訪れる運命
城壁に囲まれた旧市街地の中は美しく輝くブリュエ城を中心に東西南北で分けられている。
東側には裏門があり、その傍に騎士団の詰所。南側には古くから建国に尽くした国民である豪商や官吏、武官の屋敷が立ち並ぶ。
西側は王城前広場に続く表門に連なるように服飾関係や飲食店などの専門店がずらりと軒を連ねている。中には劇場や高級娼館もあり、庶民でも少し奮発すれば娯楽を味わえるとあって、気軽に訪れる場所でもあった。
そして王城を支えるように北側には有力貴族たちの屋敷がある。
因みに王立ウルガリス学園は貴族たちの屋敷の東の外れ、騎士団詰所のすぐ傍にあるので、高い壁に囲まれた威圧的な詰所と豪奢な庭園と建物を持つ学園が隣り合う異様さは、他国では有り得ないかもしれない。
「お待ちしておりました。ヘレーネ様」
膝を曲げて礼をする侍女頭は柔和さとは無縁の痩せた女性で、隙の無い仕草と視線で常に周りに気を配り侍女の不手際を叱責するのを唯一の楽しみとしているような人物だった。
「御無沙汰して申し訳ありません。変わらずお元気そうで安心しました」
フリザード魔法学園に入学してからヘレーネはこの屋敷を訪れることは無かった。二年半。そう考えると随分な時間が経っていると思う。
侍女頭のグレンダは「ヘレーネ様は一段とお美しく」と褒め称え、目尻に皺を寄せて微笑んだ。彼女はヘレーネが男だと知らないので美しくなったといえば喜ぶと思っているのだろう。
ちっとも嬉しくないのに。
「ありがとうございます」
それでもこう返事をするのが恒例というか、礼儀であるのでヘレーネも微笑を浮かべて応える。
「旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」
会釈をしてからグレンダは廊下を先に立って歩き出す。その後を続いて歩きながら初めてこの屋敷に来た時の事を思い出していた。
八歳でディアモンドへと出てきた時に世話になったのがフォルビア家で、重厚な中に所々繊細な意匠が凝らされた趣味の良い屋敷だなというのが第一印象。ヘレーネはフォルビア侯爵夫人であるフィアナとしか面識が無く、初めて会う侯爵がどんな人なのかと期待と不安が入り乱れ酷く緊張していた。
古い名門の貴族で法務大臣の補佐官を長く務めた人物で、現在は王城で教育係として働いている王からの信が厚いという。
恐い人だろうか。
厳格で冷たい人だったらどうしよう。
そんなヘレーネの心配を、出迎えたフォルビア侯爵は優しげな眼差しと笑顔で払拭してくれた。視線の高さまで腰を屈めて「お会いできて光栄です」と頭を垂れたのだ。
包み込むような温かさと、思わず頼ってしまいたくなるような余裕を感じさせる表情と雰囲気に、この人に任せておけば安心だと思わせてくれた。独りコーチャーから出てきた心細さを一気に緩め、知らず内に涙を流して号泣していた。
己の運命をまだ理解できていなかったヘレーネにとって、父からディアモンドへ行くようにと告げられた日から自分は捨てられた不要な人間なのだと思い込み、苦しくて辛かった。
詳しいことはディアモンドへ行き、フォルビア侯爵から聞くようにとだけいわれて。
迎えに来た馬車は見たことも乗ったことも無い程立派で、なぜか名前に「様」をつけられて恭しく扱われた。そんな扱いも初めてで怖くてたまらないし、一週間の道中で泊まった宿も一流の宿で一体なにが自分の身に起こっているのか解らず戸惑うばかりで。
完全に人払いのされた安心できる部屋でフォルビア侯爵が告げた言葉はあまりにも非現実的でヘレーネだけでは到底受け止められるものではなかった。
「ヘレーネ殿、久しぶりだがお元気そうだ」
「フォルビア侯爵様ご無沙汰しており申し訳ありません。お会いできない間、お体にはなにも問題はありませんでしたか?」
「年寄り扱いは止してくだされ。見ての通りぴんぴんしておりますとも。中には早くくたばれクソ爺と思っている輩もいるでしょうが」
声を上げて笑い、フォルビア侯爵は書斎の椅子を勧めてきた。そしてグレンダに茶の用意はいいので下がっておくようにと申し付けてヘレーネの向かいの椅子に腰かける。
元は金茶の髪には白い物が混じって金と銀の淡い色合いになっているが、六十代の半ばを迎えてなおその量は豊かで、後ろへ束ねられた見事な頭髪は艶さえあった。柔らかな光を湛えて見つめる薄青い瞳は九年経った今も、昔と変わらず力強くヘレーネを鼓舞してくれる。
「リディアが世話になっているようで、感謝しております」
「そんな。逆に利用する形になってしまって申し訳ないと思っているんです」
グレンダの気配が無くなるとフォルビア侯爵は言葉を変えて、苦笑を交え軽く頭を下げた。そしてその言葉に心が苦しくなる。
