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パチパチと小さく枯れ枝のはぜる音を聞きながら、二人は黙って木地椀を口に運んでいました。
共に気力も体力も限界で、気を抜くとすぐに眠気が襲いかかってきます。音楽家が泥の中に嵌まっていくような感覚をこらえながら、甘く熱い液体をすすっていると、
「会えても会えなくても」
抱えた木椀を傍らに置きながら、マカロニ屋が呟きました。それが誰を示すのかは明言しませんでした。
「危ないと判断したら、一人でもすぐに下山してくれ」
「ああ」
音楽家は椀を傾け、残りのココアを飲み干し、袖口で口元を拭いました。
「もとよりそのつもりだよ。僕は芸術家で、ドラマティックな刺激に常々飢えているからね。君に付いてきたのも、この物語を最後まで観たいという好奇心からだ。
もちろん一番可愛いのは自分だからね、危険を感知したらさっさととんずらさせてもらうさ」
「そりゃあ頼もしい」
マカロニ屋は苦笑を浮かべました。娘と別れて以来、久々に見せた表情でした。
――ひらり。
突如、二人の視界の隅で、何かが舞い踊りました。
一瞬、焚き火の炎のかけらが跳んだのかと思わせたほど、静かな雪山に似つかわしくない、それは燃えるように赤い蝶でした。
蝶はマカロニ屋の顔の傍まで来ると、くん、くくん、と何かに引っ張られるかのように不可思議な動きを見せながら一方向に飛びました。彼らが呆然と見詰めていると、程無くして再び蝶は舞い戻ってきて、先程と同じ軌道を描きました。それはまるで、二人を誘っているかのようでした。
マカロニ屋と音楽家は顔を見合わせると、鍋と椀を背負い袋に押し込みつつ慌てて蝶を追いかけ始めました。
蝶は振り返り、二人が後に続いていることを確認すると、ホッとしたかのようにひらひらと滑らかに飛び始めたのでした。
「……こりゃあ……凄い」
呆然と呟きながら、マカロニ屋と音楽家は辺りを見渡しました。
蝶を見失わないよう追いかけているうちに、気が付けばいつの間にか辺りの景色がすっかり変わっていました。
そこは、見渡す限りすべて、おおよそ思いつく限りの美しい色で彩られた常春の世界なのでした。
そこら中に咲き乱れる見たこともない花々が芳しい香を混ぜ合いながら二人の鼻をくすぐり、重なり合う鳥の声はまるで技を凝らした音楽のように耳に溶けていきます。色とりどりの蝶たちはよく見ると一匹たりとも同じ色や柄のものは無く、その羽の一つ一つが見事な芸術品のようでした。
そんな中で特に二人の目をうばったのは、大きな湖の水面にほんのりと浮かぶ、虹でできた小さなお城でした。
その窓際にはそれはそれは美しい女性が座っていて、微笑みながらこちらを見つめているのでした。
「……俺達、死んで宵の島へでも来ちまったのか」
惚けたようにマカロニ屋が呟くと、
「何言ってんだ、ついに、ついにやっと例の湖へ辿り着いたんじゃないか!
ああぞくぞくする、こんなにも美しい、奇跡の光景にお目にかかれるなんて!
