プロローグ③
趣味というか、遅れてきた流行りというか、とにかく夢中になれることっていうのが今の僕にはある。宇宙飛行士の夢とは別に、今の僕には夢中になれることっていうのがあって、それは早朝、錦景女子高校のお姉さまたちで一杯になるバスに乗り込んで、その匂いを嗅ぐことだった。
僕は吊り革に掴まりながら、バスに揺られ、充満する匂いを嗅いで、一日のエネルギアを補充する。その作業に浸っている最中、まるで青春を感じている気分になる。愉快になれるのだ。もちろん、この作業が青春でないことを、きちんと僕は自覚しているし、少しセンチメンタルな気分になったりする。するのだけれどでも、やめられない。こういう点が、僕がこの作業を趣味と呼び、遅れてきた流行りと認識している理由である。
バスの中はほとんど錦景女子。
その中で僕だけ違う色、違う形の制服を着ている。
僕は匂いを嗅いで、緩い表情を窓に映しながら、心底、羨ましいって思うのだった。
錦景女子の素敵なセーラ服を着たい。
あの空間の中に入り込みたいって思う。
入り込んで、素敵なお姉さまたちに優しくされたいって思う。
これは宇宙飛行士の夢ほど切実なものではないけれど。
しかし確かな叶えたい想いなのだ。
「もうすぐ錦景祭だね」
左に立つお姉さまが声を出す。
「そうですね、」その隣に立つお姉さまが頷く。「ああ、一年って、とっても早いのですね」
「今年の錦景祭はどんなことが起こるんだろう」手元に口を当てて、お姉さまは笑う。
「今年は笑い事で済むことばかりだといいのですけれど、そうはいかないでしょうね」
「今年もアマキとマミコがなんとかしてくれるでしょう」
「楽観的な、とても楽観的です」
「だってもう、錦景祭の夜で、私は終わるもの、そしてあなたの始まり」
「私にその役が、勤まるでしょうか?」
「ヨシノがいれば大丈夫よ」
「きっと大丈夫でしょう、でも、その」
「なに?」
「きちんと出来るか不安です」
「出来るわ、それに、なんていうのかな、考えることじゃないっていうか」
「よく分かりません」
「あなたらしくやればいいの」
「色が変わってしまわないか、不安です」
「変えたらいいのよ」
「今が虹色みたいで、綺麗すぎるから」
「あら、今日は変なことを言うのね」
僕の左隣の人はカバンからA4サイズのビラを取り出して見ていた。
どうやら錦景祭のポスタのようだ。
薄いグリーンとホワイトの斑な背景の前に、着物を纏いポーズを取った女性が描かれている。
女性の足元に錦景祭に関する詳細な説明が列挙されていて。
僕はそれから目が離せない。
もっとよく、確認したい。
僕はいつの間にか、隣のお姉さまに近づいていた。
お姉さまは、僕がホポスタを真剣に覗き込んでいることに気付いたみたい。
お姉さまの顔が僕を見る。
目が合う。
お姉さまは笑った。
お姉さまはとても綺麗で、その笑顔は僕の脳ミソのとあるセクションの回転を、簡単に止めた。
目が合ってしまって。
どうしようって、そういうことよりも。
ずっとお姉さまのことを見ていたいって思った。
バスが停まる。
錦景女子高校の前に停まる。
錦景女子がバスから降りていく。
「欲しい?」お姉さまは僕に聞いて、僕が頷いてもいないのにポスタを折りたたんで僕のブレザのポケットの中に入れてくれた。そしてお姉さまは僕の頭を撫で、上品なウインクを見せる。「ばいばい」
急にガランと空いてしまったバスの中。
僕は放心状態だった。
とりあえず、空いた座席に座る。
座ってからも、ぼうっとしていた。
撫でられた頭が熱い。
恋をしたとか、そういうものではなくて。
神様に触られたとか、そういう澄み切った気分で。
体中が熱かった。
バスが錦景市駅に再び戻る頃。
私はポスタのことを思い出した。
慌ててブレザのポケットからポスタを取り出して見る。