感謝などされる謂れは無い。
むしろ責められるべきで。
「後継ぎをどうしようかと本気で悩んでおりましたから、正直助かりました。なかなか爵位を譲ってもいいと思える人物に出会えず、陛下に返上しようと相談したら……叱られてしまいましたよ」
「侯爵様が叱られるなんて想像できません」
「まるで駄々っ子ですよ。陛下は」
微笑む顔には相手に対する親しみが溢れ、呆れているような口調でいながら、そこに愛情があるのが確かに感じられる。
「御自分を責めてはいけません。ヘレーネ様には信頼できる協力者が沢山必要なのですから。そのために孫が役立つのであれば、喜んで私はリディアを差し出しましょう」
フォルビア侯爵が心から仕え、敬っているのはローム王だ。自分に向けられているのはその威光の恩恵のほんの少し。それでも信頼でき、全てを話せるのはフォルビア侯爵とライカだけだ。グラウィンド公爵は庇護してはくれるが、未だに確約を貰っていない。
「あの子は真っ直ぐすぎて、少々扱い辛いかと思いますが根は素直な子です。必ずやヘレーネ様の御力になれるかと」
「もし……命を失うようなことになったとしても、フォルビア様は――」
「ヘレーネ様。そのような事態にならぬよう、私は出来得る最善のことを致します。それでも尚リディアが倒れたとして、私がヘレーネ様を責めることなどありません。責めるべきは手を打てなかった私の至らなさ」
甘んじてサーシャの怒りを受けましょうと軽く締めくくる。
どうして。
「私なの?他の誰でもなりたい者がなればいいのに」
ヘレーネの手には余る運命に逃げ出したくなる。
孫の命すら捧げようというフォルビア侯爵と、意見があっても結局はヘレーネを尊重し職務を全うしようとするライカ。
自分にできることなど高が知れているのに、期待し、担ぎ上げようとされるのは堪らなく怖い。命を握っているのだと意識すればするほど、その重責に押し潰されそうになり叫びだしたくなる。
こんなに弱いのに。
誰かを利用し、命を命と思わないでいられるはずが無い。
「ロッテローザ様の縁談を破棄してしまえばいい。それが一番手っ取り早くて、国民も納得する。顔も名前も知らない私より、カールレッド王子の病弱さの方が好まれる」
お願いだから誰か変わって欲しい。
「縁談の破棄などしてはショーケイナの王が黙ってはおりませぬ。今彼の国は隣国ナクヤの脅威に晒され怯えきっております。我が国都と協定を結んではおりますが、それより強固な絆を得なければ安心できないのです。国民は飢えて死んでいくのに、ナクヤの民は豊かさを手に入れんがために軍備強化を受け入れ、開戦を今か今かと待ちわびている。そんな隣国を畏れるのは当然です」
解っている。
ヘレーネがどうにもならないと理解しているのを知っていながら、侯爵はゆったりとした喋り口調で説明してゆく。甘い期待と儚い望みを次々と打ち消されながらぐったりと背凭れに身体を預け弱々しく息を吐いた。
それでもなおフォルビア侯爵は言葉を重ねる。
「王子の病弱さは国民の不安を煽り、例え王位に就いたとしても傀儡としてしか存在できぬと知っております。常に病を引き寄せる王子には政務や諸国への対応など難しく、民の幸せを願うこともまた困難な状況です。そうなれば国の一切を握ろうとする者が現れ、内部からフィライト国は腐敗し倒れる。そのことがお判りになりながらヘレーネ様は放っておかれると?」
「…………狡い」
両脚を座面に上げて抱え込みヘレーネは小さく震える。赦されるならば放棄して、普通の人間として生きていきたい。
ノアールのように兄弟に爵位を譲り、自分の好きなものを選び、進んで行ける未来が欲しかった。
羨ましくてたまらないのに、自分はこの舞台から降りることができないのだと知りながら諦められずにいる。
この国が滅びてしまえばヘレーネは望み通り運命から逃れることは可能だが、豊かで美しいこのフィライト国に住む人々と触れあえば触れ合うほど愛しくて。
「ヘレーネ様。カールレッド様の容態は芳しくありません。今までで一番の病魔がまだ幼い王子を蝕んでおられる。憚る事無く申し上げれば、完治の見込みは無く、持って三月程かと」
「三月!そんな」
「どうか御覚悟を」
「それではなんのためにキトラスから巫女を呼んだの!?」
「ヘレーネ様、どうか」
「いやだ!できない!」
覚悟などできるわけが無いのだ。
与えられる猶予はたったの三ヶ月。
もしかしたらもっと短いかもしれないのに。
いつかは訪れるかもしれないと怯えながら暮らしてきたこの九年間だが、実際に期限を切られてしまえば無様に狼狽えて、嫌だとそれこそ聞き分けのない小さな子供のように叫ぶことしかできないなんて。
