暗転
図書館の扉を押し開けると楽しげなお喋りの声が聞こえてくる。
普段は厳かな空気に包まれて静まり返っている知識の詰まったこの塔に賑やかで可愛らしいお客さまがきているらしい。
その声は聞き覚えのない物なのでリディアは小さくため息を吐いた。
扉を閉めてすぐに見渡すがノアールの姿を見つけることはできずに肩を落とす。
秘密を打ち明けてしまったあの日から協力してくれると言った彼とはなんだか顔を合わせ辛くて避けてしまっていたが、そのまま春休みに突入してしまい逆に不安になってきたのだ。
自分ひとりの力では呪いを解くことなんてできないと解っている。
だから心のどこかで協力してくれる優秀な人材を探していたのだ。
最初は先生に相談しようかと思ったがさすがに身内の恥すら露見しかねない事件の事をおいそれと話すことが出来ない。
それにどの先生が一番信用できて助けてくれるのかも分からなかったし。
ただひとり事情を知り相談にのってくれそうな人物はいたが、その先生の名前は意識的に頭の中から消していた。
「セレスティアなら来ていたがきみの家に行くとレインと出て行ったが?」
不意に声をかけられてリディアが驚いて顔を上げると受付に座っている植物学の講師ドライノスが冷たい微笑を浮かべてこちらを見ていた。
艶やかな長い髪と紺色のローブで、ますます色が青白く見える肌に神経質そうな目と鼻が威圧感を与える。
酷薄な笑みをたたえる唇から出される声は女とは思えないほど掠れて低い。
「ノアールとセシルが家に……」
「レインが連れてきた姦しい置き土産を何とかしてもらえると助かるんだがね」
灰緑色の瞳が動いてスロープ近くの書見台を陣取っている華やかな少女たちを指す。
リディアもそちらを見て面食らう。
お喋りは止めずに。
「ちょっと休憩したいんだが……。テミラーナ留守番しておいてくれるか?」
「え?あっと。はい」
名字を呼ばれてドライノスの方へと向き直って頷く。
適当にその辺を片付けた後で受付を出て来ると「よろしく頼む」とだけ言い置いてさっさと出て行った。
リディアは留守番を頼まれたものの受付の中には入ったことが無いのでどうするべきか悩み、誰かが来たらその時に中に入ろうと決めた。
それまで見たい本を棚から取ってきて受付の近くで読んでいたらいいのだ。
スロープまで緊張した表情で向かうと少女たちは声をかけるわけでもなくお喋りを続け、リディアには興味を無くしたように見向きもしなかった。
ほっと胸を撫で下ろしてスロープを上がり『魔法理論』の本を手に下りる。
「ねぇ、貴女」
そのまま通り過ぎようとすると鈴を鳴らしたような美しい声が呼んだ。
数歩行き過ぎてからゆっくりと振り返ると銀色の髪を結い上げた無邪気なお姫様が紺色の瞳でこっちを見つめていた。
「テミラーナ家のお嬢さん?」
「……はい」
近くで見ると本当に美しい顔立ちの少女だった。
バランスよく配置された目鼻立ちに薔薇色の小さな唇。
傷ひとつない綺麗な肌は薄く化粧がされていてまるでお人形のよう。
仕立ての良い服も髪飾りも一級品で、まるでここが王宮の中の一室かと錯覚しそうになる。
といってもリディアは王宮など行ったことも無いのでただの想像だけれど。
「私、貴女のお祖父様には大変お世話になっているの。でも私がここへ入学してからは全くお会いしていないからお元気にされているのか心配で」
「お祖父さまに……?」
「ええ。貴女のお祖父さまはオルキス=フォルビア様でしょう?」
確かに母親の父親の名前だった。
だがどうしてテミラーナの姓だけで母方の家の事が分かるのか。
警戒しているリディアを尻目に立ち上がると優雅にお辞儀をしてから「私はヘレーネよ」と名乗る。
だが名前だけで済ませられたのでどこのお嬢様か解らない。
きっと歴史のある貴族の出なのだろうと察することはできる。
敢えて名乗らずにいるのを不躾に詮索するのは祖父の名前に瑕がつきかねないので黙っておくしかない。
「リディア=テミラーナです」
「よろしくね。リディアと呼んでもかまわない?」
頷くと嬉しそうに微笑んでヘレーネは連れの少女を振り返り「彼女はフィリー」と紹介する。
フィリーという名の少女も立ち上がり美しい会釈をしてから「フィリー=スワです」と控えめに名乗る。
