悩み
「明人様ぁ~。」
明人が訓練を終えて宿舎の方へ向かっていると、学校の図書室辺りの窓から、手を振る影があった。回りの軍神達も目を丸くして見ている。
「紗羅!」
明人は慌ててそちらへ飛んだ。これ以上皆に見られるのは、はっきり言って、恥ずかしすぎる。とにかく、静かにさせなければ。
「なんだ、まだ居たのか?早く屋敷へ帰りな。オレはこれから着替えて会議なんだよ。」
良く見ると、紗羅の回りには何人かの女が居て、明人を見て何やらコソコソと話している。紗羅は言った。
「我の学友達が、明人様とお会いしたいと申しましたので。待っておりましたの…。」
紗羅は言うが、明人は居心地悪かった。オレは見せ物じゃねぇ。
「とにかく、早く帰れ。」明人は踵を返した。「まだ仕事中だ。今日は恐らく帰れねぇからな。」
「あ、明人様…」
紗羅はまだ何か言いたそうだったが、明人はうんざりしてそのまま宿舎へ飛んで行った。
明人は、結婚して早5年近く経過していた。
しかし、別段夫婦仲が悪い訳でもいい訳でもない。明人自身、人を恋うるということがどういうこなのか、まだよく分かっていなかった。
紗羅とも、特に一緒に休むこともしなかった。飽きたとかではなく、明人はそれをそれほど必要としていないからだ。最初こそ週に一度はと思っていたが、それでも最近では、軍の訓練などを考えると、次の日に支障が出ないようにと考えてしまって、そしてまた、休みの日の前の日の夜であれば、休みぐらいはゆっくりと考えてしまって、紗羅を部屋へ呼ぶことはしなかった。軍宿舎へ泊ることも多かったぐらいだった。
だが、普段は普通に共に話して生活していたのだ。外から見れば、仲睦まじいと言われるのではないだろうか。
紗羅が行きたいと言ったので、学校に入れるように王に頼んでやり、そして、入学してからも、やはりというか、おっとりとした紗羅はまだ卒業できずにいた。
それでも、明人が出勤する時は、紗羅を共に連れて来てやっていた。帰りは屋敷から迎えが来るようになっていたが、明人なりに気を使っていたのだった。
明人が憮然として着替えていると、声がした後に戸が開いた。
「我だ。入るぞ。」
振り返ると、立っていたのは慎吾だった。明人は椅子を身振りで示した。
「座れよ。すぐ終わる。」
明人はさっさと袿を羽織ると、慎吾の前にドカッと腰を下ろした。慎吾が言った。
「…相変わらず仲が良いではないか。今日は帰ってやったらいいのではないのか?」
明人はフンと横を向いた。
「そんな気になれねぇ。」とますます眉を寄せた。「オレは見せ物じゃねぇ。」
慎吾はその様子に驚いたような顔をした。
「なんだ…主、妻が恋しくはないのか。」
明人は慎吾を睨んだ。
「恋しいって気持ちを教えてもらいてぇよ。オレだって努力してんだ。だがな、なかなかそんな気持ちになれねぇ。夜だって放って置いてほしいと思っちまって、昼間はなんとか誤魔化せても夜は駄目だ。早々に一人で寝ちまうんだよ。オレは男なのに、これじゃあ情緒欠陥者じゃねぇかと自分で自分がわからねぇ。」
「無理をしておるの。」後ろから、別の声が飛んだ。嘉韻だった。「主、最近常険しい顔をしておるではないか。それゆえであったのか。」
慎吾が場を開けて嘉韻の座る場所を作った。嘉韻はそこに腰掛ける。慎吾が言った。
「まさかそこまで根が深くなっておったとは。ゆえ、主はここに泊ることが多いのか。」
明人は横を向いた。確かに覚悟はしていたことだった。だが、所帯を持つとは想像以上に面倒だ。独身の頃は任務だけを考えて居れば良かった。それが、今は任務に家にとそれは忙しい。考えることが多いと、それだけ疲れてしまう。紗羅が嫌いな訳ではなかったが、特別他の女より好きかと言われるとそうではなかった。ただ、妻に迎えろと言われて、初めて会った日に妻に迎え、そしていつかはと思いながら5年来てしまった…。
明人は頭を抱えた。
「オレ、ほんとにどこか悪いのか?なんで一緒に暮らしてて嫁になってるのに特別な感情ってのが湧かないんだ。紗羅は見た目はいいし、性格もおっとりしてて扱いやすい。ヒステリーも起こさない。いいヤツだと思うのに、好きってぇと違う気がするんだよな…。」
