吐露
「あたしたちを“騙り”とか“詐欺師”とかみんなはいうけど、騙しているつもりなんかこれっぽっちもないんだ」
信じてもらえないだろうけど、とセシルがやはり感情の無い笑顔を浮かべる。その瞳は枕元に置かれた洋灯の柔らかな火を受けてキラキラと美しく輝く。拭いきれていない女の口紅が唇の端についているのを眺めてノアールは「信じるよ」と囁いた。
「親愛の証に大切なレインの名を捧げ、相手の籍に入るんだ。その間は本当にその人だけを見つめ喜ばせる事を一番に考えて過ごす。でもね。みんな信じないんだ。いつかは裏切られ、いつかは捨てられるぞって。本人はレインに夢中だから、周りの人たちが凄い形相で忠告してあたし達に嫌がらせをしてくる。それでもあたし達はされるがまま、いわれるがまま」
抵抗はしないのだと続けた。
「確かにあたし達は執着をしない。それでも名前を贈る相手にはそれなりに好意を抱いてるよ。誰でもいいわけじゃないし、簡単に捧げたりもしない」
また口元を緩めて微笑むとノアールの色違いの髪に手を伸ばして掬い取りきゅっと握り締めた。
「これだけの状況が揃ってるのにあたしを欲しがらないなんて、本当に自信喪失するよ」
大仰に肩を竦めてセシルは掴んでいた髪を優しく引っ張る。そして指に絡め感触を確かめるようにしてからそっと放した。
「セシルが魅力的なのは確かだから、そこは自信喪失する必要ない」
「あたしはできそこないなんだってレインがいうんだ。だからなのかもしれない。リディやノアールに執着するのも、ノアールがあたしを欲しがらないのも」
「欲しい、欲しくない、の二択しかないのはちょっとおかしいよ」
「今までみんな問答無用で押し倒してきたから、それが正しいと思ってたけどね。人間の性欲とか支配欲っていうのは強いから、そのための技術を特に磨いてきたんだけど……。ノアール試してみる気ない?」
「だからっ。どうしてそうなるの……」
蠱惑的な顔を近づけてくるので、ノアールは必死で首を振る。セシルが「だって」と小首を傾げて苦笑した。
「執着してる人とするのと、今までの人との経験とどこか違うのかもしれないと思ってさ」
さらっと答えた内容に彼女が重ねてきた相手との行為の間に好意の一欠けらも無かったのかもしれないと思い至る。
「…………セシルは今まで好きな人とかと、その」
直接的な言葉を口にすることは躊躇われて口籠ると、セシルは大人の女が初心な子供を見て浮かべるような笑顔で頷く。そしてやはりあっさりと答えるので悔しくなる。
「ないよ。そこに特別な感情なんか無くても繋がれるから」
「あー……なんか。そうなんだ」
「そうだよ。あたしとノアールじゃ住む世界が全く違うんだから。いい?あたし達は金にも執着しない。金なんか無くても生きていける。必要になったら身体を使ってその見返りを貰い、旅が疲れたら名前を捨てて、養ってもらう。そうやって生きてきた。みんな優しいから手を差し伸べてくれる」
文明社会で金に執着しない生き方ができるというのは誇るべきことか、それとも時代に逆行していると蔑まれることか。
みんなが優しいから手を差し伸べてくれるわけでは無いことをセシルは知っている。レインの技術や知識を得ようという独占欲。そしてそれ以上にその身に備わる人を惹きつけて止まない、呪われたかのような血に惑わされた者の欲望からだと。
身体を差し出し持てる技全てを使い満足させる代わりに、相手の金や家屋敷で衣食住を保証してもらう。
それは対等な物に聞こえるが、相手がレインに執着した時点で既に対等ではない。
「セシルはいつからそんな生活をしてたの?」
「生活なら生まれてからずっと。肉体的な手解きに限定するなら五歳くらいかな」
「そんなに小さい頃から?」
五歳という幼さで相手をその行為を受け入れたというのか。