「ねぇ。どうせ誰も来たりしないんだからこっちでお喋りしましょうよ。私リディアのこと知りたいわ。一年生よね?」
「はい。ヘレーネさまは」
「いいのよ。ヘレーネと呼んで。様なんかつけるような大層な人間ではないんだから」
不愉快そうに吐き捨ててヘレーネは軽く睨むとさっきまで座っていた椅子にまた腰かけた。
フィリーが苦笑しながら「気にしないで」と取り成して自分も座る。
そんな良い服を着て上品な喋り方をしておきながら大層な人間ではないと言い張る人物と楽しくお喋りなどできそうにも無かったが、仕方がないのでヘレーネの横におとなしく座ることにした。
ドライノスがなんとかして欲しいと言った心境がよく解る。
セシルが連れてきたらしいが一体どこからこんな厄介な人物を見つけてきたのだろうか。
「ヘレーネとフィリーは二年生なの?」
砕けた口調で質問すると機嫌が直ったのか笑顔で「そうよ」と答えてくれる。
フィリーも目を細めて笑い「同じクラスなの」と付け足した。
自分が彼女たちと同じ学年でもなく、同じクラスでなくて無くて本当に良かったと心から思う。
男の子たちから見たら美しく可憐で守ってやりたい理想の少女なのだろうが、同性から見れば付き合いにくいことこの上ないタイプだ。
その点でセシルはリディアの中でも愉快なタイプの少女だった。
ちょっと強引だがなにをしでかすか解らない所が退屈しなくていい。
友達にするならセシルだな――と考えて一気に血の気が引いた。
いけない。
そんなことを考えては。
「どうしたの?リディア」
不思議そうにヘレーネが顔を覗き込んでくる。
それに硬い表情で首を振ってからぎこちなく微笑む。
「そういえば二年生なら学期末試験で三十番だった人の名前解る?」
「三十番?それだけじゃなにも解らないわ。どんな感じの人か教えてもらえると助かるわ。もしかして……リディアの好きな人なの?」
身を乗り出してきたヘレーネに慌てて「違うの」と否定する。
フィリーがなんだか当惑した顔でこちらを見ているのが逆にリディアの焦りに変わった。
困っている所を助けてもらった先輩の名前を聞きそびれたことを早口でまくしたてると「成程ねぇ」と揶揄するようにヘレーネが何度も頷く。
なんだか無性に恥ずかしくなってきて聞くんじゃなかったと後悔しているとフィリーがもしかしたらと呟いて「三白眼の人相の悪い人じゃない?」と確認してきた。
そうだと答えるとヘレーネが綺麗な顔を顰めて頭を抱える。
「最悪。まさかライカ?ちょっと、フィリーもどうして解るのよ」
「だってヘレーネが彼を馬鹿にするたびに『俺様は三十番なんだぞ』って言い返してたから覚えちゃって」
「そんな無駄なことに頭を使うもんじゃないわ。なんだってリディアはあのおバカなライカに惹かれるのかしら」
「だから、そんなんじゃなくて」
居たたまれなくなりリディアは小さくなって俯いた。
惹かれるような少年ではなかったのは確かだ。
自分勝手で野蛮で優しくない。
そんな人に好意など抱きようがなく、ただもう一度会った時にはちゃんとお礼が言えたらいいなと思っていただけで。
しかしヘレーネにここまでいわれてしまうライカがなんだか気の毒に思えてくる。
「昨日爆発事故があったのを覚えていない?」
確かに昨日の昼間に下宿街で爆発事故があった。
すさまじい音が響き家の外に出てみると王城の向こう側から黒い煙が晴天に細く突き上げているのが見えた。
他国とは今の所友好的な関係で戦争など起きるはずも無く、国政を憂えて立ち上がる若者が出るほどディアモンドのローム王は国民を蔑ろにしている無能な王ではない。
たくさんの野次馬が駆けつけている声と足音がまるでお祭りのように通りを走って行くのを見てリディアも行ってみようかと考えていたら母親に危ないからと外出を禁止されてしまったが。
「あれをやったのはライカよ?しかも私の部屋に投げ込んだんだから」
「えっ!?ヘレーネは下宿街に住んでるの!?」
さぞや立派なお屋敷に住んでいるのだろうと思っていたのに。
リディアの祖父を知っているということはディアモンドの住民だろうし、しかも貴族だろうから実家から通いで学園に通っているのだと勝手に考えていたがどうやら違うらしい。
