桜の宴
桜は、神の女から見ても美しく、利発で穏やかな上、回りをよく見て配慮出来る理想の女だった。鈴藍は、ここに留学して来る前に、桜を何回か見掛けた事があったが、同じく類い稀なる美しさの紅雪と、その妹霧花と話していて、あまりに眩しく声を掛けられ終いだったのだ。
そんな桜が思いも掛けずここで学友として自分と毎日話していて、鈴藍は嬉しかった。その美しさや優しさに、自分まで染まって行けるような、そんな気がした。
そして桜は、ここの序列二位の軍神に嫁いで、それは大切にされていた。時に話す様子から、桜も深く相手を想っている事が感じられ、とても羨ましかった。
実は鈴藍も、父からここに居る間に、月の宮の者と縁付く事を命じられていた。王の蒼では見付ける事が困難だと断られた為で、それは鈴藍にとって重かった。
しかし、桜を見ていると、自分もここで暮らしたいと心底思っていた。しかし、自分が話し掛けても、ここの軍神達や臣下達は、困ったように、しかし丁重に場を辞してしまうので、ゆっくり話す事も出来ていなかった。なので、次の桜の宴という、毎年恒例の花見が行われると聞いて、とても期待していた…もしかしたら、誰かと知り合いになれるかもしれない…。鈴藍はとても楽しみだった。
利晋は、王の嗣重の前に膝を付いた。
「王、やっとの事で、渡りが付きましてございます。結界外で様子を伺い続けておりましたら、さすがに人の世と縁の強い宮、出て来る者も多く、その中の一人と話が付きました。これで策を進める事が出来まする。」
嗣重はため息を付いた。
「大儀であったの。我が娘は役に立たぬものよ…中におるのに一向に良い情報を流しても来ず。」
利晋は慌てて首を振った。
「そのような!皇女様の情報から、あの龍を抱き込む事が出来たのです。他愛もないと思われたかも知れませぬが、心とは利用しやすいもの。そのお陰で内側へ入り込む事が出来申した。」
嗣重は苦笑した。
「主は昔からあれに甘いの。だが事実よな。それで、万が一にもその龍が裏切った場合や発覚した場合のことは想定しておるのか?」
利晋は、頷いた。
「策は万全でございます。仮に死した場合でも、術が発動するよう策しております。」
嗣重は頷いて、いずまいを正した。「では、策を進めよ。」
利晋は頭を下げた。
「は!」
そして、命を出すべくその場を辞して行った。
桜の宴は、例年通り龍の宮から維心や維月も呼んで盛大に行われた。いつものように毛氈を敷き、番傘やらの準備を臣下達や最早慣れた様子で進め、完璧に整った中で蒼は、いつもの貴賓席に、維心達を伴って行った。
その日は十六夜も降りて来て、珍しく酒も飲む。本来酒の影響は受けない月であるので、アルコールによる粗相などは十六夜に限ってないのだが、維心が居て維月が居ると、どうしても維心と口論になる。蒼はいつも、それにうんざりしていた。
しかし、維心は決して維月から離れて座らず、また十六夜も維月の隣に行くので、絶対に傍に座ることになった。今日もまた仲裁をせねばならないなと蒼は覚悟していたのだった。
しかし、意に反して、今回は和やかに場は進んでいた。
十六夜も悪態をつくこともなく、維心もつっかかることもなく、維月もホッとしたように座っていた。
余裕が出来て、ふと軍神達の席の方を見ると、今回は信明が桜を連れて席に座っていた。
桜の腹は大きくせり出していて、もういつ生まれておかしくはない。その横に座る李関も、涼の、同じようにせり出した腹を触ってはどちらが早いかと幸せそうに話していた。それがあまりに幸せそうなので、蒼は羨ましかった。そして、思い当たって明人を探すと、こちらは隅のほうに嘉韻と慎吾と共に座って、紗羅は連れて来ていないようだった。明人は、驚くほど大人びた表情になった。蒼は明人がどうするつもりで居るのだろうと、いつも心配していた。
