01──清廉なる少女(4)
暗闇の中、外観だけで大きいと判断したこの屋敷は実に想像以上に入り組んだ迷路のようだった。鍵の掛かっていない客室だけで10も20もあるこの屋敷を、いったいどれ程の期間なのかは定かではないものの彼女ひとりで管理していたというのだから素直に感服する。そして矢張りと言うべきか、その殆どが埃塗れの鼠の巣だらけだった。健康上宜しいとは言えない状況を黙って見て居る程僕は非常な男ではない自覚はある。物を盗ったりなどという真似は決してしないから、どうかマスターキーを貸して貰えないかと頼み込むと、マリアさんは心底おかしそうにくすくすと笑って何の躊躇もなくそれを僕に寄越した。
すると僅かとはいえ共に過ごすうちに此処まで信用して貰えた嬉しさと同時にお節介が沸いて出てくる。余計なことに首を突っ込むのは止めておいた方が良いと分かってはいるけれど、彼女は身分の定かでない自分をこんなにも信用して、剰え屋敷に置いて下さって居るのだ。余計なこと、無駄なことと知りながらも忠告せずにはいられなかった。
「あの、マリアさん。」
「はい、なんですか?」
「流石に不用心ではありませんか?」
何が、とは敢えて言わなかった。いや、言ってしまえばキリがない。こんな男を幾ら好奇心、ひいては寂しさを紛らわせるためとは言いながらひとつ屋根の下で暮らし、甲斐甲斐しく世話を焼く。遂にはマスターキーさえ何の躊躇もなく差し出す。これではまるで、どうぞ窃盗か婦女暴行でも犯して下さいと言わんばかりではないか。自分にそんなことをする理由がないから良いものの、やはり目の前の少女は無防備で不用心で、少しだけ心配になる。まだこの屋敷を出て行く予定はないものの、物事というものはいつしか終わりが訪れるものだ。次の訪問者が自分のように無欲である保障などというものはない。
そんな思いを短いひとことに込めるも、やはりマリアさんは名前を尋ねたあの夜のように大きな瞳を丸くして、きょとんとした表情で僕を見詰める。それから、少し困ったように眉を下げた。
「…そうですか?」
「そう感じたから申し上げているのです。何かあった時、どうするおつもりなのですか?」
「まあ、心配して下さるの?でも大丈夫。こんな森の奥深くですもの、あなたがいらっしゃったことがここ数年でいちばんの大事件!ふふ、おかしいでしょう?」
無邪気に笑うばかりで、一向に僕の質問に答えようとしない彼女に少しだけ苛ついた。というのも、小さな子供ひとりで暮らすにはこの屋敷は少々広すぎる。おまけに地の利も悪い。街は遠く、迂闊に屋敷から出ればそれこそ蛮族かハイエナの餌食になりそうな立地なのだ。けれど何よりも気味が悪いのが、かつて大勢の人間が暮らしていたであろう痕跡が至る所で残っていることだった。まるで、そう──ある日突然、人間だけがぽっかりと消えたかのような不自然な痕跡。血の跡もなければ物盗りの痕もない、ただただ人間だけがいなくなったかの如き喪失感。
彼女が口にした言葉を、心の中で反復する。その言葉の真意など僕にはわからない。ただ、彼女という存在が素直で、清廉であればある程に引き立つ胸の燻り。それを必死に抑え込んで、言葉を続ける。
「…なら、尚更不用心ではありませんか。もし物盗りや殺人鬼にでも押し入られたらどうするおつもりだったのですか?」
「もう、心配性な方ね。こんな森の奥深く、寂れた屋敷を訪れるのなんて吸血鬼か狼男くらいでしょう?だから平気ですよ。」
何気なく発したであろうそのひとことに、ごくりと唾を呑み込んだ。目の前の少女を見詰める。淡い紫色の髪と、空色の瞳。とても愛らしい少女だと思う。誰もに愛されるべき、可憐な少女だと思う。けれど、きっと。この少女はそれだけではない。当てずっぽうにしては少々的を射すぎている例え話に、否応でも心臓が忙しなく拍動を始める。