「……そこに食いつくなんて変わってるわね。リディア」
フィリーが呆れながらも不意を突かれたらしく思わず噴き出した。
悔しそうにヘレーネは「ライカが私の部屋に爆弾を投げ込んだのよ?」ともう一度言い含めるように繰り返す。
「ああ……えっと。どうしてライカはヘレーネの部屋に投げ込んだの?」
どう答えれば少女の気が済むのか解らずに顔色を窺いながら言葉を発するとようやく満足そうに笑って頷いてくれてほっとする。
「幼馴染の腐れ縁ってところね。小さい頃から一緒に遊んでいたからお互いのことをよく知りすぎて喧嘩ばっかりしているから」
「じゃあライカも貴族なの?」
「もう!どうしてそうなるの!?」
素っ頓狂な声を上げて天を仰ぐヘレーネの横顔を首を竦めて眺めたが、なにがいけなかったのか見当もつかない。
ここまで会話が成り立たないとは思ってもいなかった。
住む世界が違うと世間話すらままならないらしい。
「ああ。えっと。ヘレーネは貴族だから、遊ぶこともできたライカも貴族なのかなって」
「だ~か~ら~。私はそんな大層な身分じゃないの。だからライカもただの職人街のバカ息子」
「ごめんなさい……」
もうどうしていいか解らずにリディアは『魔法理論』の本を抱きしめて立ち上がった。
これ以上話してもお互いに消化できない気持ちを抱えて不快になるだけだ。
とてもじゃないが神経が参ってしまう。
失礼してひとりで本を読んでいた方がためになるし楽だ。
「リディアは一年生だからその本はまだ早いんじゃない?」
フィリーがタイトルを素早く見咎めて忠告してくる。
赤い印もしっかりと見られていたのか「私たちにもまだ早いくらいなのに」と苦笑された。
「勉強が好きなのね」
ヘレーネもちらりと視線を送って確認してから微苦笑する。
だがリディアはそれに首肯することができずに唇を軽く噛んだ。
勉強は嫌いではないがこの本に関しては難解すぎて理解が追いつかない。
楽しいとか好きだとかそういうレベルのものではなかった。
疑問を解消できたとか、難問が解けたとかそういう爽快感の無い勉強は辛いものでしかない。
「どうしたの?」
「わたし……やらなきゃいけないことがあってこの学園に入学したの。だからたくさん勉強して、本も読んでそれをやらなきゃなにも始まらない。できないから」
「やらなきゃならないことって……なに?」
優しい声でヘレーネが問う。
だがリディアは静かに頭を左右に動かして「いえない」と拒絶する。
もうこれ以上他人に秘密を洩らしたくは無かった。
隙を作ることはしたくない。
セシルのこともノアールのことも考えれば考えるほど後悔ばかりが胸を締め付けた。
協力者を求めながら無力な自分の姿に傷つく。
誰かがいれば更に孤独を深く感じる。
六年の月日は同じ年の子供たちに自由と成長をもたらしたが、リディアの時間はあの日に留まったままだ。
酷く惨めな気持ちになりリディアは本を置いて出口へと走った。
心配そうな声でヘレーネとフィリーが名前を呼んでいるが、それを振り切って外へと飛び出す。
髪に結んでいる鈴がチリンチリンと澄んだ音をたてた。
東の大陸の果てにある島国では鈴は魔除けの効果があるらしい。
それを聞いた父がわざわざ取り寄せてくれたものだ。
そう。
リディアには家族がいる。
優しくて暖かい、甘やかすだけ甘やかしてくれる窮屈で息苦しい家族が。
帰ろう。
誰かに協力してもらおうなんて思ってはいけない。
お互い傷つくだけならば近づいてはいけないのだ。
「リディア」
学園の玄関ともいえるホールに入った所で後ろから腕を掴まれた。
細く長い指と肉付きの薄い掌が右の二の腕を軽く引いている。
華奢というよりも骨ばって固い手に驚いてリディアは身を捩って抵抗した。
「やっ!放してっ!」
「……逃げないのなら放すから」
「フィリー……?」
追いかけてきたのはさっきまでヘレーネとリディアの間で仲を取り持っていた少女だった。
いくらリディアの足が遅いからとはいえ図書塔を出てから追いかけてきたはずのフィリーに捕まるとは意外と足が速い。
「逃げない……から、放して」
「ごめんね」
そう謝ってから手を放し弱々しい笑顔を浮かべる。