信じられないにノアールは頭の芯がぼうっとするのを感じた。セシルが声を立てて小さく笑うのを聞きながら徐々に現実へと戻ってくる。
「だから穢れてるっていってるのに。あたし達レインは親からその技術と知識を教えられる。文字通り手取り足取りね」
嫌悪感も無くただの事実として語られるその言葉には親と子の関係からは逸脱した姿が見えた。自由を得るために人間の欲望を満たすための技術を身につけ、更にそれを幼い子供に実際にやって見せ覚えさせるとは、とてもまともな倫理観ではない。
信じたくなくてノアールは慎重に言葉を探すが、結局口から出てきたのは率直な確認の言葉だった。
「……それって、親が子供に手を出すってこと?」
「背徳的?あたし達は元々近親者で婚姻をして子供を成してきたから、そういう所はあんまり気にならない。それに嫌じゃなくて、寧ろレインに手解きを受けるのは喜んでたよ。気持ちよかったしね。寒ければ肌を合わせて、眠れぬ夜にはその腕に抱き締めてもらう。どうしようもない疼きや寂しさも全て、蕩けて無くなるように」
琥珀の瞳がまたここではない遠くを見つめている。
慕うように向けられたその目が求めているのはセシルの父であるレインなのだ。
背中が冷えてノアールは力なく床に座り込む。
その気配に気づいてセシルが見下ろして薄ら寒い笑みで語る。
「身体に悦びと経験が増えていくたび、それを使って他の大人を悦ばせる技術が伸びる。繋がらなくても相手を満足させられることを覚えればそれだけ楽になるし、自信にもなるから夢中でレインの技術を学ぼうとしたけどあたしはまだまだ足元にも及ばない」
「セシル……もう、いいよ。辛すぎる」
赤裸々に自分の事を話すのはノアールに嫌われたいからだ。
拒絶され、軽蔑の目を向けられたいと思っているからだろう。
セシルが真に執着している相手はノアールでもリディアでもない。
「ノアールもあたしと寝てみれば解る。レインの技術の素晴らしさに。そしてどれほどの人間とあたしが交わってきたのか」
冷たい両手で頬を包まれてノアールは近づいてくるセシルの唇を拒めなかった。柔らかな感触と吸い付いてくるような弾力は、デュランタの街で軽く触れただけの物とは比べ物にならない程に濃密だ。
ただ黙ってセシルが満足するまで待とうと目を伏せた先に拭いそこねた赤い色が見えた。
その赤に親指で触れると弾かれたように少女は離れ、そして瞬きをしてからノアールをまじまじと眺める。
その隙にノアールは軽く睨んで立ち上がった。
「狡いよ。セシルは」
「…………狡い?」
「そうだよ。受け入れても、拒んでもセシルが喜ぶだけだ。だったら僕にできるのは無抵抗しかない」
止めてくれと言葉にしても、突き飛ばして拒んでもそれは彼女の望みを叶えることになる。そしてその行為を受け入れて流されてしまえば、多くの人間とベッドを共にしたのだという事実を知らしめることができる。
「あたしはノアールの子供なら産んでもいいと思ってる。その子はきっと一番美しいレインとして名を馳せることになる」
「セシル。そうはならないよ。僕はセシルとはそういう関係にならない。絶対に」
「この世に絶対は有り得ない」
「本当に執着しているのは僕でもリディアでもないだろ?」
セシルは途端に無表情になり俯く。
考えるのを止めたかのように視線は床を見つめ、呼吸すら忘れたのかピクリとも動かない。
「親と子が関係を結ぶのはレインの中では背徳的じゃないんだよね?じゃあ親に対する特別な感情だって倫理的に問題ないんじゃないの?」
ノアールの中では完全に考えられないことだが、彼らの中では通用する。
だからセシルが父親を男として求めても普通では受け入れられないが可能なのだろう。
だがセシルは唇を歪めて「できないんだ」と呟く。
