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Heretic  作者: るるる
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01──清廉なる少女(2)


「起きて下さいな。」


夢さえも見ることのない深い眠りの中、僕を呼ぶ誰かの声だけを何処か遠くで知覚する。

この声は、…嗚呼、誰の声だったか。もう久しく顔を合わせていない姉の声にしては少々高すぎる。まるで窓辺で囀る小鳥だ。


「──困ったわ。朝寝坊はいけないことだけれど…でも、疲れて泥のように眠っている方を無理やり起こすのは、もっといけないことよね。」


夢さえも見ることのない深い眠りの中、そう言って困り果てた声を何処か遠くで知覚する。

この声は、…一体、誰の声だったか。眠りと覚醒の合間を漂う意識で必死に考える。そうする間も困ったように唸る囀りを聞きながら、嗚呼、そうだったと思い出す。その途端に、急に意識が浮上する。


「で、でも、やっぱり朝寝坊はいけないことよね。ああ、わたし、どうすればいいのかしら…。」


嗚呼、そうだ。思い出した。夜も更ける頃合い、自分は森の奥深くで佇む屋敷を見つけ、その扉を叩いたのだった。そして眠りこける僕を目の前に、起こすべきか起こさないべきか真剣に悩む声の主はこの屋敷のたったひとりの住人にして主人。まだ幼い子供ながら、夜更けの訪問者を気遣って客室を勧めて下さった方。その好意を純粋に嬉しく思い、我ながら珍しく素直に甘えたのが最後の記憶だ。人に誇れる程に明確な目的のひとつもなければ当てさえもない旅の途中とはいえ、足を止めるわけにはいかない。だから早々に此処を立とうと思いながら眠ったのはつい数時間前のこと。けれどこの状況を顧みるに、どうやらそれは水泡のように淡い夢物語で終わったらしい。


「──すみません、メイリアさん!!」


そこまで思案したところで、慌てて柔らかなベッドから飛び起きる。ベッドの横で困惑している少女の瞳が見開かれた。彼女に何度も気を遣わせてしまったことも、こうしてすぐ隣にいるにも関わらずに気配ひとつ察知できない程に眠りこけていた我が身が恥ずかしくて堪らない。それを誤魔化そうと起床して早々に頭を下げた僕の耳に届いたのは、矢張り小鳥の囀りのような笑い声だった。




─────────




なんとも格好の着かない起床から数刻後。一先ずは着替え、顔を洗い、髭を剃り、外見だけでもそれなりに整えると食堂へ向かう。午前のティータイムの時間が近付いていたけれど、そこはまだ朝の香りがした。何か手伝おうかと思ったが、テーブルの上に用意された食器類を見遣るに僕に出来そうなことは何も無いようだった。

仕方なしに椅子を引き、腰掛ける。そうしてから配膳くらいは手伝おうかと思ったが、やめた。小さな背丈のその人がとても楽しそうに、鼻歌なんて歌いながら鍋をかき混ぜているのだ。声を掛ければ却って気を遣わせてしまうかと、大人しく眼前の花瓶に生けられた花を見る。とても綺麗な花だった。食用ならばまだしも、観賞用の花には明るくない身なので名前も種類も分からない。けれど彼女と同じ淡い紫色の花弁は可憐だった。なんとなく指先で触れたその時、軽く焼いたパンの香りと共に、彼女の声が僕に届けられた。


「フェアギスマインニヒトですよ。」

「…フェアギスマインニヒト?」

「そのお花の名前です。お母さまの故郷では、そんな名前なんですって。…わたし、お花のことはよくわからないけれど、でも、このお花だけは好きなんです。お母さまが、とても好きなお花だったから。」

「メイリアさん。ご家族の方は───」

「…いません。」


長らく旅をしてきた身とはいえ、聞き慣れない単語に思わず眉を顰める。否、長らく旅をしてきたからこそ、今の自分にとって不要だと思われる情報はそぎ落としてきた。余計な情報は心を乱す。加えて、知識というものは生き物を豊かにするが、同時に貧しくもするものだ。ただでさえ自分という存在は愚かな生き物なのだ、これ以上みっともなく体裁さえ保てなくなるのは困る。故に、この花の名前も直ぐに忘れてしまおうと思った。

けれど、僕にそう教えてくれた彼女の横顔がとても寂しそうだったから、寸でのところで意識に留める。誰かに興味を抱くだなんて、それこそ何年振りかも分からない事象で少しだけ困惑する。でも、それよりも驚いたのは、自然と彼女に対して興味を抱いている自分が居ることだった。そして、その興味本位のひとことがいっそう彼女の表情に陰りを落としたことに気が付いた時、悪いことを聞いてしまったのだと自覚した。流石に知らなかったとはいえ、失言が過ぎたかと謝ろうとした時だった。寂しそうな表情に精一杯の笑顔を貼り付けて、彼女が微笑んだ。


「だからわたし、嬉しいんです。こんな風に誰かと言葉を交わすことが。誰かのお世話ができることが。だから、そんなにお気になさらないで下さい。」

「…メイリアさん、」

「それと、どうかマリアとお呼びになって?お母さまはいつもわたしをそう呼んでいらしたから、あなたにもぜひそう呼ばれたいのです。」

「ですがこうして世話をして頂いている以上、当主様を愛称で呼ぶなどとは──」

「過ぎた真似、なんて言わないで下さいな。だって、わたしがそうして欲しいんですもの。」


それは、意外な言葉だった。随分と長いこと放蕩していた自分にとっては想像だにしなかった感覚だった。そしてなんとも彼女らしい、人間としてごく当たり前の感覚と感情に基づいた言葉だった。だからそれらを目の当たりにした時、僕は酷く動揺すると共に否応でも頬が緩むのを感じた。滅多に感情を表情に出さない冷血漢の筈が、この少女の前だとまるで生まれたての雛のように素直になってしまう。その事実がとても気恥ずかしい。目の前の素直で年相応な少女に中てられてるだけだと一笑しようにもそれさえも躊躇い、剰えたまにはこんな自分もいいかと考えてしまう。まるで古くからの知り合いのような、はたまた劇場で看板娘に一目で恋してしまったような、そんな奇妙ながらも決して悪くはない心地に浸る。嗚呼、きっとこういう感覚を、人は夢心地というのだろうなと思った。


「…では、マリアさん。」

「はい、なんですか?」

「……ありがとうございます。」


心地よい感情の海に揺蕩いながら、意を決して昨晩一度だけ口にした彼女の愛称を声に出す。そうして、次に感謝の言葉を紡ぎ出す。するとマリアさんは夏に咲く大輪の花のような笑顔を浮かべ、それから少しだけ不安そうに僕の前にスープ皿を置いた。


「──さあ、朝ご飯にしましょう?お口に合うと良いのですけれど。」






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