会瀬
明人は、日の暮れた庭を、宿舎への近道に横切って歩いていた。
月は、相変わらず出ているが、十六夜が下にいるので気配はない。明人は、ひたすらに先を急いだ。早く一人になりたかった…どう考えても、答えの出ないこと。自分の気持ちと、紗羅の気持ち、それに、巻き込まれるかもしれない紅雪の事を考えると、余計に身動き取れない気がしたのだ。自分の勝手な想いで、紅雪がせっかく見付けた安心出来る地を、壊したくはなかったのだ。
ひたすらに下を向いて歩いて、宮から離れたので飛び上がろうとした時、何かが目の前に居て、小さな悲鳴が聞こえた。明人は驚いてそちらを見た。
「失礼を…」
尻餅をついてしまった相手に手を差し伸べて、それが紅雪だと知った明人は固まった。
「あ、明人様…。」
紅雪も驚いたようにこちらを見上げている。明人は我に返って慌てて紅雪を立たせると、言った。
「すまない。回りを見ていなかった。」
紅雪はドキドキしながら頷いた。
「いえ…我もぼうっとしておったのです。」
恥ずかしそうに俯く紅雪の美しさを月明かりに見て、明人は胸が痛くなった。
「…では、これで。」
明人が踵を返そうとすると、紅雪が思いきったようにそれを留めた。
「お待ちくださいませ!」明人はその声の思い詰めた様子に、驚いて紅雪を見た。「お待ちを…あの、お話がございまする。」
明人は何事かと紅雪に向き直った。紅雪は呼吸を整えた。例え駄目なのだとしても、想いだけは告げなければ。紅雪は、意を決して明人を見上げた。
「明人様…我は、ずっと申し上げねばならぬと思うておりました。」紅雪は、明人をじっと見た。「明人様には、ご迷惑なことであるかもしれませぬ。ですが、我は、ずっと明人様をお慕い申し上げております。何も告げずにおることは、我にとっても辛いことでありまする。ゆえ、申し上げねばと常思うておりましたが、それで明人様が、我を疎ましく思われるとではないかと、今まで申し上げられず…どうか、我の想いだけでも、知っておいてくださいませ。」
明人は、驚愕の表情で紅雪を見つめた。なんと言った?紅雪が、オレを…?
「…紅雪…なんと申した?オレを?」
紅雪は頷いた。
「…呆れていらっしゃるかもしれませぬ…でも、我は、明人様を愛しておりまする。」
紅雪は、言ってしまって、下を向いた。きっと、女の方からこのような事を言い出して、呆れていらっしゃるのだわ…。
紅雪は、あまりに明人が茫然としているので、いたたまれず頭を下げた。
「それだけでございまする。お時間を取りました。」
紅雪は踵を返した。明人はハッとして我に返ると、紅雪を呼び止めた。
「待ってくれ。」明人はやっと言った。「オレは…このような考えなしの愚かな男であるのに。それでも主は、想うてくれておると言うのか。」
紅雪は、背を向けたまま、小さく頷いた。
「愚かなどと思うたことはありませぬ。我は…気が付くと深く想うようになっていて、毎日お会いするのが、どれ程に嬉しい事であったことか…。」
明人は、わき上がるような激しい動悸を抑えながら、紅雪をこちらへ向かせて言った。
「オレの方こそ…どれ程に主を想うて来たことか。このような事は初めてで、主を想うと気の補充もままならぬほど…王はオレを案じて、宮へ呼んで話を訊くほどであった。」
紅雪はみるみる頬を赤らめた。明人様が…我を、そのように…。
「明人様…。」
明人はしかし、苦しげに顔を背けた。オレには、紗羅が居る。あれを見捨てる事もできない。しかし、無理に二人めとって、その上あの屋敷に二人を住まわせるなど…。
「…紅雪、オレはそれでも、王の命で迎えた妻が居る。主を迎えるとなると、あの狭い屋敷にあれと暮らさねばならなくなる…そのような事はさせられないと、オレは想いを秘めて来たのだ。オレも愛している。だが、叶わぬのだ。」
紅雪は涙を浮かべて明人を見上げた。
「我は、明人様と共に居れるのなら、どのような場所へでも参りまする。我だけ小さな小屋で過ごせと言われても、従いまする。明人様…我はもう、別の殿方などに、嫁ぐ事は出来ませぬ。」
明人は、じっと紅雪の目を見返した。本当ならば夢のようなこと…これほどまでに愛している女が、自分を愛していると言うのだ。
明人は、涙ぐんだ。
「紅雪…」明人は手を差し伸べた。「愛している。」
「明人様…!」
紅雪は、その腕に飛び込んだ。明人は紅雪を抱き締め、その甘い感触に酔い、今まで感じたことのない幸せを感じた。これが愛してるということなのだ。愛し合うとは、こういう事なのだ…。
明人は紅雪に口付けた。そして、何を失っても、これだけは失いたくないと、心の底から思ったのだった。
「お帰りなさいませ。」
栗色の髪で、グリーンの瞳の美しい女が頭を下げた。美しいと言っても、少し幼さの残る頬にまだ成人して間がないのが見て取れる。信明は微笑んで、刀を外してその女に渡した。
「桜、大事なかったか?」
桜は頷いた。
「はい。本日は学校のほうへ参りましてございます。」
