本心
明人は、落ち着かなかった。
紅雪と話していたいが、しかし自分には妻がいる。しかも同じ王族で、王に見られたらどのように思われるか…。
何人も妻を娶るのが神の男の常と言っても、それが自分のような一般の神であれば、王族を妻にすること自体が難しい事であるのに。それが二人となれば、許されるはずもない。
嘉韻が、昨夜宿舎の部屋へ来て、離縁してはどうかと言っていた。しかし、紗羅に落ち度がないのに、なんと言って王に許しを乞えば良いものか。
明人はただ悩んでいたのだ。
その想いに反して、紅雪は楽しそうに話していた。明人が考えに沈んでいるのを見ると、何かを察したようで、ふと表情を曇らせた。
「…明人様には、お忙しい身。我に付き合って散策など、面倒でいらっしゃいまするね…。」
悲しげに眼を伏せる紅雪に、明人は首を振った。
「今日は非番であるので、そのようなことはない。ただ、少し…考えねばならぬことがあって。」
紅雪は、じっと黙っていたが、言った。
「…奥様でございましょう?」明人は驚いたように紅雪を見る。紅雪は続けた。「存じておりまする。王族のかたを王の命で娶られたと。なので…我とこのように話しておっては、お気を悪くなさいますのね。」
明人は、フッと息を付いた。
「あれは、そのようなことは申さぬ。だが、オレは…。」
明人はじっと紅雪を見つめた。何を言っても、ただつらいだけだ。しかし、この想いだけでも知ってもらえるものであるなら…。明人が迷っていると、紅雪が明人に近付いて見上げた。
「我は、知っておってこのように明人様をお呼びして、お話して頂いておるのでございます。本当に、嫌な女であると思うておる…でも、そうせざるを得ないのです。」
明人は言葉の意味が分からず、紅雪をじっと見た。
「それは…いったい…」
その時、大きな気が立ち上ったかと思うと、いきなり宮から見たこともないほど大きな龍が飛び立った。明人が思わず紅雪を守る様に前に出て見上げていると、十六夜がそれを追って飛んで行くのが見えた。あれは、龍王か。
「なんて大きな龍…。」
紅雪が怯えて、明人の背にくっついて震えている。明人は言った。
「あれは龍王であるので、大丈夫だ。おそらく、戯れてでもおるのだろう。」
しかし、十六夜の表情は必死だった。何やら維月を出せとか言っているのが聞こえる。龍は右へ左へくるくると飛び回って、十六夜はそれに翻弄されていた。きっと、妃の取り合いでもしているのだろう。
明人は、宮のほうへ足を向けた。
「お送りしよう。もう時刻なので、オレも宿舎の方へ戻らなければ。」
紅雪はまだ何か話したそうだったが、明人の手を取ると、宮へと歩いて行った。
明人が宿舎に帰り着くと、伝言が置いてあった。王が、今夕に宮へ来いという。明人はそれまで少し休もうと、寝台へ崩れるように倒れ込んだ。最近は、気の補充が上手くできない。だからと言って、食べることで補充する気力も無かった。明人はそのまま、何を考えずにとにかく眠った。
気が付くと、辺りは暗くなっていた。驚いて起き上がった明人は、慌てて宮へと向かった。眠りは深くはないが、それでもなかなかに起き上がることが出来ない。気の消耗を避けるため、明人は歩いて宮へ行き、王の居間の前に辿り着いた。
「王、お呼びにより参上いたしました。」
中から、落ち着いた蒼の声がした。
「入るが良い。」
明人が努めて落ち着いて見えるようにと背筋を伸ばして入って行くと、居間には蒼と十六夜が座っていた。
「よう。」
十六夜は言った。どうも機嫌が良くないらしい。明人は軽く頭を下げた。
「座るが良い。」
蒼が言う。明人は示された椅子へ腰かけた。
蒼は、さっそく言った。
「主に聞きたいことがあって、ここへ呼んだ。」蒼は、十六夜を見た。「十六夜にも、オレから聞いていろいろ教えてもらったのだがな、主、紗羅とうまく行っておらぬのか。」
明人は、まさかそんなことを聞かれると思っていなかったので、面食らって下を向いた。
「いえ…特に問題はないのですが、ただオレが、気持ちをまだ向けられないだけでありまして。」
蒼は頷いた。
「なあ明人、オレは正直なところを聞きたい。臣下も皆家族のように思っているのでな。何か辛いことがあるのなら、言ってもらえまいか。主、気の補充もうまく行っておらぬではないか…オレは立場がどうのというつもりはない。王に答えるのではなく、友に答えるように話してもらえないだろうか。」
明人は迷った。蒼は、元が人だったこともあって、とても親しみやすい。王とは言っても、いつもこちらを気遣ってくれる上、少しも偉ぶった所がないのだ。その蒼が、おそらく気付いている。オレの状態を見て、そして調べて、ある程度知った上でオレに問うて来ているのだろう。明人は、嘘はつくまいと思った。
「…お察しの通り、オレは別の女を想っております。そして、紗羅を愛せないことに悩んでいます。どうすれば良いのか、何も思いつきませぬ。オレには二人娶るなど出来ない。だが、紗羅を里へ帰すことも出来ない。しかし、日々辛くなって参って、耐えるにも限界が来ております…気が、うまく補充できませぬので。」