どうしたらいいのか解らないというような困った笑い方に見えた。
それからなんとなく気まずい空気が流れてリディアは高い天井を見上げてから二階部分に相当する壁につけられた細長い明かり取りの窓がずらりと並んでいるのをぼんやりと眺めた。
フィリーは校門に続く大きな扉のある入り口とその先にある購買部の方に顔を向けている。
「……どうして追いかけてきたの?」
フィリーがなにも言わないので仕方なく口を開く。
ここに二人で黙って立って時間を無駄にするのは嫌だった。
できれば追いかけてこず、放っておいて欲しかったのに。
「ヘレーネのこと……誤解しないで欲しくて。いつもはもっと喋りやすい子なの。だから」
「わたしはヘレーネのことで怒って帰るわけじゃない。ただ……自分がすごく無力で子供で腹が立って。だからヘレーネは関係ないの。じゃあね」
勝手に別れの言葉を突き付けて校門の方へと向かう。
奇しくもフィリーが見ている方向へと歩く格好になる。
「リディア待って」とやはり声をかけて再び手を掴まれた。
皮手袋をしている左手を。
「触らないでっ!!」
身体に電撃が走り反射的に動いた右手は狙い違わずにフィリーの左頬を打った。
見る間に白い頬が赤くなるその横顔が痛い。
だがリディアには後悔よりも怒りが、罪悪感よりも恐怖が勝っている。
「もう二度と、誰もわたしを傷つけることはできないんだから!」
打たれたフィリーの頬と同じくらいリディアの頬も上気している。
興奮しているのではなく錯乱に近い状態だった。
まるで目の前にいる項垂れた上級生が犯人だといわんばかりに感情が昂ぶり激昂している。
「そこにいるのは……テミラーナくん?どうしたんだい」
購買部の前の医務室から校医のアイスバーグが飛び出してきた。
消毒用のアルコールの匂いがふわりと漂い紫の穏やかな瞳がリディアを見て微笑む。
それからフィリーを見て肩を落とす。
「喧嘩かな?」
「……いいえ。私が悪いんです。不用意に彼女の心の傷に触れてしまったので」
フィリーがゆるゆると否定して左頬を自分の手で隠しアイスバーグから逃げるように下がった。
医者は白衣のポケットに両手を突っ込んで「心の傷ね」と苦笑する。
彼の視線はリディアを映し困ったように首を傾げた。
「やめて」
あの日からみんながリディアを見るたびに気の毒そうな表情をする。
それから妙に優しくて事件に関わるような言葉に神経質になり、手に余った時には困ったように微笑むのだ。
そんな態度がリディアを苛々させる。
子供の癇癪だといわれようとも抑えることが出来ないのだ。
我慢ができない。
「そんな!そんな顔しないで!」
「リディア……」
どうしていいか解らずに無意味にフィリーが名を呼ぶ。
その声がリディアの中の不安を掻き立て暗闇に突き落とす。
なにも見えない所へ。
誰もいない場所へ連れて行かれるような感じがして恐慌状態になる。
ここにいてはいけない。
逃げなくてはいけない。
世界中の人たちが全て敵に見える。
どこも安らげる場所などないのだ。
世界の果てまで逃げてもリディアは心の底から安心することはできないのかもしれない。
「っあああああ!!」
それなのに足が動かない。
身体がぶるぶると震え、それを必死で押え込もうとして逆に強く揺さぶられたかのようになった。
膝が笑い、視界が乱れ世界が反転する。
「……っ!!」
空気を飲むような悲鳴がフィリーの口から出る。
アイスバーグがリディアを後ろから抱き抱えるようにして押さえつけるが止まらない。
なにか耳元で囁かれているようだがよく聞こえなくてひどい耳鳴りがする。
目の前で蒼白になっているフィリーの顔がぐるぐる回って気持ちが悪い。
フィリーの唇が何度も同じ言葉を繰り返して動いている。
リディアの名前ではないのは分かった。
涙目で懇願するように薄く小さな唇が必死でなにかを伝えようとしているのにリディアには届かない。
「…………ょうぶ。落ち着いて。ゆっくりと息をして」
ようやく聞き取れたアイスバーグの声の向こうでフィリーと「ごめんなさい」という言葉が聞こえた。
「ど……して?」
謝るのと続けようとしたがリディアの意識はそこで途絶えた。
突然の暗転に身が凍るような恐怖を感じながらアイスバーグの腕の中へと倒れ込んだ。