「────では、マリアさん。もし仮に、貴女が招き入れた客人がその類いの者だったらどうしますか?」
内心不安に震える臆病さとは反対に、彼女に向けてそう問い掛けた声は酷く冷たく、そして冷静だった。けれどそれが張りぼてであることは自分がいちばんよく分かっていた。不意に、僕を見詰めるその空色の瞳がすぅっと細まる。一抹の不安が芽生える。
「……………とても、とても素敵だわ。クロンさんもそうは思いません?」
「……いいえ。僕はそうは思いません。マリアさん。貴女は何故、そう思うのですか?死んでしまうかもしれないんですよ?」
「なら、尚更に素敵だわ!」
赤いカーペットが何処までも続く廊下の真ん中で、彼女はそう声を上げるとその場でくるりと一回転した。その表情も仕草も、いつも通りの明るく、無邪気で、快活な少女を思わせるものなのに、僕を見詰める瞳だけがやけに冷たい。年相応の振る舞いと、何もかも知り尽くした賢者のように酷く冷静で冷たく、それでいて人形のように虚ろな瞳が僕を射抜く。言いようのない恐怖が背筋を伝う。
「もしそれが本当なら、もう最高よ!──わたし、ずうっとずうっと、わたしを殺して下さる方をお待ちしていたの。良かった。漸く巡り会えたのね!」
「……………マリア、さん………?」
可憐な少女の唇から飛び出した物騒な単語に息を呑む。神秘と不気味が混じり合い、溶け合った目の前の少女を見詰める。けれどそれはほんの一瞬で、彼女はすぐにいつも僕に見せていた無邪気な笑みをその顔に貼り付けると、まるで役者がカーテンコールを受けて舞台に上がった時のように両手でスカートの裾を持ち上げて、それから深々とお辞儀をした。そのままの体勢で数秒。次いで顔を上げた彼女の瞳だけが、ほんのりと薄暗い廊下の中で星のように輝く。それは、確かに人ならざるものの証だった。咄嗟にコートの下、何時であろうと忍ばせていた暗器へ手を伸ばす。それから、ほんの一瞬逡巡した。それは彼女の少女らしい一面を知っているが故の躊躇だった。出会って間もないとはいえ、彼女が善良であることを知っているが故の躊躇だった。
どうすべきか。殺しなど慣れている筈なのに、答えを出せない自分を見て少女がくすりと笑う。年不相応の妖しい笑みに、嫌な汗が肌を伝う。けれどそんな表情とは反対に、彼女が紡ぎ出した言葉とそれを乗せる声は、酷く無邪気なものだった。
「改めましてはじめまして、お客様。わたしはマリア。かみさまの愛を受け取ることが出来なかった出来損ないの魔女。廃棄されるべき失敗作。わたしがとてもとても悪い子だったから、もうここには誰も居ない。みんなみんな去って行ってしまった。お母さまは冷たい土の下。わたしの望みはただひとつ、お母さまと共に眠ること。そのために必要なことはただひとつ。わたしを愛さない、愛せなかったかみさまに全てを捧げてさようなら。幕引きは鮮やかに。飛び立つ白鳥のように跡を濁さず。──どうかわたしを見つけて下さったお優しいあなた。星辰の夜、箒星が巡るその時に、わたしの最期になって頂けませんか?」
「……マリアさん。貴女は──貴女は、一体何者なのですか?」
「まあ…いやだわ、クロンさんてば。たった今、言ったばかりでしょう?」
何ひとつとて理解出来ずにそう返した言葉に、目の前の少女がくすりと笑う。少し照れくさそうなその声も微笑みもこの数日間で何度も目にした筈なのに、彼女の紡ぐ言葉だけが日常から外れた非日常だった。
「私は魔女よ。」
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