混乱
明人は、宿舎に帰って沈んでいたが、玲に言われたことを思い出し、重い体を引きずって屋敷のほうへ向かった。さすがに今日は帰らなければならない。そう思ったからだ。
屋敷に到着すると、召使い達が嬉しそうに出迎えてくれた。
「明人様!お帰りなさいませ。」
明人は頷いた。そうか、自分が家に寄りつかないということは、この召使い達も暇を出されるのではないかとハラハラするものであるのだ…。
明人は、今更ながらに、背負っているものの重みを感じてさらに足取りも重く部屋へ戻った。居間へ入ると、紗羅が立ち上がった。
「明人様、お帰りなさいませ。」
明人は頷いた。
「ああ。」と、たくさんの本があるのを見て言った。「勉強か?」
紗羅は少し戸惑ったようだったが、頷いた。
「はい。本はたくさん読んだ方が良いと、先生もおっしゃいますので。人と神の文化の違いも、世相も、物語などでわかるそうでございます。」
明人は頷いた。題名から見ると、恋愛ものとかが多いようだ。
「ふーん女が好みそうな話だな。これで勉強になるならいいじゃねぇか。」
紗羅は頷いて、しばらく明人を見つめていたが、言った。
「明人様…。」
明人は紗羅を見た。「なんだ?」
「あの…」話し始めるのに時間が掛かるのは変わらない。明人は辛抱強く待った。「ここに出て来る夫婦や、恋人同士とは、我らは全く違いまする…。」
明人はドキッとした。さすがの紗羅も気が付いたのか。
「まあな…あれは作り話だからよ。全く同じなんてないだろう。ましてオレ達は、人の世で育った神だしな。」
紗羅は、まだ何か言いたそうだ。だが、なにぶん時間が掛かる。またしばらく考え込んでいるようだったが、思い切ったようにこちらを向いた。
「明人様、お聞きしたいのです。明人様は、初めに、努力すると言ってくださった。そして我は明人様をとてもお慕いすることが出来ました。我も努力したつもりですが、明人様は、いかが思っていらっしゃいますか…?」
明人は、紗羅をじっと見て答えた。
「ああ、紗羅は努力してくれていると思う。だからオレも家を空けてられるんだしな。」
そう、文句も言わず、たまに帰っても快く迎えてくれ、うるさいこともなく、助かっていた。しかし、紗羅は首を振った。
「そうではありませんの。明人様の、本当のお気持ちをお聞きしたいのです。夫婦や恋人同士であるなら、一度は想いを打ち明け合うなどあると、友も申しておりました。明人様、我をどう思っていらっしゃいますか?」
明人は、表情を険しくした。一番聞かれたくなかったことだ…自分は、紗羅を愛していない。それどころか、他の女とさほど違いを感じてもいない。だが、そんなことを言う訳にはいかない。しかし、偽りで愛してるなど言うつもりもなく、また言えなかった。
明人は言った。
「…毎日よく頑張ってるよ。」明人は言って、頭をポンと叩いた。「今度こそ試験に受かるんだろ?紗羅は頑張り屋だなと思ってるさ。」
紗羅は驚いた顔をした。しかし、次の言葉を発するのに時間が掛かるのを、明人は知っている。なので、やおら立ち上がって、言った。
「さ、オレは出掛けてくらぁ。嘉韻達と約束があってな。ここには、様子を見に帰っただけなんでぇ。」と、紗羅を振り返った。「じゃあな。読書の邪魔して悪かった。」
明人は紗羅が話したそうにしているにも関わらず、サッとそこを出ると、軍宿舎の方へと飛び立った。
とは言っても、本当に嘉韻達と約束していた訳ではない。明人は宿舎の部屋へ戻ろうかと思ったが、思い直して湖へ向かった。考え事をするには、そこが一番なのだ。
湖は、凪いでいた。水面を見つめ、ただ黙って佇んでいると、後ろから声がした。
「明人。」明人は振り返った。嘉韻がそこに立っていた。「主の気が戻って参ったのを感じてな。待っておったのに、宿舎へ来ぬから。」
明人は目を反らした。
「…玲は、呆れてただろ?オレも、あそこまで言うつもりはなかったのによ。」
嘉韻は明人に並んだ。
「なあ…主、王にお会いしたあと、誰かに会うたか?」
明人はいきなり話題が変わったので、面食らった。
「宮でか?…ああ、杏樹に会った。落ち着いたもんだったよ。もう、お前に言い寄ったりしないんじゃねぇか?」
「杏樹…」嘉韻は怪訝な顔をした。「それだけか?」
明人はハッとして、紅雪の事を思い出した。急に動悸がしてくる。明人は眉をひせめた。嘉韻はそれを見て、同じように眉を寄せた。
「杏樹が王に命じられて世話をしてるっていう、鶴の宮から来た皇女の、紅雪に会った。」
嘉韻は、慎重に頷いた。
「そうか…話したのか?」
明人はなぜ嘉韻がそんなことを聞くのか分からなかったが、聞かれるままに答えた。
「ああ。学校の事を聞きたいと言うからな。しばらく話した。」
思い出すと、胸が苦しくなる。嘉韻はため息を付いた。
「始めは、紗羅であるかと思うた。だが、本日玲の部屋の前で紗羅に会うた時は、主は何もなかったしの。違うのがわかった。」
明人は訳が分からず、嘉韻を見た。
「何の話だ?」
嘉韻は明人をじっと見た。
「主、今動悸がするであろう。その気は龍の発情の気ぞ。己で抑えようと思えば抑えられる。やってみよ。」
