衝突
明人は、宿舎へ帰ってもまだ、動悸がおさまらなかった。なぜにこんなに動悸がするのだろう。
帰って来て寝台へ横になって小一時間が経過したが、それでも一向に収まる気配のない動悸に、いよいよどこか悪いのかと少し心配になって来たところへ、嘉韻と慎吾が入って来た。
明人が目を開けたまま寝台に横になっているのを見ると、二人は目を丸くした。
「なんだ明人、どこか具合でも悪いのか?」
慎吾が気遣わしげに寄って来た。明人は頷いた。
「宮から戻って、動悸が収まらねぇんだ。治癒の龍に診てもらったほうがいいかと思っていたところなんだが。」
嘉韻が寄って来て明人の顔を覗き込む。
「…いや…気は大丈夫のようぞ。それよりこの気の昂ぶりようは、主、もしや紗羅でも来ておったのか?」
明人はびっくりした顔をした。
「紗羅?いや、誰も来てねぇ。オレの気がなんだって?」
嘉韻は眉を寄せたままだ。
「いや、構わぬ。それより、本日こそ共に玲の所へ行こうぞ。慎吾とそれを誘いに参ったのよ。」
明人は起き上がった。
「玲か。確かに全く会ってねぇもんな。行くよ。」
明人は起き上がって袿を手にする。すると、スッと動悸が収まった。明人は顔をしかめた。
「…なんでぇ。収まった。おかしなもんだな。」
嘉韻は黙っている。慎吾は明人を急かした。
「早ようせぬか。5時を過ぎてあまりに時間が過ぎると、またややこしいゆえ。」
明人は眉を寄せた。
「ややこしい?なんの話だ。」
慎吾は明人の腕を引っ張った。
「良い。とにかく行こうぞ。」
黙ったままの嘉韻も共に、三人は宿舎隣の建物の学校へと足を向けた。
三人が玲の部屋の前に到着すると、その戸の前には紗羅が一人、立っていた。
「あ、明人様。」
明人は紗羅を見て、歩み寄った。
「なんだ、授業は終わったんじゃねぇのか。」
紗羅は頷いた。
「でも、我はとても理解が遅いので、玲先生にこうしてよく教わっているのです。今度の試験では、必ず上のクラスになろうと思って…。」
明人は頷いた。
「そうか、じゃあ邪魔だったか?オレらも今から玲と話そうと思って来たんだがな。」
紗羅が首を振った。
「いいえ。私、また明日に致しまする。」
玲が戸を開けて、4人を見て目を丸くした。
「ああ、明人!珍しいじゃないか、どうした?」
明人は玲を見て微笑んだ。
「玲!久しぶりだ。お前と話したいと思って来たんだが、紗羅と鉢合わせてな。放課後まで世話になってるみたいで、手間掛けさせてすまねぇな。今知ったんだ。」
玲は紗羅を見て、首を振った。
「いや、構わないよ。我の仕事なんだし。それに紗羅は一生懸命で、今回こそ上に上げてやりたいと思ってるんだ。…まるで士官学校時代の我を見るようで。」
明人は、同情したように玲を見た。「玲…。」
玲は無理に明るく微笑んだ。
「さあ、入りなよ。」と、戸を大きく開いた。「紗羅はどうする?」
紗羅は後ずさった。
「やっぱり、我はこのまま帰りまする。明日、教えて頂きますので。」
明人は頷いた。
「そうか。迎えは来てるだろう?気を付けて帰りな。」
紗羅は頷くと、廊下を一目散に駆けて行った。玲が怪訝そうな顔をして言う。
「…明人、せめて迎えの来てる所まで送ってやらなくていいのか?」
明人は驚いたように玲を見た。
「え?迎えはすぐ下に来てるだろう。そういう風に指示してあるからな。違うのか?」
玲は頷きながら部屋の中へ入って行く。
「まあ…そうだけど…。」
明人は訝しげに玲を見ながらその後に続いた。慎吾と嘉韻がそれを見ながら黙って後に続く。
椅子を示されて座った4人は、久しぶりに全員で向き合った。
「玲、教師ってのはお前の天職だったんじゃねぇか?頭もいいし、穏やかだしよ。ほんとに安心したよ。」
明人が笑って言うのに、玲は下を向いたまま答えた。
「確かに、我にとってこの仕事は天職だったと思う。皆学びたいって気持ちが強いし、教えがいもあるよ。我は、人の世から来た神に教えるクラスを担任してるんだけど。」
「ああやって個人的にも面倒を見ておるのでは大変であろう。」嘉韻が言った。「何も覚えの良い神だけではあるまい。我ら神は、通常なんでも一瞬で読み取って頭に入れるが、それのやり方をまだ知らぬ者ばかりであるからの。一人一人放課後に教えるのでは、率は悪かろう。」
玲は首を振った。
「ま、それで理解してくれるならいいんだ。」玲は顔を上げた。「紗羅は、確かに覚えは悪いけど、一生懸命なんだ。だから、サポートしてやりたい。」
明人がため息を付いた。
「すまねぇな。いいヤツなんだが、なんでも他より少し遅いんだ。話していても、ゆっくり待ちながらでないと理解が追い付かねぇし…最初、学校でやって行けるのか心配だったが、あれがどうしても行くと言うので。」
玲は明人をじっと見た。
「学ぶ機会は、誰にでも平等に与えられるべきだと思う。少しぐらい理解が遅くっても、仕方がないさ。」
明人は困ったような顔をした。
「ん…まあ、少しならいいんだけどよ…。」
玲は明人を睨んだ。