こりゃあ凄い叙事詩が書けるぞ!」
鼻息も荒く音楽家が目を輝かせて叫びました。
「ほんと。待ちくたびれちゃったわ」
突如、甘い桃のような声が耳元で囁かれました。
二人がぎょっとして見やると、先程まで宮殿にいた筈の美貌の主が二人のすぐ脇にいて、衣を彩る虹色の霧を真白な指先ではじくようにもてあそびながら、くすくすと楽しそうに横目で見ているのでした。
「あなた達がここへ向かっていることは知っていたのだけれど。
本当、人間ってどうしてこんなにも愚鈍な生き物なのかしら。効率が悪いことこの上なくてよ」
マカロニ屋の方に向き直りながら、それで、と美貌の主は続けました。ちりちりと光る真珠のような冠の粒同士がこすれ合い、小さな鈴のような音がしました。
「回りくどいやり取りは嫌いなの。率直にいきましょう。
この春の湖を統べる私に、用があるのはおそらくあなた。
ここへ来たということは、即ち何か強い望みがあるということ。
さあ、あなたの願いとは何なのか、教えて頂戴」
「俺の」
湖の精を見つめ返しながら、マカロニ屋は答えました。
「俺の、願いは」
いくばくか苦し気に口籠りながらも、マカロニ屋は続けました。
「ここへ来た、ある女性に、合わせて欲しい」
「ああ。あのツバメちゃんのことかしら」
さらりと言った湖の精の言葉に、マカロニ屋は硬直しました。
子ども達の話や自分の記憶から照らし合わせて何となく推測し、覚悟はできていた筈でした。
ですが実際に放たれたその一言にマカロニ屋は打ちのめされたのでした。
うなだれた若者の姿を見て、湖の精は笑いました。
「取りこぼした奇跡をもう一度願おうなんて、そんな虫の良い話があると思って。
あなたの望む彼女は、ここにはもういないわ。私が願いの終わりと共に力を吸い取ってしまったもの。 この世界や私の美しさを永らえさせる為には、それなりの源が必要になるのよ。
もとより彼女自身がそれでいいと、初めに誓っていたことなのだから。
願いの代価は高くつく。取引は妥当でないと。
そうでしょう」
ふわりと微笑む常春の女王の姿も周りの光景も本当に美しく、だからこそ余計に悲しい命のやり取りの事実が現実のものとして彼らの心に重くのしかかってくるのでした。
チュビ……と、微かな音が聞こえたのはその時です。
聞き覚えのあるその音にマカロニ屋がはっとして辺りを見回すと、白木蓮の木の根元に小さな黒い塊がうずくまっているのが目に入りました。
ほろほろとこぼれ落ちる白い花の絨毯の上には、彼がかわいがっていたあの小さなツバメがいたのでした。
チュビ、チュビ、と弱弱しい声を上げながら、ツバメはもがいていました。つぶらな黒い瞳はただひたすらマカロニ屋を見つめ、震えながらも何とかそちらへ行こうと羽を動かしてはいるのですが、ただもがくばかりで一向に進めずにおりました。
マカロニ屋はツバメの元へ駆け寄り、傷つけないように周りの花びらごと、そっとその身体を持ち上げました。小さな小さなその身体はボロボロに痛みきっており、誰の目から見ても状態が良くないのは明らかでした。
濁り始めたツバメの瞳は、じっとマカロニ屋の顔を見ていました。チュビ……チュビ……と、身体毎搾り出すようにして何度もさえずり、そのくちばしと羽を震わせながら起き上がろうともがきました。
「動くんじゃない」
マカロニ屋は慌てて両手を顔の前まで近付け、くしゃくしゃになった顔で囁きました。
「もうこれ以上、俺なんかのために無理しないでくれ……俺、本当に何にもわかっちゃいなかったんだ。
お前、馬鹿だな。どうしてこんなことしたんだ。
俺みたいなヤツじゃなくても、いくらでも相手くらいいただろう」
ツバメは弱弱しく愛する人の瞳を見つめ、声にならないさえずりを出しました。
それが人の言葉でなくとも、伝えたい想いに溢れたものだということぐらいは、不器用なマカロニ屋にでも分かりました。
彼は溢れ出した涙を拭うことも忘れ、その小さな鼓動が伝わるように、そっと優しく頬に押し当てるようにして抱きしめました。
「馬鹿は俺だ……お前は何にも悪くないのに、勝手に傷つけて、こんなにしちまって。
すまない。本当に、すまない。許してくれなくていい。
お前を愛している。
人間か鳥かなんて関係なく、お前を愛している」
愛している。
愛している。
マカロニ屋は泣きじゃくりながら、ただそれだけを呟き続けました。
頬から感じる鼓動はだんだんと小さく消えていき、しばらくすると、やがてトクリともいわなくなりました。
「愛している……」
最後に消え入るような声でマカロニ屋が囁き終わり、そっと頬から手を戻し、その中にいる小さな小さな身体を見つめました。
暖かなミルクのような花びらに包まれたその身体は、既に固く冷たい骸となっておりました。