明人は驚きながら、気を抑えようと意識を集中した。動悸がウソのようにおさまった。
「…嘉韻…オレ…、」
嘉韻は頷いた。
「その紅雪殿に、主は懸想したのかもしれぬ…どうであるか?」
明人はあまりの事に小刻みに震えながら嘉韻を見た。
「そんな…あり得ねぇよ。今日会ったばかりだぞ?」
嘉韻は片眉を上げると、うむ、と考えて、言った。
「そうか、ならば明日にでも、我も宮へ出向いてその紅雪殿に会うて来ようかの。我とていつまでも独身のわけには行くまい。大変に美しいと評判であるしの。」
明人は、今まで感じたことない憤りを感じた。嘉韻なら、きっとどんな女でも惚れちまうに違いない…。
「何を言ってる?お前、女に興味がないんじゃねぇのか!」
その剣幕に、嘉韻はフッと息を付いた。
「嘘よ。」嘉韻はあっさり言った。「我が女に興味を持つはずはあるまい。そんなことも判断出来んのか。…やはりの。間違いなく主は、紅雪殿を想い始めておるわ。」
明人は呆気にとられた。そうだ。いつもなら、嘉韻のそんな話には笑って冗談だろと返していたのに。
本当に、オレは…。
「…どうしたらいい。」明人は絶望的な顔で言った。「オレには、王族の正妃が居る。とても王族の紅雪をなんて、言えねぇ…。お前達とはスタートラインから違う。オレは…想いを告げる事すら出来ねぇじゃねぇか…。」
しゃがみこむ明人に、嘉韻は返す言葉がなかった。運命とは、かくも神を翻弄するものなのか…。
月は、相変わらず空からじっと見ていた。
蒼は、龍の宮を訪れていた。
維心と維月が、相変わらず寄り添って居間で迎えてくれる。蒼は頭を下げた。
「維心様、ご無沙汰致しております。」
維心は頷いた。
「蒼、久しいの。壮健なようで何よりぞ。座るがよい。」
蒼は、維心達の前の椅子に、向き合って座った。
「お時間を頂いて申し訳ございません。十六夜から聞いて、どうしても維心様にお訊きしたい事が出来まして、参りました。」
維心は先を促した。
「申すが良い。」
「はい。」蒼は何から話したものか悩んだが、言った。「五年ほど前になりますが、オレは漠殿より頼まれ、皇女の紗羅を臣下の明人に娶らせました。元はあれの父の信明にと思うておった事…しかし、あれの妻は人の世で育った者。理解出来ずにおったようで、見かねた明人が娶ると申し出たのです。」
維心は頷いた。
「…であろうの。信明は我も知っておるし、その妻もよ。そのようになるのも道理であるな。」
蒼は下を向いた。
「…特に問題も無いように思っておりましたところ、明人は十六夜とよく話すのですが…少し前、紗羅を未だに愛せないと悩んでおったようなのです。自分が、情緒欠陥者ではないかとまで。」
維月が口を押さえた。
「そのような…合う合わないはあるもの。なのに悩んでおったと言うの?」
蒼は頷いて先を続けた。
「そして、此度は、十六夜は月から見ていただけであったらしいのですが、明人が友と話していて…今宮で預かっている、紅雪に、どうやら明人が懸想したとのこと…本人は、王族を正妻にしておるのに更に王族の紅雪に告げる事も出来ぬと、大変に悩んでおった様子。オレもそれを聞いて様子を見ておりましたが、それは苦しげで気の補充もままならぬようで、それでも任務に付き、そして影から紅雪を眺める毎日を送っております。紅雪も、明人の姿を見付けるとそれは嬉しそうに話し掛けて、話し込んでおる始末。オレは…どうしたら良いのか分からなくて。オレがあんな縁を無理に繋いだばかりに、こんなことに。」
維心は考え込む顔をした。
「…これが一般の神ならば、また娶れば良いと申すところ。だが、また王族となれば、軍神にはちと荷がかちすぎるの。王ならば気がねなく娶れば済むがの。」
「まあ…。」
維月がそれを聞いて、横で袖で口元を押さえて横を向いた。維心は慌てて言った。
「我は違うぞ。我の事を申したのではない。王全般の事を申したのだ。我はそのような事、絶対にないゆえに。」
維月はまだ横を向いている。蒼は構わず言った。
「しかし、明人は人の世で育ったので、元よりそのような考えすらないのです。その上に王族を娶り、更に愛したのは王族だった。オレにしてやれる事はあるのでしょうか。」
維心は維月を気にしながら、言った。
「主がしてやれるのは、明人が離縁したいと申し出た時、それを許してやることぞ。後は本人が決めること。主も立場があるだろうし、漠になんと言うのか考えるよりないの。」と、また維月を見た。「維月…我には主だけだと言うに。機嫌を直せ。」
蒼はため息を付いた。こうなると、維心様はこちらの事など目に入らない。維月もそれを察したのか、立ち上がった。
「…用を思い出してございます。少し失礼を…。」
蒼と二人で話せば良いと思ったらしい。だが、維心は慌てて立ち上がった。
「維月!」と、蒼を見た。「とにかく、主はそのように。また維月を連れて月の宮へ参るゆえ。」
維月が居間を出て行く。維心はそれを追った。
「待つのだ、維月!まだ我の話は終わっておらぬ…。」
二人は居間を出て行った。蒼はまたため息を付くと、仕方なく月の宮へ向けて飛び立った。