「お静まり下さい。魔法がかけられているこの部屋でも、そのような大声を出されては外へ洩れてしまいます」
「洩れてしまえばいい!所詮秘密など護り通せる物ではない。もう……疲れた」
「そうでしょう。貴方はずっと耐えてこられた。私から見ても大変辛抱強く、課せられたことを不足なくこなしてきた。貴方がこの事態を望んでいらっしゃられないことは十分承知しております。ですが」
深い翳りを帯びたフォルビア侯爵の面に悲しみを見出し、ヘレーネは震える唇を必死で噛み締めて堪えた。
今までずっとそうしてきたように。
「カールレッド様はまだ七つ。ここへ貴方がいらっしゃった時よりもお小さい。王子はこの国を愛し、国民の期待に応えたいと切実に思っていらっしゃるからこそ今まで病と闘い、そして生きて戻ってくださった。今回の敵は思った以上に手強く、幼いカールレット様には対抗できるだけの体力が残っておられなかった」
もし可能ならばカールレッドにヘレーネの残りの人生を与えることができればいいのに。
そうすればこの重圧と責任から解放され、王も国民も侯爵も諸手を挙げて喜ぶだろう。
七歳で余命三ヶ月を宣告されるカールレッドを思えば、気の毒だという気持ちが胸に浮かぶが、その結果容赦なく押し付けられる大きな荷物は苦々しく、どうして健康体で産み落とさなかったのだと罪の無い王妃への怨み言が胸中に渦巻くのを止められない。
「どうか王子の思いを、ヘレーネ様には汲み取って頂きたく存じます」
「魔法は……全てを可能にするのだと思っていたけど、所詮は人を殺すのに特化した技術でしかないんですね」
「恐らくは。それでも生活を豊かにし、民の暮らしを支える技術もまた魔法の力です」
医療と魔法を組み合わせた特殊医療でも、怪我や病気の治りを速めるぐらいしかできない。治るはずの無い病を治癒し、切断された手足を元通りにすることもできない。失われた臓器の代わりを魔法道具が補う技術はまだ開発段階で完成には至っていないのだ。
「ヘレーネ様。私は三月と申しましたが、巫女の力を借りればそれはもう少し先へ伸ばすことは可能です」
「…………それは、伸ばすだけ?」
フォルビア侯爵は苦りきった顔に笑顔を滲ませ微かに頷く。
「陛下も私も今はまだその時ではないという考えは一致しております。突然現れた第二王子に貴族たちが一気に陰で動き出すのは必至。そうなってしまえば誰が味方で敵なのか判断は難しくなります。そして二心を抱く者が一番善良そうな顔で近づき、折角築いた人脈を悉く打ち崩してゆく。そうなる前に有力な者達と結び、信頼を得ることが必要なのです。それには時間が必要」
薄青の瞳を閉じて侯爵がため息を吐き、ゆっくりと目蓋を押し上げるとヘレーネを優しく見つめた。
「そう長く持たせることは難しいでしょうが、一年程時間稼ぎはできましょう。その間にヘレーネ様は素性を隠したまま、これまで通りコーチャーの貿易商アルガス=セラフィスの一人娘で私の後見を得て社交界へいらしてください。これからは腹の探り合いとなりますのでそのおつもりで」
「…………あんな上辺だけのつまらない会話、我慢できるかしら」
「できますとも。ヘレーネ様なら」
三ヶ月が一年伸びた所で訪れる運命は変わらない。
だがその間に腹を括ることは出来るかもしれない。
否、覚悟を決めなくてはならないのだ。
「一年間カールレッド王子は癒えない病に苦しまなければならないのね……」
それが自分のためだとしても同情はできない。ヘレーネには時間が必要で、そして王と侯爵もそれを望んでいる。
王子といえども国を平らかに治めるためには苦痛を長引かせることも厭わないその決定には親の愛情や悲しみなど微塵も感じさせることは無い。
所詮王子も駒のひとつにすぎない。
国という観点から物事を見れば王もまた駒のひとつか。
「王子殿下もそれは承知の上です。そして貴方にお会いしたいと私に頼んでいらっしゃいましたよ」
「私に……?」
ヘレーネは一度も王とその家族と会ったことが無い。殆どの市民がそうであるように、また自分も庶民だったからだ。
これからは違う。
「そしてローム王も」
フォルビア侯爵の放った言葉はヘレーネの耳を確かに通ったが、心になにひとつ残さず綺麗に消え去った。
「アルベルティーヌ様はとても楽しみしておられるそうですよ」
「侯爵様、リディアには」
「フォーサイシアから戻り次第全て話すつもりです」
「……………本当になんといったらいいか」
友達でいたかった。
ずっと。
「最初に申しあげたはずでしょう。気に病む必要などなにもないのですと」
全てが変わって行くのが恐くて、辛い。これから歩み道の困難さと孤独を思い、また震えて膝を強く抱えた。




