思惑
月の宮は、穏やかにそこにあった。
龍と鳥の戦に参戦して、宮の下位の軍神のほとんどを失った王の蒼は、宮の軍が神の世で完全に通用するまでは決して他の地へ援軍は出さないことを決し、軍神達が出陣することは、ついぞなくなっていた。
しかし、宮の結界の中では、常に演習が行われ、少しでも早く神の世に追い付く軍になるように、精進していた。
さすがに軍神の将達は、大変な力の持ち主が多かったが、軍として強くなるには、ひたすら慣れるよりなかったからだ。なので、軍神達が戦うとなれば、宮に進撃して来た敵から宮を守るためだけということになっていたが、それはまずないと思われていた。
なぜなら、月の宮の結界は、月である十六夜が、絶対の力を持って結界を張っていたからだった。
その結界を抜けることは、普通の神では無理だった。なぜなら、この世最強の龍王、維心の力を持ってしても、かなりの力を使わねば破壊出来ないであろうと言われている強い結界で、それすらも、本当に出来るかどうかは、本人にも疑問なのだという。
なので、今日も穏やかでのんびりとした空気の流れる中、月の宮はそこにあった。
その男は、月を見上げていた。一人の軍神と思われる男が、傍に来て膝を付く。
「…王、皇女からのご連絡は。」
月を見上げていた男は、言った。
「あった。だが、どうも難しいようであるな。ただ、中に入ってしまえばかなり守りは緩いようであるが…元は王の炎嘉が作ったという宮の守り、見た目だけではわからぬの。あれにはそれを見分けられぬ。あれをやったのは、間違いであったやもしれぬ。」
その軍神は、顔を上げた。
「しかしながら、女であったからこその油断もあるかと存じまする。いくら来る者拒まずな月の王でも、男となると警戒も致しますでしょう…現に、人の世から神の世へ戻る男はすぐに受け入れる月の宮も、神の世でおって人の世を学びたいという男にはかなり厳しい審査であるとのこと。現実的には、男では入り込むことは不可能でありました。」
その王は頷いた。
「若いが、愚かではないということよ。龍王が背後に付いておるゆえ、滅多なことは出来ぬ。月の王は殺戮を好まぬが、龍王はためらいもせず斬り捨てる。我はその現場を何度も見て来た。」とため息を付いた。「月の地か。我もあのような場で統治出来ておったなら、今頃はここまで皆に辛い思いをさせずに済んだであろうにの。」
軍神は、王の様子に首を振った。
「そのような。今少しでありまする。王、月の宮は陥落したしまする。送られて来た宮は頑強で守り重視の物でありましたが、軍神達が絶対的に少なく、また将が極僅か。我ら、あの月の結界さえ抜けることが叶えば、あの地を制覇することが出来まするゆえ。」
王はまた、月を見上げた。
「月か。あれに見えぬものなど無いという。我らのこの様も、もしかしたら見ておるやもしれぬぞ。利晋、主は本当に、これが最善であると思うか?」
利晋は下を向いた。月と対峙する…全滅か、征服か。しかし、このまま何もしなくても、結局ここは消えて無くなる運命なのだ。利晋は顔を上げた。
「おそれながら王、これしかないと思うておりまする。我らはもう、ここではいくらも持ちこたえる事が出来ぬ。最後の機であるのです。ここ数年、必死に考えておったこと。今こそ、実行するべきであるかと思いまする。」
王・嗣重は頷いた。
「将を集めよ。」嗣重は言った。「我から言い渡そうぞ。」
利晋は、頭を下げて出て行った。
嗣重はまた一人、月を見上げたのだった。
蒼は伸びをした。今日は接見が多かった。十六夜は途中で飽きて退席し、蒼は対応に困った。文句を言ってやろうと思って探していると、どうやら軍の訓練場のほうで指南をしているらしい。蒼はそちらへと飛んで行った。
十六夜は、甲冑も着けずに軍神の将達を相手に、立ち合いをしていた。十六夜は月なので動きが素早く、危ないので刀は持ったことがなかった。いつも持っているのは、もっぱら訓練生たちが使う長い棒だった。
