。
それでも。
終わりが始まりを連れてやってくる。
出会いと別れの繰り返しで歴史は紡がれ、新たな世界が開けるのだから。
長い物語にお付き合いいただきありがとうございました。
ここまでこられたのは読んでくださった方がいたからです。
ブックマークをしてくださった方、この場を借りてお礼申し上げます。
大変励みになり力をいただきました。
感謝は尽きませんがまた新しい物語の世界でお会いできれば幸いです。




