02──銀の鍵、星辰の夜(1)
──母は、人間だった。
顔は知らない。名前は知らない。だから勿論、声だって知らない。
でも、酷く可哀そうな人だったことは知っている。
穏やかな時間の流れる農村の娘だった母。
明日という日が訪れることに、何の疑問も抱いていなかった若い娘だった母。
当然のように明日がある幸せを、突如として怪物に奪われた可哀そうなヒト。
その牙と血を以って、蹂躙尽くされた哀れまれるべき乙女。
──父は、怪物だった。
顔は知っている。名前は知っている。だから勿論、声だって知っている。
でも、僕は彼のことを父親と呼びたくはない。
古来より人に恐れられてきた、伝承の生き物。
乙女の血を啜り、交わり、欲望のままに蠢くモノ。
人間を襲うことに何の疑問も抱かず、人間を食らうことに何の罪悪感も抱かず。
その牙と血を以って、母を蹂躙した軽蔑されるべき生き物。
──姉は、怪物だった。
顔は知っている。名前は知っている。だから勿論、声だって知っている。
でも、姉は父とは違う生き物だった。
古来より人に恐れられてきた、伝承の生き物。その血を受け継ぐ者。
けれど彼女は、よくあの父と血が繋がっているなと思う程に怪物らしくない人だった。
人間を襲うことに疑問を抱き、人間を食らうことに罪悪感を抱き。
その牙と血を収めることは出来ないものかと、藻掻き続けた生き物。
姉さんは、とても明るい人だった。
栗色の髪と、赤の瞳。それと真白の肌。彼女が怪物である証。
けれど彼女は、本当に本当に明るい人だった。
姉さんは、よく僕を僕の母によく似ていると言ってくれた。それは髪の色だったり、瞳の色だったり、いつまでもうじうじしているところだったり。そうやって僕を揶揄っては遊ぶ、少しだけ子供っぽい人だった。最後のひとことはこの上なく余計なひとことだと思ったけれど、でも、とても嬉しかったのを覚えている。
僕よりもずっと年上の癖に、子供っぽかった姉さん。けれど僕よりもずっと大人で、頼りになる姉さん。僕を守ってくれた姉さん。
半分しか血の繋がっていない僕を、唯一受け入れてくれた大切な人。
──そう。僕は、僕だけは、人間でも怪物でもなかった。
神の祝福も、怪物としての矜持も持たない、酷く不完全な存在。日向にも日蔭にも居場所のない異端者。爪弾き者。
──僕だけが、世界から置いてきぼりだった。
─────────
ゆっくりと目を開き、今となっては見慣れた天井を見詰める。少しだけ汗の滲んだ額を、寝間着の裾で乱暴に拭う。久方ぶりに夢を見たかと思えば、酷く悪い夢見だったのはお笑いだ。いや、昔の夢を見た理由なんてものは分かっている。数日前、この屋敷の主である少女に聞かせた話が尾を引いているのだろう。まるで彗星のように。
ベッドを降り、寝間着を脱ぐ。その間も考えるのは、あの少女──マリアさんのことだった。
結局、大の大人が、それもどうであれ男が思わず背筋を凍らせる程の恐怖を孕んだ彼女を目にしたのは、あの日のあの瞬間だけだった。僕が彼女の言葉を肯定するや否や、まるであの瞬間までのやり取りなどすべて覚えていなかったかのように──そう、例えるならば、まるで人格がそっくり入れ替わってしまったかのように、彼女はいつものマリアさんに戻っていた。
勿論、僕は酷く動揺した。まさかあれは演技だったのかと勘繰りもした。若しや彼女の語る言葉は何もかもが嘘で、本当は僕の身包みを剥ぎ、料理しようとしているのではないかと疑いもした。だから鎌をかけようと、彼女に話があると言って僕に宛がわれた客室に呼び出したのはその晩のことだ。
「僕がこの屋敷で世話になって、もう一週間が経っていました。だから貴女に話しておきたいことがあります。」そう前置きして、それから自分の身の上を語った。今思えば真実を語る必要はなかったのかもしれないが、それでも、僕はあの時の彼女に僕自身について僕の口から語ると約束したのだ。無論、もし嘘の経歴を口にして万が一にでも彼女の怒りに触れたら…という心配もあったけれど、いちばんは僕にとって一週間の滞在というのはこの上ない長期滞在だった、ということだった。それ程までに長い時間を共に過ごした人に真実を語らないというのは、酷く不誠実だ。
それに──人には誠実であれ。姉さんの教えに、背きたくないというのもあった。
寝間着を脱ぎ捨てて、マリアさんから借りた衣服に袖を通す。
マリアさん曰く彼女の兄のものだそうだこの衣服たちは、自分でも驚く程に僕の身体に合っていた。成程、彼女が僕を兄のように慕う理由が少しだけ理解出来た気がした。それから、あの晩のマリアさんを思い出す。
僕の目には「それはおつらかったでしょう。とても悲しかったでしょう。」そう言って、まるで我がことのように空色の大きな瞳からポロポロと涙を零す彼女が演技をしているようには思えなかった。かといって、嘘を言って自分を偽っているようにも思えなくて、僕は酷く動揺したものだ。それから、こんなにも小さな少女を泣かせてしまったことに対する罪悪感ばかりが刺激されて、傍から見れば滑稽だったろうと思う。どう見ても僕が悪者だった。嗚呼、子供であろうが大人であろうが、女の人に泣かれるのは本当に苦手だ。思わず溜息が漏れる。
「………クロンさん?起きていらっしゃいますか?」
「ええ。おはようございます、マリアさん。今行きます。」
「おはようございます、クロンさん。はい、お待ちしていますね。」
不意に静穏な室内に響くノックの音に、意識が引き戻される。控え目で不安そうな声に朝の挨拶と今から食堂へ行く旨を伝えると、面白い程に弾む声に彼女の表情を想像してはつい口元が緩む。とても楽しそうに世話を焼く少女と、あの日見た異質な少女。どちらも同じ人物だと分かってはいるけれど、恐怖というものは時間の経過と共に薄まるものだ。ましてや普段の彼女が善良で、可憐な少女であればある程に。おまけに何のことかさっぱり分からないが、彼女は確かにまだ時間があると言った。きっと今日明日の話ではないのだろうと、少しだけ暢気に構える。
サスペンダーを着けて、髪を整える。それから、窓の外を見る。今日は一日中暖かそうだから、上着はいらないだろう。シャツとズボンだけの簡素な服装で扉を開けると、すぐさま食欲をそそる匂いが漂ってきた。少しだけ足早なのは食事が楽しみだとかそういうことではなくて、彼女を手伝わなければという使命感なのだと柄にもなく言い訳をする。
「おはようございます、マリアさん。」
「はい、おはようございます、クロンさん!」
嗚呼、そうだ。彼女は今日も普段と変わらない、ごく普通の少女だ。魔女であろうがなかろうが、それが真実であろうがなかろうが、自分の目に映るこの少女は紛れもなく善い人間に違いがないのだ。
──だから、きっと。今日も何も変わらない一日なのだと、僕は自分に自分で言い聞かせた。
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