嘉韻と慎吾は困惑して顔を見合わせた。自分達も、他人を好きになったことがない。なので、それを説明しようにも出来なかったのだ。
「とにかく、一度考えるのをやめるのだ。」嘉韻が言った。「感情というものは、理屈ではないゆえの。思い詰めると、良くなるものも良くならぬと言うぞ。しばらく離れておるのが良いのかもしれぬ。」
慎吾も頷いた。
「そうよ。思い詰めてなんとかなるものでもなかろう。」と、学校の方を伺った。「学校か。我らも久しく行っておらぬ。一度あちらへ我らと一緒に行ってみてはどうか?主らの様子を見て、我らにも何か言えることがあるやもしれぬ。」
明人は首を振った。
「さっき一緒に帰るとか言われそうだったんで、会議があるって言っちまった。オレは顔出せねぇよ。行くならお前らで行って来な。」
二人はまた顔を見合わせた。そして、ためらいがちに立ち上がると、明人の部屋を出て行った。
学校へ向かう廊下を歩きながら、慎吾が言った。
「のう…確かに紗羅は悪い感じではない。だが、どうも明人には合わぬのかの。」
嘉韻は考え込む表情で言った。
「慕わしいではなく、悪い感じではないとは何であるかの。我らとて、恐らく同じように愛せなかったのではないか。あのように決められた縁であるのだから…己で選んだ訳ではないのだ。これが他の軍神であったなら、放置して他の女を妻にと考えるであろうが、明人は人の世で育っておるからの。それも出来ぬのだろうて。」と、懐かしい学校の縦に繋がった通路を見上げた。「まずは、玲に会いに参ろうぞ。担任であると聞いておる。長い間在籍しておるゆえ、玲とていろいろ知っておろうから。」
慎吾は頷いて、その通路を飛んで最上階の廊下へと降り立った。
最上階は、職員達の部屋だった。
奥から三番目が玲の部屋だと知っていた二人は、その戸の前に立った。
「玲。我だ。」
慎吾が言った。中から、何やら慌てたような気が伝わって来る。慎吾は眉をしかめて嘉韻を見た。忙しかったのだろうか。
しばらくしてから、玲が答えた。
「待たせてごめん。入っていいぞ。」
二人は、戸を開いて中へ足を踏み入れた。玲は立ち上がってこちらを見ていた。
「久しぶりじゃないか。会議じゃなかったのか?」
嘉韻が眉を上げた。
「会議?いや、我らは違う。なぜにそう思ったのだ。」
玲はびっくりしたように手を振った。
「いや、いいんだ。座ってくれ。」
二人は、そこに腰掛けた。玲も前の椅子に腰掛ける。慎吾が口を開いた。
「いきなり来てすまなかったの。何か、仕事でもあったのか。ならば出直すがの。」
玲は必要以上に首を振った。
「いいや、いいんだ。で、話があったから来たんだろう?」
慎吾が頷いて話そうとしたが、嘉韻がそれを遮った。
「いや、久しぶりに主の顔を見に参ったのよ。壮健か?」
玲は驚いたようだが、頷いた。
「見ての通り、元気にしてる。我はやっぱり教師が向いてたってことだな。軍神に憧れていたのがウソのようだ。」
慎吾は何か言いたそうだったが、口をつぐんだ。嘉韻が続けた。
「まあ、軍神が良いものではないのは知っておるだろう。休みもあってないようなもの。外向きの仕事がない分、ここの軍神は恵まれておるがの、会議だなんだと忙しいのよ。我らはこうして今時間が空いたが、明人は会議よ。あれも主に会いたがっておったぞ。」
玲は、少し沈んだ顔をした。
「…明人とも、最近は話せてないんだ。我も話さなきゃと思ってるんだがな。」
嘉韻は頷いた。
「あれが一番主を案じておったからの。人の世にあった分、情が厚い。ま、我には理解出来ぬこともあるがな。」
玲が頷いて考えに沈んだのを見て、嘉韻は立ち上がった。
「おお、忘れておった。」と、嘉韻は立ち上がって慎吾を見た。「我も長賀殿に呼ばれておったのだった。時がないわ。主も共に来い。」
慎吾は驚いたように立ち上がった。
「なんだって?忘れて良いものと悪いものがあるぞ、嘉韻!」
嘉韻は涼しい顔で言った。
「まあ良い。たまにはこんなこともあろうて。」と、玲を見た。「玲、すまぬの。慌ただしいが、これで去ぬ。次はゆっくりと、明人も連れて参るゆえ。」
玲も慌てて立ち上がった。
「ああ。忙しいのはわかってる。無理するなって明人にも伝えてくれ。」
嘉韻は頷いた。
「ではな。」
慌てた慎吾と、ゆったりと歩く嘉韻は、玲の部屋を後にした。