鈴蘭は、ひと際目立つその三人に声を掛けようとしたが、とても割り込めそうになかった。しかも、三人の冷たさといったらなかった。他の女が大挙して酒瓶を持って注ごうとしているにも関わらず、全く相手にしない。しかも、睨み付ける始末だった。
鈴蘭はため息を付いて場を見回し、桜の花でもよく見ようと、奥のほうへ歩いて行った。
ずっと桜並木が続く。
こちらの方は、宮の影になるので広場になっている所と違って静かで、毛氈も敷かれていない。鈴藍がそこを桜に見とれながら歩いて行くと、少し開けた場所に、とても精悍で美しい顔立ちの、黒髪の龍が一人じっと立って、桜が散るのを眺めていた。鈴藍はその、見たこともない龍に、思わず見とれた…こんなに美しいかたには、会ったことがない。
その龍は鈴藍に気付くと、驚いたようにこちらを見た。鈴藍は思わず声を掛けた。
「初めてお会い致しまする。我は鈴藍と申しまする。あなた様は、こちらの軍の、将でいらっしゃいまするか…?」
相手は慌てたように首を振った。
「我はこちらの者ではない。」と、踵を返した。「では。」
鈴藍はまた、慌てて声を掛けた。
「せめて、お名前をお聞かせくださいませ!」
思わず手を差し伸べて袖に触れると、相手はその手を払いのけて刀に手を置いた。
「我に触れるでない!そのようなことは許さぬ!」
鈴藍はびっくりした。こんな反応をするとは思わなかったからだ。僅かに袖に手が触れただけであるのに…。
「何か失礼を…?」
相手は何かを言い掛けたが、後ろから別の声が飛んだ。
「維心様?」
維心と呼ばれたその龍は、弾かれたように後ろを向いた。そこには、見たことも無いような美しい着物に身を包んだ、美しい黒髪の女が立っていた。不思議そうにこちらを見ている。そして、言った。
「ああ、そのかたは…、」
維心は首を振った。
「偶然に会っただけぞ!我は主に言われた通り、ここで待っておっただけだ。今、それを証明してみせるゆえに。」
と、維心は刀を抜いた。鈴藍も、相手の女もびっくりしたようにそれを見た。女は慌てて鈴藍の前に飛び出した。
「何をなさるのです!私は何も疑ってなどおりませぬ!ただ通りすがっただけでありましょう、何も気にしておりませぬゆえ!」
維心は動作を止めた。
「維月…しかし、我に近付いて来る女は全て、斬り捨てると約した…。」
維月は首を振った。
「そのような!そこまでせずとも良いのです。近付くとて、桜を見ていて歩いておっただけでありましょう!」と、鈴蘭を振り返った。「驚かせてしまって申し訳ないわ。こちらは私の夫の龍王、維心様。私は王妃の維月と申しまする。夫は時にこのように極端なことをなさって…でも、悪気はありませんの。許してくださいませね。」
鈴藍は震えながら頷いた。維心は、刀を鞘にしまった。
「我は、また主が出て行ってしまうような原因を作りとうなかったのだ。」
維月は維心を振り返って微笑んだ。
「ご心配には及びませぬわ。私はどこにも行きませぬゆえ。」と、維心に身を寄せた。「さあ、やはりあちらにございましたの…とても大きな枝垂桜でありました。参りましょう。」
維心は維月を抱き寄せて、頷いた。
「待ちくたびれたぞ。常に十六夜が傍に居って、気を使っておったゆえに…。」
「もう、維心様ったら…。」と、鈴藍を振り返った。「ではね。ええっと、お名前は…」
鈴蘭は小さな声で言った。
「はい、鈴藍と申しまする。」
維月は優しげに微笑んだ。
「それではね、鈴藍。」
二人は桜の間を縫って、奥の方へと歩いて行った。
