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積雪の山々が連なるその合間に、一箇所だけ、常春の湖がありました。
スミレにスイセン、ヒヤシンス、チューリップにクロッカス……その岸辺には色取り取りの春の花が一斉に咲き乱れ、永遠に続く悦びへの賛歌を唄っておりました。
その岸辺に、娘は伏していました。
油気の抜けた黒髪は閉じた瞼と青白くこけた頬の上にかかり、干乾びた唇は何かを紡ごうとするかのようにうっすらと開いたまま、時が止まっているようでした。
「死んでしまったのね……」
甘やかな声と共に美しい女性の姿が湖の上に浮かびました。
高くまとめあげた銀髪にはきらきらした泡のような真珠をたっぷりと冠代わりにつけ、透けるように薄くゆるやかな衣をまとった彼女は、この湖の精でした。
「だから初めに教えたでしょう……願いとは、叶わぬままが美しいものだと」
痛ましそうに呟きながら手を伸ばしかけた湖の精は、娘の瞼がぴくりと動いたことに気づき、すっと眉をあげました。
「……ま、まだ、です……」
かすれた弱弱しい声が娘から漏れました。
「……まだ……おねがいです、も、すこしだけ、このまま……」
「生きていたのね」
湖の精は娘を見下ろし、ため息をつきました。
「往生際が悪いのって見苦しくてよ。
そんな姿になってまで生きようとしなくても、美しいままに楽になる方が幸せでなくて」
「わ……わたし……あのひと、に……いえなかっ、た……」
うっすら開いた瞼を震わせながら、しにたくない、と言って娘は涙を流しました。
再びここへ辿りついた時はもう悔いはないと思っていた筈なのに。なのに、最期になって後悔するなんて、本当に見苦しいとは思うけれど、けれども。
「お、おねがい……あと、あとも、すこし、だ……け」
「困った小鳥ちゃんね。
でも、悪いけれど一度取り決めた契約は変更できないわ。初めに約束をしたわよね。
あの男から愛を得られなければ、あなたの命の灯を受け取ると」
湖の精はそう言いながら自分の頭に手をやりました。そこに飾られていたのは真珠などではなく、たくさんの命の灯なのでした。彼女に願いを聞き届けてもら
う代わりに差し出された様々な動物や人間の命が、まるで真珠のような泡の塊となり、彼女に力を与え、湖を常春とさせているのでした。
彼女はそのまま手を娘の方へ向けると、すうっと目を細め、まるで何かを手繰り寄せるかのような指の動きを見せ始めました。
「いや……いや……」
娘は顔を歪ませながら、必死になって力から逃げようともがきました。しかし、極度に疲労した身体はあっという間に見えない網のような力に絡めとられてしまいました。
ぐうっと息もできなくなるほどの圧迫感。じわじわと身体を這い登ってくる絶対的な死の力に、娘は恐怖とも恍惚ともつかぬ異常な身の高ぶりを感じました。
最早、逃げることは不可能でありました。
「あ」
娘の唇が、最期に何かを紡ごうとしました。
けれどそれは誰にも聞かれることなく、彼女の身体は光がはじけ散るように、ぱあっと砕けて消えてしまったのでした。
「悪い……こんなところまで付きあわせちまって」
ぼそりと、マカロニ屋が呟きました。
「何言ってるんだい。大体ここまできて、今更さよならなんてできるわけないだろう」
微笑みながらも少々苦しそうに、音楽家が答えます。
彼らは今、うっすらと積雪のある山々を越えていこうとしているのでした。
分厚い服を幾重にも重ね、重い荷物を背負い、杖を片手に、もう三日が過ぎ去ろうとしていました。その間、酷い雪降りなどに会わなかったのは幸いですが、それでもこの寒さと斜面の険しさは、普段山登りなぞしない二人の身には、十分応えました。何しろ、歩けども歩けども、なんら景色に変わりないのです。しまいにはいつまでも同じところをぐるぐると回っているのではないかと、不安にさえなってしまうのでした。
「君は、信じるんだね。あの子達の言葉を」
はあはあと荒い息をしながら、音楽家は言いました。
「ああ。他に手がかりもないしな。何よりも」
マカロニ屋は、あの時の子供達の瞳を思い出していました。
『姉ちゃんを、絶対に助けて!』
不器用だけれども真摯な眼差し。
それは、彼自身も同じだから分かる想いなのでした。
『オレらが姉ちゃんと会った日、秋にしてはやたらと暑かったしな。
はっきり覚えてる』
マカロニ屋は息をきらせ、少年の言葉を反芻しながら、ただひたすらに登り続けていました。
脛に固いつる草が何度も絡みつこうとも、足にびっしりできたのまめの大半が潰れ開こうとも、前だけを見つめ、朦朧としながらも足を動かし続けていました。
――姉ちゃんさ、ここの噴水のへりに座ってたんだ。なんか目立ってたんで何となしに見てたんだけど、水ん中をのぞきこんだままじぃっと動かねェんだよ。
で、そのうちふらふらっと広場から出てったかと思うと、しばらくしてまた戻って……ってのを、一日中くり返しててさ。日がくれても一人でいつまでもそこにいたんで、オレら、思わず話しかけちまったんだ、『何やってんだい』って。
そしたらさ――