「レイン同士で子供を作ることは、また血を濃くする行為になる。つまり婚姻を結ぶことはできないし、そこに特別な感情を持つことも許されない」
自由なのだといいながら、背徳行為も罪では無く倫理観も独自の物をもっているのに。
どうしてそこは許されないのだ。
「レインは増えすぎてはいけないんだ。だから子供はひとりだけって決められてる。もしなにかしらの原因で子供が命を落とした時は後腐れの無い相手を見つけて子供を作る。あたしは女だから男に種だけ貰えばいいけど、レインが男の場合は女が出産するまで傍にいなきゃいけない。しかも女から子供を譲り受けること自体が難しいからね」
「その時は……どうするの?」
「まず穏便に済むことは無い。レインの子を腹に宿すとその子が成長していく段階から、もう夢中になるらしいんだ。実際二人の子を産んだ後でレインの子を妊娠した女が今までとは違う愛しさだっていってたっていうから。
あたしの母親はクラウディアって名前の娼婦だった。あたしが腹にいるせいで仕事ができない母親をレインが働いて養う。この時ばかりは普通の旦那のように女のいいなりになって齷齪働くんだって。大事な次のレインを生んでもらうんだから仕方が無いよね。ただでさえ自分の腹を痛めて産むのにレインの血を受け継いだ赤ん坊の可愛さといったらその比じゃない。ドロドロになって愛した男のレインより子供を選んで手放すことを拒むんだ。半狂乱になって、刃傷沙汰も多いんだよ」
淡々と語られる言葉の数々はやはりノアールが知る現実とは違い、暗く異常で激しい物だった。執着した方が負けとだというレインの法則によれば、母親が子供に深い愛情を抱いた瞬間から女の負けは決まっていたのだろうか。
「レインはクラウディアを説得しようとしたけど、それがどんなに無意味なことなのか知ってた。母親が喜んで差し出すわけなど無いし、懇願してそれが叶うとも思ってなかった。後腐れの無い相手を選ぶのには理由があって、そういう女が殺されたところで痴情の縺れが原因だと簡単に周りの人間が判断してくれるから」
「もしかして……殺すの?子供を産んでくれた女性を」
セシルは微かな笑みを浮かべて「そうだよ」と頷く。そこには罪悪感など無く、それは正しいことで在ると信じて疑わない目をしていた。
どんな理由があっても人を殺害することを正しいと言い切ることはできない。不慮の事故や襲われた際に抵抗して誤ってという事態は正当化できるとしても、母親から子供を取り上げる手段として殺めるということを選択するのは行き過ぎた行為だ。
「そんなのおかしいよ」
「そう?レインが同じ場所に長く居られない理由は教えたと思うけどね。結局母親の手元に残された子供はその血の所為で母親から過剰な愛情を受け、周囲の人を惑わし、昔話の村人たちのように自由と権利を奪われたまま人々を堕落させていく。それが解っていて捨て置く方がよっぽど酷いと思う」
「それでも殺すなんて」
「本当に穢れ無き人間だよね。ノアールは」
失笑したセシルの琥珀の瞳に嘲りと羨望が揺らめいて、吐息のような「いい?」という確認の声が諭すように宥めるように続ける。
「人はみな愚かで欲深い生き物なんだ。力と金のある者は持たざる者から搾取するのは当然としてその権力を行使し、従わない者には罰を与える。利用して不要になれば斬り捨てて。下々の命なんて所詮軽く扱われる運命。だからレインは力にも金にも執着はしない。金があるならばらまいて使い、権力なんか無くても自分の能力だけで生きていく。
綺麗ごといってるけどノアールだってそうやってラティリスで生きてきたんでしょ」
確かにノアールは後継者問題で命を狙われ続けてきた。
