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木々の隙間から明るい光の糸が幾重にも伸び重なり、若々しい緑の匂いに溢れかえる、そんな気持ちの良い季節でした。
彼女が慈しまれながら育てられてきたその家は、今はもう見る影もなく荒れた空き地へと変貌していました。
彼女は長い長い旅から帰還したばかりで疲れ果ててはいましたが、自分が今何をなすべきかはわかっておりました。すぐに新しい住み家となる場所を見付けなければなりません――彼女と、いずれ持つべき伴侶や子供達が確実に生き延びられる安全な場こそ、まず確保すべき第一のものでした。
彼女は幼き思い出の場から未練をふりきるように背を向けると、漆黒の羽を広げ空に切り込むようにして飛び出しました。
「……やっと気付いた」
彼女がうっすらと目を開けると、頭上からホッとしたような声が降ってきました。
真綿でくるまれるようにして横たわっていた彼女は、若い人間の男がじっと彼女を覗き込んでいるのに気付いて仰天し、急いで飛び立とうとしました。しかし身体中に走る鋭い痛みに、思わずギィと小さく悲鳴をあげてしまいました。
「大丈夫だって、何もしないって。
しかしよかったなぁ、生きてて。店のガラスに激突された時は、死んでしまったかと思っていたんだけれど」
男は、彼女を覗き込むようにして話し続けます。
「野鳥は人に懐かないって言うけど、まだ動けないみたいだし。
……よし、俺がお前の面倒みてやるよ。お前みたいに綺麗なツバメ、見殺しになんてできないものな」
そう言うと青年は彼女に笑いかけました。それは朝つゆに映る日差しのように、静かで温かな笑顔でした。
若い雌ツバメは、こうしてマカロニ屋と出会ったのでした。
マカロニ屋はかき集めてきた小枝を使い、小さな鳥籠を作りました。
動けないツバメのために、籠の床には良い香りのする枯れ草を敷きつめ、真綿の寝床もこしらえました。
さて、さしあたって一番の問題は餌をどうするかでした。なにせツバメが食べるのは生きた虫ですから、そう容易なことではありません。マカロニ屋は毎朝早起きしては土を掘り起こしてミミズを採ったり、自宅の窓際に腐りかけの果物を置いて(それはそれはひどい臭いでした!)コバエを捕まえたりして、何とか集めたそれらをツバメの口に押し込んでやりました。
マカロニ屋は自宅と店を往復する時も小脇に籠をかかえ歩き、暇さえあればしょっちゅうツバメに話しかけていました。マカロニ屋は早くに親を亡くして以来寂しい思いばかりしておりましたので、この新しい家族が可愛くて仕方がないのでした。
「なあ、俺の嫁さん」
と、時折マカロニ屋は冗談めかしてツバメをそう呼ぶことがありました。
「お前が人間だったらいいんだがなあ!こんなに可愛いんだから、もし人間だったりしたら、是が否でも俺はお前を嫁にもらうんだがなあ」
ツバメは籠の隙間から突き出されたマカロニ屋の指を、甘えるように噛みました。始めのうちこそ怯えてはいたのですが、毎日真摯に面倒を見てくれるこの男が自分に危害を加えることはないと分かり、少しずつ警戒を解くうちに、やがて愛情が芽生えてきていたのでした。
じりじりと強い日差しが、肌を刺すように照らし始めていました。虫の音が力強く辺りに響き渡り混じり合う様は、互いに夏の訪れの喜びを分かち合っているかのようでした。
「わかってるさ……俺だって」
マカロニ屋は可愛らしく水を飲むツバメの姿を見ながらつぶやきました。先ほど常連の客の一人に、いいかげんに外の世界に帰してやらないと可哀相だ、と言われたばかりなのでした。
確かに、本来であれば、ツバメは子育てに忙しい時期であったりするのでしょう。すっかりと元気になった今こそ、一刻も早く野に放してやることがツバメにとって一番良いのは明らかでした。ですが、それまでずっと独りぼっちだったマカロニ屋にとって、いつも傍にいるツバメの存在は心に灯る明かりのようでありました。それが消えてしまうなんて、考えただけで淋しくて仕方がないのでした。
そうだ、このままずっと家で飼っていても別にいいんじゃないか、こいつだって俺に慣れているんだし。いつの間にか半ば本気でマカロニ屋はそう思うようになっていました。
「キミ、それは少々身勝手な話だよ」
店に遊びに来た音楽家は、そんなマカロニ屋の言葉に対し、柔らかく、しかしはっきりと言いました。
「ツバメというのは、飼うための鳥じゃない。どんなに人に慣れてしまおうと、彼らにとっては何のしがらみもない空を突き進むことこそが喜びである筈だよ。暖かな寝床を求めて国境を越え、死ぬまで飛び続けるのが彼らの本能であり、業でもあると僕は思うのだけど」
友人の言葉に、マカロニ屋はうなだれました。そして、
「わかってるさ……俺だって」
と、かすれた声で呟いたのでした。
* * * * *
突如、狭かった視界がパッと開けたので、迷わず彼女は飛び立ちました。開放された喜びにただ夢中で羽根を広げ、貪るかのように風を味わいながらいつまでも飛び続けました。
そうして、ひとしきり久方の自由を謳歌して満たされた頃、やっと彼女は気が付きました。
彼がいないということに。いつも餌をくれ、優しい眼差しを向けながら楽しげに話しかけてくるあの人が。
彼女は慌てて元の場所に舞い戻りました。空き地には空になった鳥籠がぽつんとあるだけでした。
彼女は近くの木に止まり、彼が戻ることを期待して待ち続けましたが、やって来たのは鳥籠の匂いを嗅ぎ付けた徘徊中の野犬だけでした。
野犬はフガフガと鼻を鳴らしながら勢いよく籠に飛び掛かりましたので、細枝を組み合わせただけのそれはいともたやすく砕けてしまい、辺りにバラバラと跳び散ってしまったのでした。
それからというもの、彼女は毎日暇さえあれば、男の家や店の近くをうろうろと飛びまわっておりました。もちろん二度と鳥籠生活に戻るつもりはありませんでしたが、どうにも彼のことが頭から離れないでいたのです。ですが、見放されたという現実が、戸惑いやら不安やらがないまぜとなった複雑な感情を生んでしまい、彼女が無邪気に男の元へ飛び込む行為を押し止めておりました。
相手のいない愛らしい雌ツバメに、若い雄ツバメ達はこぞって求愛をしましたが、誰もがあっさりと断られました。彼女も早く結婚相手を選ぶべきだとはわかっていましたが、今はとてもそのようなことを考える気持ちになれなかったのです。
本当は彼女自身も、何故自分が人間相手にこうもいれ込んでしまったのかがよくわからないでいるのでした。
ただ、彼女が繰り返し思い返す男の姿――温かく澄んだ眼差しや、朴訥ながらも心地良く響く声、そっと触れるようにして撫でる指の動きや、遠くに見えた淋し気な横顔――は、はかない格子模様の世界にいた彼女の日々のすべてなのでした。そして、彼から受ける愛情が真に深いものであったこともわかっておりましたので、気付けば彼女もそれに応えるかの如く、男のことを深く慕うようになっていたのでした。
会いたい、彼に会いたいと、ただひたすらにそれだけを願い続け――。
そうして彼女は、二度と引き返せないと知りながらも、ある決心をしたのでした。