01──清廉なる少女(3)
当初は一晩、精々数晩程度で屋敷を出るつもりだったけれど、その思惑は見事に打ち砕かれた。というのも、彼女──マリアさんの口から長らくこの広い屋敷にひとりきりだったことを聞いてしまったからに他ならない。彼女曰く、僕は久方ぶりの客人らしい。そのせいだろうか、マリアさんはどこの馬の骨とも知れない僕に大変良く懐いて下さった。まるで兄が出来たようだと言われてしまえば少々警戒心がなさすぎるのではと口にしそうになったけれど、彼女がもう随分とひとりきりだったことを思えば何も言えなかった。それに、何よりも毎日毎日特別愛想があるわけでもない僕相手に飽きることなく、とても楽しそうに世話を焼く彼女を見てしまえばもう出て行くとは勿論、小言のひとつも言い難くなってしまった。
ならばせめてもの宿賃代わりにと、彼女を手伝うことにしたのは昨日のこと。そう特別身長の高いほうではない自分の胸の高さほどもない背丈の彼女では、この広い屋敷を管理するのは難しかろうと考えてのことだった。現にマリアさんの自室とキッチン、バスルームと大広間のピアノ、それと庭の花壇以外は何処も彼処も埃だらけだった。
「ごめんなさい。お客様に手伝って頂くなんて…。」
「どうかお気になさらないで下さい。僕が勝手にしているだけのことですから。…それに、男として女性に何もかもやらせるというのは紳士的ではありませんから。」
「……女性、って…わたしのこと、ですか?」
穴の開いてしまった外壁を板で塞いで釘を打つだけの簡単な作業だというのに、心底申し訳なさそうに俯く彼女が痛々しくて、気が付けば普段は口にしないような言葉を紡いでいた。まるで年端もいかない少女を軟派でもしているような口振り。おまけにマリアさんはあの晩、名前を尋ねた時のようにきょとんとした表情になってしまったから内心焦る。僕をじっと見詰める、無垢な少女の視線が痛い。
けれどそう感じたのも束の間、マリアさんは徐にぐすんと鼻を啜ると声もなく静かに泣き始めてしまったから流石に焦った。どうしたものかと思いながらも生来不器用な男故に、何と声を掛ければ良いのかなど見当もつかない。金槌片手に何も言葉を紡げずに狼狽える男の、なんと滑稽なことか。何よりも、何が彼女の癇に触れたか分からない。それがとても不安だった。まだ互いのことを何も知らないとはいえ、彼女が自分と違って繊細な少女であることは明白だった。
「ごめんなさい。わたし、お母さま以外の方からそんなことを言われたの、初めてだったものですから。」
「……そう、ですか。…すみません。軽率でした。」
「いいえ、謝らないで下さいな。少しだけびっくりしてしまったけれど…でも、とても嬉しかったんです。ちゃんとわたしを人間扱いして下さる方が、まだこの世界に居たなんて。」
「…おかしな方ですね。マリアさんは、何処からどう見ても人間じゃありませんか。」
「─────ええ、そうですね。」
どの角度から見下ろしても何処にでも居るごく普通の少女に、ついそんな軽口染みた言葉を返す。耳が長いわけでもなければ尻尾が生えているわけでもない、ただの人間の少女。こんな自分に懐いて下さった、この屋敷の主。見ていて気持ちが良い程に礼儀正しい少女。けれどそんな彼女が僕に返したのは軽口でもなければ減らず口でもない、先程まで歓喜に咽び泣いていた少女のものとは思えない少しだけ冷たい声。何処にでもいるようなありふれた少女の陰に隠れた何かを感じ取った時、言いようのない恐怖が背筋をぞわりと這っていくのを感じた。
咄嗟に振り返って、背後に立つ彼女を見遣る。その瞳は酷く冷たく僕を見下ろしていた。…これが、つい先程まで涙を零していた少女?あまりの異質さに息を呑む。反射的に金槌を握る右手に力を込めた時だった。ふっと表情を緩めた彼女が、まるで何事もなかったかのようにスカートの裾を風に踊らせる。その度に香る少女の甘い匂いが、それら全てが現実だと知ろ示す。
「ねえ、クロンさん。そろそろ休憩になさらない?美味しい紅茶とクッキーで一休みしましょう?」
「…あ、ああ……そうですね。では、紅茶は僕が淹れましょう。」
「まあ、そんなの悪いわ。お疲れでしょう?わたしがやりますから、どうか座っていて下さいな。」
そう言って、普段と変わらないありふれた微笑みを浮かべる少女を前に言葉なく頷く。ぎこちない返答だったろうに、嬉しそうな笑顔を浮かべる彼女は紛れもなくただの少女だった。その場に金槌を置いて、庭先に置かれたガーデニングチェアに腰掛ける。マリアさんは僕が腰掛けたことを確認すると、楽しそうに屋敷へ駆け出して行った。その姿は年相応の少女に他ならないのに、胸の奥では形容しがたい何かが渦巻いていた。
いいや、あれはただの見間違いだと自分に言い聞かせる。身分ひとつ定かでない僕を、何者かを一切語らない僕を、何も聞かずに置いて下さるだけでなく兄のように慕って下さる彼女に、不安や恐怖など抱いてはいけない。そうだ、あの小さな身体で何が出来る。あの細腕で何が出来る。そう自分に言い聞かせる。精神を研ぎ澄まして、気を静める。そうすれば幾らか気が安らいだ。
「──お待たせいたしました、クロンさん!」
「嗚呼…そんなに急いでは転びますよ、マリアさん。」
──そうだ。こんなにも無邪気な少女に、何を恐れる必要があるのだろう。
今にも転んでしまいそうな彼女を手伝うべく、席を立つ。今にも銀盆から零れ落ちそうな茶菓子を受け止めると、恥ずかしそうに彼女が笑った。
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