自分自身は手を汚すことはしなくても、兄であるフィリエスが揮う剣に襲撃者たちの命は奪われていた。護ってくれた兄に対する感謝はあっても、殺害された者達への憐れみや謝罪など考えたことも無い。結果的にセシルのいうように下々の命を軽く扱っているといえなくも無かった。
自分は犠牲を払わず逃げ、嫌な仕事を兄に押し付けたノアールが命は尊い物なのだと口にしても白々しく聞こえるだろう。
それこそ偽善だ。
話せば話す程、聞けば聞くほどセシルを納得も説得もさせることなどできないのだと思い知る。自分だって穢れ無き人間とは程遠く、不完全で汚い一面も狡い所もあるのに。
育ってきた環境が違うだけで同じ人間なのだと伝えてもきっと届かないのだ。
「この世に絶対は有り得ないんだよね?」
さっきセシル自身がいった言葉だ。
なにをいうつもりだと少女が胡乱な目で見上げてくるので笑ってやった。
精一杯自信のあるような顔を必死で作って。
「だったらレインの血が必ずしも相手を魅了するとは限らないだろ?セシルだってこのディアモンドに長く居たら、心の底から好きだって思える相手に出会えるかもしれない。違う生き方だってできるはずだ。放浪の人生を生きるレインの生き方を選ばなくてもセシルらしく生きていけるかもしれないじゃないか。レインは自由なんだろ?だったらセシルが違う人生を生きたいって思えばそれは可能なんじゃないの?」
「なにを……いうのかと思ったら。あたしに普通の人間の暮らしをしろだって?」
ははっと笑ってセシルが首を横に振り、できるはずがないとその顔が語っていた。
「ノアールは不幸になりたいの?レインがいる所には、どんどん不幸が押し寄せてくるよ」
「僕たちが仲良くなってから不幸なことなんてひとつも起きてない。リディアが救われて、僕も故郷を好きになれたし、兄と父と初めて同じ目標を見つめて進めるようになった。セシルがいつも近くで助言をしてくれたり、その奔放さと閃きで最悪の場面を回避してくれたからリディアも僕も笑っていられるんだ。
他人と付き合うことが面倒だった僕がこんな深くに関わりたいと思うようになれたのも自分でも驚きなんだから。本当にセシルがいてくれて良かったと心から思ってる」
「あたしはなにもしてない。ただ気紛れに面白がってただけで――」
「レインに纏わる色んな昔話を聞いたけど、僕のセシルに対する気持ちは変わらなかったよ。そりゃ驚いたし受け入れがたいことばかりだったけど、それが今のセシルを形成してきた要素なんだとしたら否定できないし」
「おかしいよ。なんで」
「嫌いにならないのか?って思ってるんだとしたら、セシルはまだまだ人の全てを知らないんだよ」
「ノアールよりはよく知ってる」
「僕のことよく知らないだろ?これだけ近くにいるのに、友達なのに。セシルは人にとって肝心で大切な物を知らない」
「愛とかいわないでよね」
「いわないよ。恥ずかしい」
「じゃあ……なに?」
「不幸とは反対の物。そして笑顔の向こうにある物」
セシルたちは愛情を執着と呼ぶ。
言葉を変えなければ素直にそれを心の中に治めておくことができないからだろう。明確な名前をつけてしまうのが恐いのかもしれない。
「なぞなぞのつもり?」
「セシルはお父さんをずっと想い続けるの?」
「ちょっと、話しをずらさないでくれる」
「いいから答えて」
「……あたしの目標であり、一番の理解者だから。いつか独り立ちしてもあたしはずっとレインを追い続けて生きていくしかない」
「独り立ちか……そうか。その時はやっぱりセシルも悲しくて泣けるかもしれないね」
「はあ?あたしが泣く?」
「恩返しにセシルに泣き方を教えようかと思ってさ」
「いいよ!そんなのいらない!必要ない!」
「人は泣くことで沢山のことを乗り越えるんだ。セシルにも幸せになる為に色んなことを乗り越えてもらいたいから」
「余計なお世話だよ」
「いいからほら。想像して。お父さんと別れる瞬間を」
