04──薔薇の眠りを越えて
「準備出来たか?」
そう言ってノックも早々に、彼女の部屋の部屋の扉を開ける。一歩室内に踏み入るや否や、乱雑と表現する他ないガラクタの海の中で頭を抱えて悩む彼女の背中が目に入った。思わずはぁ、と大きな溜息をついてガラクタを掻き分ける。服や魔術書、杖といった普段の生活と魔女にとって必要なものが散乱しているのは兎も角、何をどうすればひびの入った花瓶や端の欠けた植木鉢が転がるのだろう。適当に手に取ったそれを前に、もう一度溜息が零れる。正直に言って理解し難い。けれども、今いちばん大切なことはそれじゃない。一体幾ら僕を待たせる気なのか。どう見てもゴミとしか思えない物品を掻き分け、押し退け、その中心に居る背中へと足を進める。
彼女の背後に立つと、何処からか甘い薔薇の香りがした。心地良さを覚えるその香りの中で、彼女は右手にぬいぐるみを、左手に宝石箱を持って、その両方を見比べながら酷く悩んだ様子で唸っていた。どっちも必要ないだろうと口にしそうになったのを必死に堪える。尤も彼女は真剣に選んでいるらしく、僕に気が付くことなく少しだけ低い声で唸っていた。
「うぅん……難しいわ。外に出るのに必要な物ってなにかしら?」
「………マリア。」
溜息交じりに彼女の名前を呼ぶと、小さな肩がびくりと震えた。数拍置いてから恐る恐るこちらを振り向くと、慌てた様子で両手に握り締めていたそれらを離す。ぬいぐるみがぽすりと地面に落ちる最中、もう片方の掌の下では宝石箱がかしゃりと音を立てる。その様を見て更に慌てた様子でそれらへ手を伸ばす彼女に、三度目の溜息が零れた。
「あ、クロン!……えっとね、違うの。あと五分、ううん、十分。十分待って貰えれば、本当の本当に準備出来るから!」
「そう言って何分経った?この調子だといつまで経っても出れないぞ。」
少しばかり苛立ちを露わにした口調で忠告すると、うんうん唸る彼女の背後で小さな裂け目が生まれた。僅かな隙間からにゅるりと顔を覗かせ、まるで「それ以上舐めた口を利くなら殺すぞ」と言わんばかりにビチビチと跳ねる触手に一瞬青ざめる。咄嗟にごほんと咳払いをひとつして、軽く彼女の頭を撫でる。敵意や悪意あっての言葉ではないのだと示そうと、思い切りわしゃわしゃとその豊かな髪を乱す。すると最初は不思議そうな顔をしていたものの、直ぐに心底楽しげに笑った彼女に気を良くしたのかゆっくりと触手が引っ込んでいった。静かに安堵の溜息をつく。
「だってだって、外に行くのは初めてなんだもの。どんな物を持って行ったらいいかなんて分からないわ。」
「どんな物って…必要な物だろう?」
随分と準備に手間取っているとは思っていたが、それは年頃の少女特有のいつまでも鏡の前で服を選ぶようなものであったと思っていただけに、乱れた髪を手櫛で整えながら呟かれた彼女の言葉は心底僕を驚かせた。けれど同時に酷く納得もした。そして遠い昔、初めて姉の元を離れた日を思い出しもした。嗚呼、そういえば自分も迷ったものだと過ぎ去った時に目を向けては、少しだけ懐かしい気持ちになる。
眼下で頬を膨らませてむくれては、すねた様子で唇を尖らせる彼女に至極真っ当な返答を口にする。けれど彼女は相も変わらずに年相応に子供っぽい表情を浮かべては、困ったように眉を下げるのみだった。肩を落とし、溜息をつき、ぼんやりと虚空を見詰めながらぽつりと呟く。
「それが難しいのよ。この家は嫌いだけど、お母さまと過ごしたこの部屋だけはたくさんの大切な物で溢れているの。わたしにとっては全部必要な物。…だから考えれば考える程に、余計に分からなくなっちゃうの。ねえ、どうしたらいいと思う?」
「……何も、無理に全部持っていこうとしなくていいんじゃないか?」
「…え?」
悩ましげな表情から一転、そう返す僕に彼女が大きな瞳を見開く。あまりにも大きく見開かれたそれに、思わず零れてしまうんじゃないかと心配になる。だから落ち着け、とゆっくりとその頭を軽い手付きでごく優しく叩いてやると、何度目かで漸く幾らか冷静になったらしい。軽く目を閉じ、大人しくされるがままの彼女の頭を最後にひと撫でしてから、ゆっくりと手を離す。不意に頭上から消えた掌の重みに不思議そうに目を開けた彼女に、優しく語り掛ける。
「また何か必要な物が出来たら、此処に取りに帰ってくればいい。君はもう自由なんだ。必要な物が出来た時だけじゃない。外の世界に疲れた時だって、母親との思い出に浸りたい時だって、何もなくたって、この部屋に帰って来れるんだ。だから、今の君にとって必要な物を選べばいいと思う。」
「──────。」