取り残された鈴藍は、龍とは皆、あのように深く激しい愛情で相手を愛すのかと羨ましくなった。信明も然り、だけど、明人はどうであろうか…。
「はははは!」十六夜が笑った。「維心らしいな。オレに隠れて別々にここを出て、そんな所で待ち合わせたりするからそんな目に合うでぇ。しかし維月、維心は本当に斬るぞ。あの時どれほどに後悔してたかお前、知らねぇだろう。二度とそんな目に合わないために、維心なら絶対やる。賭けてもいいぞ。」
維月はため息を付いた。
「本当に驚いたわ…私もこれからは維心様と誰かが遭遇しそうな所では、お一人にしないようにする。あの子も驚いたことでしょうね。」
維心は憮然として言った。
「何が悪いのだ。我は最初、場を去ろうとしたのであるぞ?なのにあれが名がどうのと寄って来たゆえ…維月に見られた時に至っては、もう斬るよりないと思うた。」
十六夜がふーん、と考え込むような顔をした。
「まあなあ、知らねぇヤツから見たら、維心はきれいな顔の神だからな。女も寄って来るだろうよ。小さな宮の王族なんて、お前の顔も見た事ないヤツが大勢居るだろうが。龍王だと知ってるからこそ、皆遠巻きにしているだけで。」
維月は維心をじっと見た。維心は維月の視線に、居心地悪そうに下を向いた。
「…何を見ておる。その…我は己の外見のことは良く分からぬ…。」
維月はそんな維心を抱き寄せて頬を擦り寄せた。
「まあ維心様…。」
維心はびっくりしたように維月を見た。
「維月?」
十六夜が呆れたように言う。
「腹が立つことに、維月はお前の外見には死ぬほど惚れてるのさ。面食いだって言っただろ。ちなみにオレの顔も好みなのだそうだ。だからまあ、許してやる。」
維心は複雑そうな顔だったが、蒼は十六夜を見た。十六夜だって、綺麗な顔立ちをしている。月なんだから、どうにでも変えられるが、何も考えずに降りて来たらいつもこれなのだと十六夜は言っていた。だからきっと、これがオリジナルな十六夜なのだろう。
蒼は立ち上がって言った。
「さ、夜も更けた。オレは戻るよ。皆はどうする?」
十六夜は維月を見た。
「部屋へ戻るか?」
維心が維月をしっかり掴んだ。
「里帰りではないのに。我も共に居たい。」
十六夜は仕方なく頷いた。
「わかったよ。また三人で眠るのかよ。寝台が広いからいいものの、最近多いな。」と立ち上がった。「じゃ、戻ろう。皆もお開きにして行ってるようだしな。」
桜の下には、もう神も少なくなっていた。蒼は微笑んで歩き出そうとして、不意に頭を押さえた。
「蒼?!」
三人が蒼に駆け寄った。蒼は、じっと何かを考えている。
「…なんか、嫌な予感がする。」蒼は言った。「結界内だ。変な力の波動が今、一瞬よぎったような…。」
十六夜は眉をひそめて月を見上げた。そして、言った。
「…結界に変化はねぇ。」
維心が険しい顔で言った。
「そもそも月の結界は、強過ぎて他の神には破れまい。我も中からでないと、十六夜の許しなく結界を破って外から入ることは出来ぬ。帰るのは問題ないがの。」
蒼はじっと考え込んでいる。維月がそれを気遣わしげに見ていると、軍神が慌てて駆け込んで来た。
「王!すぐにお越しを!」蒼はさっと顔を上げた。「信明殿が!」
十六夜はそれを聞いて、また月を見上げた。そして、信じられないといった表情で言った。
「なんてこった。」十六夜は呆然としている。「陽花を斬りやがった…。」
皆が驚愕してそれを見る。維心が素早く飛び上がった。
「我の臣であった男。参る。」
「オレも行きます。」
蒼も飛び上がり、十六夜はびっくりして口を押えている維月を見た。
「オレも行って来る。お前は部屋で待ってな。」
維月はなんとか頷いた。
十六夜も皆を追って、駆けつけた軍神と共に飛んだ。