「ちょっと!ノアールって頭いいのかと思ってたけど、完全にいかれてるよね?なんでそうなるのさ」
「それとも僕たちと別れる時のことを想像する?ちょっとは執着してくれてるんだよね?」
「もう、必要ないっていってんのに!あたしは泣かなくても乗り越えていけるよ!」
「………………本気でそう思ってる?」
「思ってるけど……?」
歓楽街で女と抱き合っている所を声かけた時からずっとセシルは目に力を入れて泣くのを我慢しているように見えた。
なにがあったのか教えてはくれなかったが、自分の中に渦巻く感情を抑えきれずにどこかにぶつけたくて仕方が無くて街で偶々知り合った女に吐き出そうとしていた。消化できない感情を言葉では無く行為で。
いつものように振る舞っているつもりだろうが、セシルはリディアと学園の中庭で揉めた時と同じく激しく取り乱しているのが解った。
だから誰にも邪魔されない場所でゆっくり話さなければならないとここへ連れてきたのだ。
「見ず知らずの女の人にぶつけるんじゃなくて少しは僕を頼ってくれてもいいのに」
「じゃあ代わりにノアールがあたしの相手をしてくれるの?」
「話の相手ならいくらでもするよ。僕たちは恋人じゃない。友達だ」
「──どうして。今傍にレインがいてくれれば全て受け止めてくれるのに。忘れさせてくれるのに。娼婦も駄目ノアールも代わりに慰めてくれないなら、どうしたらいいのさっ」
ベッドの上で膝を抱え持て余した感情と昂ぶりを鎮める方法を取り上げられたセシルが震えながら父を求める。
「ラティリスで迷う僕にセシルは助けて欲しいっていえばいいって教えてくれた。ひとりでは答えが見つからなくても三人なら解決策が見つかるって。今リディアはいないけど、僕が一緒に探すよ」
「欲しいのは温もりだけだよ。一瞬の快楽だ」
「できないよ。それは」
「じゃあ、放っておいて!」
「それもできない」
「なんで!」
「友達が苦しんでるのに放っておけないし、寂しいっていえずに震えてるのに独りにはできないよ」
「寂しくなんか――!」
「そんなに全身で寂しくて仕方が無いっていってるのに?しょうがないな……」
ノアールはため息をついて身を屈めセシルの身体を抱き締めた。彼女が望むようなことはしてあげられないが、温もりに包まれることで安心を与えることができればいいなと強く引き寄せる。
「いつでもお父さんがいてくれるとは限らないんだから、自分の気持ちを静める方法を考えないと。行きずりの人を巻き込んで自分の技術を安売りする以外の方法でね」
「自分で自分を慰めるのは虚しいけど……?」
「ちょっと……他の方法で!」
「……なにを想像したのさ?」
くすりと笑う声に「いいから!」と叱る。
「温かいや……」
額を胸に擦りつけてくるセシルの髪をそっと撫でる。
大人びた顔をする少女が今では小さな子供のように温もりを求めてくるのが愛しく思えた。柔らかい少し癖毛の髪に触れながら「そんなに体温高い方じゃないんだけど」と苦笑する。
「本当にあたしを求めてくれないのが残念だよ」
「僕じゃ満足できない癖に」
「…………だね」
素直に認めてセシルがそっとノアールの服を握る。しがみ付いてくるその仕草にはあざとさも媚びも無く、それが無意識の物だったので左手で背中を優しく叩いた。母親が幼子をあやす様に。
ゆっくり。
「………………ノアール」
「なに?」
「寂しくて、辛いよ」
「うん」
漸く認めて吐露した物をただ短い言葉で受け止める。安心したのかセシルはそのまま囁くような声で続けた。
「最近あたしの中で感じたこと無い感情が湧き起こることがあるんだ……」
「セシルたちがいう執着と違うの?」
「違う」
はっきりと断言した後で「解らないんだ」と弱々しく呟く。執着とは違う初めて味わう感情はセシルにとって未知の物で、どうしていいのか解らず途方に暮れるしかないのだろう。