明人は、驚くほど軍神らしく成長していた。
あの戦での教訓を生かして、かなり精進したらしいことは、立ち合いの素人の蒼にも見て取れた。そんな明人を、十六夜は軽く裁いている。しかし、蒼の姿を見とめた軍神達が慌てて膝を付き、頭を下げたのを見て、明人も息を上げながら膝を付いて頭を下げた。蒼は言った。
「そのままでもよかったのだ。」蒼は邪魔をしたことを後悔した。「ちょっと見に来ただけであるので。」
蒼は、自分の立場というものを忘れてしまう。自分は王で、皆が自分に従っている事実を、未だに漠然としてしか実感出来ない。なんだか、雇われ王みたいな気分だったが、しかし自分は王だった。
それもこれも十六夜が王なんて柄じゃねぇとか言うから、オレが王にならなきゃならなかったんじゃないか。
蒼は、十六夜を身振りで呼んだ。
「なんだ?」
十六夜は何も気にしていないかのような表情で飛んで来る。蒼は言った。
「飽きたからって接見を途中で放り出すのはやめてくれ。あのあと、月に会いに来たって客人をなだめるのが大変だったんだぞ。少しは責務ってのも果たさないと、母さんと維心様と一緒に逝けないぞ。」
十六夜は眉を寄せた。
「退屈だったんでぇ。皆オレを拝むばかりでよーオレは神じゃねぇし、願いも叶えられないっての。」
蒼はため息を付いた。
「十六夜を見るだけでいいって人達なんだから、見せてやりなよ。ここには滅多に外の神を入れないから、千載一遇のチャンスだって思ってたんだと思うぞ。」
十六夜は空を指した。
「いつでも夜になりゃ、オレはあそこに出てるんだ。見たけりゃ空を見なって言ってやれ。」十六夜は立ち合いにも飽きたらしく、棒を放り出した。「さて、月に戻って維月とでも話して来るかな。維心がごねるから、もう三か月も里帰りしてねぇし。明日辺り連れて帰って来ようと思うが、いいな?」
蒼は頷いた。
「いいけど、母さんだって王妃やってるから忙しいと思うよ。都合をよく聞いてからにしなよ。」
十六夜は光に戻りながら言った。
「わかってらぁ。」
蒼は、今は明るくて出ていない月へ戻って行く十六夜を見送った。本当に十六夜は、自由でいいなあ…。
蒼の心配に反して、すんなり維月は帰って来た。十六夜と共に月の宮へ降り立った維月を見て、蒼は半分驚きながら言った。
「別にここは母さんの里なんだからいつ帰って来てもいいけどさ、よくこんなにあっさり昨日言って今日帰って来れたね。」
維月は苦笑した。
「まあ、ね。維心様も後から来るってことで、了解を得たの。」
「しかも明日だぞ?」十六夜が横から言った。「なんで里帰りに夫が付いて来るんでぇ。しかも毎回。」
維月は十六夜を見上げた。
「ごめんなさいね。最近、なんだか傍に居たいと思っていらっしゃるようなの。」
十六夜はフンと横を向いた。
「最近じゃねぇだろ。結婚以来ずっとじゃねぇか。お前も過保護過ぎなんだ。甘やかすから、維心が無理を言うんだろうが。しっかり躾けな。」
蒼は割り込んだ。
「まあまあ、維心様もいろいろおありなんだよ。十六夜はふらふらしてるんだから、ちょっとは許してやったら?」
十六夜は不機嫌に蒼を見た。
「これ以上、何を許せというんだよ。オレは普段維月と離れてるんだぞ?ま、お前に分かってもらおうとは思わねぇよ。」
維月は十六夜の手を取った。
「十六夜…。」
十六夜は、維月の心配げな表情に気付いて、微笑みかけた。
「いいんだ、今日はとにかく帰って来たんだしな。維心が来ても、部屋は維月はオレと一緒だし。」と維月の肩を抱いた。「さあ、部屋へ戻ろう。そうだ、お前に話したいことがあったんだ。」
維月は十六夜について歩き出しながら言った。
「まあ、なあに?話は月から毎日ほどしてるのに、まだ何か言ってないことがあったの?」
十六夜が笑いながら戻って行く。蒼はそれを、見送ったのだった。