彼女の瞳が再び、大きく見開かれる。けれどそれはほんの一瞬の出来事で、すぐさま今にも泣き出しそうな顔をすると彼女は小さく頷き、俯いた。次いで顔を上げると小さな手の小さな手の甲で乱暴に目元を拭い、彼女の母親の想いの詰まったロザリオをじっと見詰める。とても愛おしそうに、大切そうに、優しい空色の瞳で見詰めること暫し。徐にネックレスになっているそれを首に掛けると、立ち上がって今度は僕を見詰める。その瞳は迷いのない色を瞳をしていた。研ぎ澄まされた刃物のように真っ直ぐで、曇りのない、覚悟の出来た、とても良い瞳をしていた。
思わぬ満足感に口元が緩むのを感じる。理由なんてものは分かり切っていた。月並みな言葉かもしれないけれど、真っ直ぐな瞳をした彼女をとても美しいと感じたからだった。けれど同時に一抹の不安にも囚われる。初めて足を踏み入れたこの部屋が、母娘水入らずで過ごした大切な空間だということは容易に想像出来た。ひとつしかないベッド、彼女には大きすぎる服や帽子。壁に飾られた落書きは、恐らくまだ覚束ない赤子であった時に彼女が描いたものだろう。一見するとガラクタに思えないそれらだけれど、少し観察すればそのひとつひとつが彼女にとって大切なものであろうことは直ぐに理解出来た。だからこそ、僕の方が不安になってしまう。本当にいいのだろうかと、この期に及んで躊躇ってしまう。彼女の覚悟に応えるように、僕もまたその瞳を正面から見詰め返しながら問い掛ける。
「…いい目だ。でも、本当にいいのか?」
「ええ。だってわたしはもう独りじゃないもの。それに、本当に必要な物はあなたが持っていてくれるのでしょう?」
「…参ったな。」
此方の不安や躊躇いなど何処吹く風か、あっけらかんとした様子で僕を信用しきった言葉を紡ぐ彼女に頬が熱くなるのを感じた。骸のような冷たい身体に灯る火が気恥ずかしくて、けれど何処か心地良くもある。耐え切れずに目を逸らせば、視界の端で彼女が笑ったのが見えた。それが余計に羞恥を煽るものだから、仕返しとばかりにもう一度掌で彼女の髪をかき乱す。すると言葉を覚えかけの小鳥のようにぶつぶつと文句を口にしながらも何処か楽しそうな雰囲気の少女に、直接視界に入れずとも僕までついそんな気になってしまって頬が緩んだ。
そっと、彼女の頭から掌を退かす。けれど今度はただ退かすだけじゃない。きちんと整えてやる。そうすればごく少女らしい表情で礼を述べた後、徐に彼女が僕へ向けてその真っ白で小さな掌を差し出した。すぐさま確りと握り締めると、彼女が僕をその大きな瞳で見上げながら問い掛ける。
「さあ、行きましょう?まずはどこに連れて行ってくれるの?」
「そうだな…、記念すべき第一歩だ。君の好きそうな場所にしよう。」
「まあ、本当?どんな場所に連れて行って下さるのかしら?」
期待に満ちた瞳で此方を見上げる瞳を、真っ直ぐに見下ろす。まだ出会って間もないとはいえ、彼女の好きそうなものはなんとなく理解していた…というよりかは、この年頃の少女の好きなものなんてある程度決まっているのだ。ましてや長いこと『外に出たい』という本心を必死に押し殺していた彼女のことだ、宝石のように眩しい話が嫌いなわけがないだろう。だからつい最近、旅の途中で小耳に挟んだ宛ら御伽噺のような話を口にする。
「──自分勝手で我儘な神様の生贄にされるところだった姫君と、それを救った騎士。そんなふたりの愛し合う国。…どうだ?」
「素敵!」
そう言うや否や、彼女が僕の腕を引っ張る。相当お気に召したようで安心する傍ら、どうであれ彼女はレディなのだ。外では相応な振る舞いをして貰わなければいけない、とひと言注意しなければと思うものの、箒星のように眩しい笑顔を前にしてしまっては折角の門出なのだ、今日くらいは苦言を呈すのは止めようと咄嗟に思い直した。
我ながら冷徹な男が僅か数週間の間に随分と甘くなってしまったものだと何度目かも分からない溜息が零れたけれど、自ら進んでその扉の向こうへ歩き出そうとする少女を前にしてしまえばささやかな問題だろう。何よりも、自分は彼女の母親役を引き受けたのだ。たまには飛び切り甘やかしてやるのだってそれらしくていいかもしれない、だなんてことをぼんやりと考える。
──彼女の小さな小さな掌が、扉を開ける。重く、擦り切れた音を上げながら開かれた扉の先は、何処までも広がる宙だった。薔薇の香りの漂う宙へ一歩を踏み出す僕たちの背を、彼女の髪と同じ色をしたあの花だけがいつまでもいつまでも見送っていた。
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