「それに近い感情は、恐怖……だと思う」
「恐怖か……セシルはなにが恐いの?」
「…………自由を奪われること。それからレインがいなくなること」
「喪失から生まれる恐怖か……」
困惑しながらセシルが導き出した答えを元にノアールは思考を働かせる。
普通は自分に危険が及ぶことや、死ぬこと、人を傷つけることや裏切られること、目に見えない物に対する生理的な恐怖等が挙げられるだろう。
だがセシルの恐れていることは自由という権利を失うことと、一番の理解者を失うことだった。
ラティリスでフィリエスから剣を向けられた時も恐がらず更に兄の怒りを煽るようなことをした。セシルには死への恐怖感は全く無く、死を選ぶことも自由に通じるのかもしれない。
失うことに恐怖を感じるセシルの中で生まれた、それに近い感情とはなにか。
「違う」
本能的にセシルは人を愛すること、信じることを恐れているはずだ。
そうやって生きろと教えられてきた。執着は不幸になる。
それは相手がではなくセシルなのだとしたら。
勝ち負けや損得で判断する生き方をしなくては苦しいのだ。
割り切ってしまえればその苦しみからは逃れられる。
そうやって自分を護ってきた。
「そうか……セシルは感じてたんだな」
「なにをさ?」
「幸福感」
「────!!」
急に身を硬くしてノアールの腕から逃れようと身を捩るセシルの反応に、自分の推察が外れていないと自信を持つ。
初めてレインからではなく他人から味わう幸福感。
これがセシルを動揺させ、そして恐れさせる原因。
泣くことは教えられなくても、幸せについてはもう彼女自身で感じ取っていたのだ。
「嫌だっ!違う!」
「違わないから。そうやって取り乱してるのが証拠だよ。セシルは確かに幸せだと感じていたんだ」
「放してよ!そんなんじゃないんだ!あたしはレインなんだから!」
悲痛な声を上げてセシルは必死に否定する。そして逃れられない腕に苛立ち足を使ってノアールの腹を押した。
さすがに緩んだ手から這い出しベッドの上を入口へ向かって進むが、立っているノアールの方が動くのは速い。ドアに背を当てて「落ち着いてセシル」と呼びかければ少女は悔しそうに顔を歪めて床に座った。
「受け入れた方がいい。どんなに嫌がってもその想いはセシルの中に一生残るよ。だから認めた方がずっと楽になる」
「そんな……」
愕然としたセシルの揺れ動く瞳は決断を迫られ、行く先を決められずに迷っている。
「大丈夫。幸せだと感じることは罪じゃない。それともお父さんがそれを赦さない?」
記憶を辿っているのかぽかんと口を開いて、ぼんやりとした瞳を虚空に彷徨わせていた。
そしてたった一言「……解らない」と零す。
記憶力がいいセシルが解らないということは幸せについて父親が言及したことは無いのだ。
つまり制約は無い。
ほっとしてノアールは笑うと「じゃあ大丈夫だね。怒られる事も、責められることも無いよ」励まして受け入れることを促す。
「だって。レインだってあたしがそんな気持ちを抱くなんて解らなかったんだとしたら?」
「それは教えてくれなかったお父さんが悪いんだ。だからセシルは悪くない」
「………………無理矢理すぎ」
唇が笑みを浮かべてセシルは瞳を細めるといつもの口調で応えた。戸惑いながらも彼女は自分の気持ちの名前を受け入れたようだった。
そして最後に「ノアール、恐いよ」と呟いたので隣に座って肩を抱いた。
「大丈夫。落ち着くまで傍にいるから」
肩に乗せられた頭が小さく頷いたのを感じながらゆっくりと息を吐き出す。仕事を放り出したことをレットソムに叱責されるのを覚悟して落ち込みそうになるのをぐっと堪えた。
今はセシルの傍にいるのがなによりも大切なことなのだと解っていたから。