蒼は、頷いた。
「紗羅と話し合うことはないのか。そして、離縁ということも出来る。続けるならそれも良い。これはオレが無理に頼んだことであるから、オレも漠殿にはきちんと申し開きするゆえ。そうでなければ…」と、蒼は十六夜を見た。「一生、自分を偽って暮らすことになろうぞ。オレは臣下がそんな境遇に居ることを望みはせぬ。紗羅とて、そのような結婚を続けていくことはつらいのではないか?お互いのためぞ。」
明人は、じっと下を向いて黙っている。十六夜が言った。
「お前さあ…あっちもこっちもなんて、土台無理な話なんでぇ。欲しいものが出来たなら、それを手に入れるためには他の何かを捨てなきゃならない時もある。誤魔化してないで、一度きちんと紗羅と話し合いな。そして、お互いがどう思って来たのか話した方がいいぞ。」と、ちらっと蒼を見てから、明人に視線を戻した。「鶴の宮のほうが格上だから、もし無理に二人娶るとなれば紗羅が正妻から降りることになるぞ。同じ家の中でな。宮と違って狭いのに、それでうまく行くはずはなかろうが。」
明人は驚いて顔を上げた。紅雪のことを…やはり知っていたのか。
明人はうなだれて十六夜に言った。
「…オレはバカなんでぇ。何もわかっちゃいなかった。5年前に親父が犬や猫をもらうわけじゃねぇと言ったのに。オレ、結婚の意味もわかっていなかった。ただ妹みたいに世話をして来ただけだったんだ。だってよ、誰かを好きになったりなんかなかったし、一緒に住んでりゃいつか好きになるもんなんだと普通に思ってたんだ。好きな女が出来て、初めてわかった…そんな簡単なことじゃねぇ。」
十六夜は頷いた。
「そうだな。お前は悪かねぇよ。面倒かもしれねぇが、一度しっかり話し合いな。蒼だって後悔してるんだ…蒼の命じたことでこんなことになってるんだからな。しかし、神の世じゃ普通にあることなんだぞ?それはわかってやれよ。」
明人は頷いた。
「わかってる。王はオレに聞いてくれた。命じたらよかったのに。オレの判断が甘かったんだ。親父なら神の世に慣れてるから、こんなことはなかったろうによ…でも、おふくろがあんなだったしな。見てられなかった。」
「しかも、その後にあった縁談を、あっさり受けてお前の親父は今二人の嫁持ちだもんな。母親も今回は特にごねてぇし。お前のやったことは、なんだったってなるわなあ。」
明人は、立ち上がった。
「王、お気遣いありがとうございます。オレも、オレなりに考えてみますので。それで、結論が出たら紗羅と話し合い、結果は必ずご報告いたします。紅雪のことも、オレの片思いなんで…このことで紅雪を煩わせたくない。何も言わないでください。」
蒼は、頷いた。だが、紅雪が他の男と話しているところなど、蒼は見たことがなかった。しかし、何も言わずにおこうと思った。
「…根を詰めずにな。主の体力を考えて、今月中に結果を出すことを望む。」
明人は頭を下げた。今月中…。
「では、御前失礼いたしまする。」
蒼は頷いて、明人は出て行った。
紅雪は、一人月を見上げていた。ここは月がとても美しく見える。
この月の宮へ来て、思いも掛けず心安く過ごす事が出来ていた。王の蒼は穏やかで優しく、威張り散らす訳でもない。これほどに大きな宮の王であるのにおごる事もなく、それは控え目であった。
それに準じて皆、穏やかな気を発し、こんなに過ごしやすい地があったのかと、驚いていた。
何もかもが珍しく、あちこちを見て回っていた紅雪の前に、明人という軍神が現れた。
初めて見た時から、その精悍な顔立ちに胸がときめいた。あれほど強い気を発するのにも関わらず、話すと思いも掛けず穏やかで優しかった。それからというもの、気が付けば明人を探している自分が居た。それがなぜなのか、紅雪には分からなかったが、明人と共に過ごすととても楽しく、もっと傍に居たいと思うようになった。明人の姿を見るだけで、胸が苦しくなる。紅雪が、そんな明人の事を杏樹に聞くうちに、明人に妻が居る事を知った。
しかし、神の世の男の常であり、紅雪はさほど気にしなかった。ただ、明人様が我を望んでくれたなら…。紅雪は、そう思うようになっていた。
そんなある日、蒼に案内されて出向いた学校で、紗羅という女に出会った。とてもおっとりとしていて可愛らしく、自分とは違って髪の色も目の色も淡く優しい色だった。
しばらく話したが、どうも会話が進まず、蒼が苦笑して促す中、紅雪も仕方なくその場を離れた。そして、宮に帰ったのちに、それが明人の妻なのだと杏樹から知った。
明人様は、あのようにおっとりとした女の方が良いのかしら…。
紅雪はしばらく悩んだが、自分は自分なのだと思い直し、待つだけでなく、この慕わしく想う気持ちだけでも伝えなければと、機会を待っていた。
だが、明人を前にすると、全く勇気が出なかった。明人は任務が大変なのか、日々疲れたような様子になっているし、とてもまともに聞いてもらえるとは、思えなかったのだ。
紅雪は、ため息を付いた。こんな、落ちぶれた宮の皇女の我が、あのようにご立派なかたとは、釣り合わないのかもしれない…。
紅雪は、涙を浮かべて、ただ月を見上げていた。