「何だよ。明人は弱い者の味方じゃないのか。我にだってあれだけ気を使ってくれたじゃないか。紗羅だって一生懸命だ。妻だってのに、そんな心配もしてやらないのか?それでなくても、なかなか屋敷に帰らないらしいじゃないか!」
明人は姿勢を正して表情を険しくした。
「…玲。オレ達のことはオレ達のことだ。何も知らねぇくせにごたごたぬかすんじゃねぇよ。オレは責任は果たしてらぁ。お前にとやかく言われる筋合いはねぇ。」
慎吾が慌てて割って入った。
「明人、玲は生徒が心配なだけで…」
それには構わず、玲は明人を見据えた。
「この4年、我が担任をして来たんだ。ずっと教えて来たんだぞ!日中はいつも一緒だ。明人は夜すら帰らないっていうのにな。我のほうがよく知ってる。」
明人はフンと横を向いた。
「別にそれならそれでいいじゃねぇか。オレは世話してるだけだ。お前には嫁ってのがどれだけ重荷になるのか分かってないんでぇ。オレはそれを背負ってる。それだけで充分だろうが。お前も嫁を貰ってみな。わかるからよ。」
玲は立ち上がった。
「重荷ってなんだよ!人の世に居ても同じだろう?結婚するってそんな簡単な気持ちなのか。相手だって生きてるんだぞ。心がある。明人がそんな風に言うなんて!なんで結婚したんだよ!」
明人は、立ち上がった玲を見上げて、ぽつりと言った。
「…さあな。オレには選ぶ余地なんて、なかったからよ。」と、ふいっと横を向くと、立ち上がった。「悪ぃな。もう帰るわ。」
「明人…。」
慎吾がそれを見送りながらつぶやく。嘉韻が、明人が出て行ったのを見て、言った。
「玲、主らしくもないの。そんな風に言うなど感心せぬ。明人は、父の代わりに仕方なくあの婚姻を受けたのだ。父に来た話であったが、母が気に病んでの。父母を憂いて受け入れた。だが、明人なりに悩みながらも紗羅を想おうと努力して参ったのであるぞ?最近もなかなかに紗羅を受け入れる心持ちにならぬと、それは悩んでおったところであったのに。ほんに主、えらいことをしてくれたわ。」
慎吾が頷いた。
「ほんにそうよ。心など、命じてなんとかなるものではない。愛せと言われて愛せるものか。それを何とかしようとしておった、明人をあのように責めるなど。我は主を見損なったわ。」
玲は下を向いた。
「…明人が悪いんだ。紗羅だって生きて心があるんだぞ?明人を慕ってるのに。明人があれじゃあ、あまりにかわいそうじゃないか。妻として遇してるって、それだけで心まで救えないじゃないか。」
嘉韻がため息をついた。
「神の世の理ぞ。」玲がハッとしたように嘉韻を見た。嘉韻は続けた。「生活の為に婚姻を行う。面倒を見ておる時点で明人は責を果たしておる。そうであろう?責めるのはお門違いぞ。玲、主が言うのは、妬みよ。」
玲は驚いたように顔を上げた。慎吾も嘉韻を見る。嘉韻はじっと玲を見返した。
「な、何を言って…、」
嘉韻は険しい顔をした。
「我が気付かぬと思うてか。ただ個人指導しておるだけで、なぜに我らから隠さねばならぬ。陰でこそこそと気にくわぬの。表に出て堂々と明人と渡り合うてみよ。それとも軍神になろうとしておった主は、やはり気だけでなく心まで軟弱者であったのかの?」
玲は嘉韻に掴みかからんばかりな表情で足を踏み出した。しかし、一瞬後に思いとどまり、みるみる力を無くすと、言った。
「…駄目だ。」玲は言った。「あんなにほったらかしなのに、紗羅は明人しか見ていない。この4年ずっと見て来た。初めて見た時から、我は紗羅に惹かれていたんだ。でも、友達の妻だった。だから、胸に秘めていたのに…明人はあまりにも、あんなにも紗羅を放ったらかしで…。さすがにおっとりしてる紗羅だって、最近ではおかしいと勘づき始めてるんだ。だから…明人に話して、紗羅のために何とかしたいと、我は思ってたのに!」
慎吾は仰天した。好きな女の夫が冷たいから、女のためにその夫に優しくしてやれと言おうとしてたのか。自分が代わりにっていう気持ちではなく…。
「主…明人に成り代わろうと考えておるのではないのか。」
慎吾が言うと、玲は首を振った。
「我なんて…明人に比べたら。紗羅は明人が好きなんだし…。そんなことは考えてない。ただ、一緒に居られて、紗羅が嬉しそうなら、いいんだ。」
嘉韻は黙り込んだ。そういう気持ちが、我には分からない。それが愛するということなのか。己より相手の幸せを願うのか…共に幸せになろうとは考えぬのか。
それは、慎吾も同じなようだった。二人は顔を見合わせると、言った。
「我には、そのような心持ちが分からぬ。だが、主が紗羅を心底想うておるのはわかる。」
嘉韻は下を向いていたが、立ち上がった。
「明人と話さねばならぬ。」と踵を返した。「邪魔をしたの。」
玲は慌てて言った。
「我の気持ちは、明人には言わないでくれ!これ以上こじらせたくないんだ。」
嘉韻は頷いた。
「約そうぞ。だが、いずれ主から言わねばならぬ時が来るやもの。」
嘉韻が出て行くのに、慎吾は付いて出て行った。
玲は、一人取り残されて、頭を抱えて沈み込んだ。