信明は桜に手伝われて着替えながら、言った。
「学校へ?主も興味を持っておると言っておったの。」
桜は花のように微笑んだ。
「はい。図書館で、涼様にいろいろな本について話を伺いました。とても面白かった。」
信明は着替えを済ませ、桜の手を取って居間のほうへ促した。
「そうか…主は、学校へ通いたいと思うのか?」
桜は下を向いた。
「はい…我は、人の世を全く知りませぬ。なので、信明様とお話しする時に人の世のことが分からぬ時がございます。あそこで学べば、きっともっとお話しすることも可能であるかと思いますの。それに…あの…なぜに我が陽花様にお気に入られないのかも、きっとわかるはずかと…。そうすれば、信明様にもこれ以上お気を煩わせることもないかと思いまする。」
信明はそれを聞いて、小さくため息を付いた。
陽花は、明人を成した妻だ。しかし、人の世で育ったため神の世の理に慣れない。なので、王から信明に紗羅の話があった時、あまりに機嫌を悪くしている陽花を気遣って、明人が紗羅を娶った。
さすがにそれには陽花も、神の世に生きているのにと反省したようで、此度の話があった時は、何も言わずにあっさり頷いた。
しかし、実際にこの桜が嫁いで来ると、様相は変わった。
二人の妻が住めるようにと屋敷は大きく建てなおされたが、そこへ桜が入ることに、陽花はガンとして首を縦に振らない。
桜は王族なので、正妻であるにも関わらず、まだ一度も屋敷へ行ったことすらなかった。
あまりに不憫で信明が桜を抱いて空から屋敷を見せてやったことがあったが、陽花はそれを気取って大騒ぎだった。
あまりのことに信明も叱ろうとしたが、知らない者のそんな剣幕を見るのは初めてであった桜は怯えて震えが止まらず、気を失ってしまったので、信明は仕方なく桜を抱いて自分の宿舎へ戻り、屋敷並に広いそこを桜のものとして住まわせていた。
しかし、神の王室で温室育ちの桜は、自分が何か大変な失礼をしてしまったのだと思い込んでいた。
人の世ではいけないことを、自分がしてしまったのだと思ったのだ。そうではないと信明は説明するのだが、複数妻が居て当然の世に生まれ育った桜には理解が出来ず、それは信明が自分を気遣って言っているのだと思っていた。なので、一刻も早く仲良くしたいと思っていた桜は、最近学校にとても興味を持っていたのだった。
元々勘が鋭く頭の良い桜は、信明に就学を許されていなくても、本だけを借りて来てみたりして、一人で努力しているのは知っていた。
そんな姿がいじらしくて、本当は桜の落ち度ではないことを知られて、しかも自分を妬んでいるなどと知られるなど、信明は耐えられなかった。
「そうであるな…もうしばらく待つことは出来ぬか?腹の子が生まれるまでは、我も心配であるしの。主も身が重いと、勉学に集中出来まい?」
桜は、大きくせり出した腹に手を置いた。
「はい…でも、無理は致しませぬから。信明様、お子を屋敷で生みとうございます。皆に祝福されてこそ、この子も幸せであるかと思いますの。我も、この子の誕生までに人の世の作法を身に付けて、子に教えて行きたいのです。さすれば、皆仲睦まじく屋敷で暮らせまするでしょう?」
信明は、あまりに真剣に頼む桜に、渋々頷いた。
「…では、我から王にお頼みしてみるゆえ。くれぐれも、無理をするのでないぞ。」
桜は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「はい!ありがとうございます、信明様。」
桜は信明の胸に寄り添った。
信明は、明人の父と言ってもまだ400歳にもならない龍で、外見は人の30代のそれでしかなかった。人の世に居たなら、回りは明人ほどの子が居るなど思ってもみないだろう。桜は人の世でいうと、まだ20代前半といったところで、並んでいても違和感はない。最初に会った時、桜はとても怯えていた。龍という強い気の前に、自分が死んでしまうかもしれないと、本気で思っていたらしい。だが、信明が思いも掛けず優しく、また強く守ってくれるので、徐々に慣れて、今ではいつも帰りを待っているのを信明は離れていても感じた。
桜の気が、家路に付こうとして気を抜いた自分に流れて伝わって来て、それにいつも癒されていた。
桜の、自分に対する愛情が、とても深く、偽りのないものであるのは、もう知っていた。そして、自分でも驚いたことに、信明も桜を愛していた。陽花の事を愛して神の世まで出た自分が、最近のすれ違いで徐々に薄れ、埋めようのない溝になっているのは感じていたが、まさか桜を愛するようになるとは思ってもいなかった…。まして、王から決められて迎えた妻であったのに。
結婚してすぐに出来た子も、思えば道理であった。信明は今、宿舎に居て幸せであったので、屋敷に全く寄りつかなくなってしまっていた。そしてそれを、心の底で気にしながら、幸せでありながら幸せでないような、矛盾した思いを抱えていたのだった。
そしてそれを忘れようとするかのように、信明は、桜に唇を寄せたのだった。