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Heretic  作者: るるる
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03──愛を探して、巡る箒星を待って(2)


僕目掛けて勢い良く伸びる触手へ向け、咄嗟に先程投げ捨てた槍を拾っては突き付ける。軟体生物らしい、ぐにゃりとした独特の感触が槍を通じて僕の手へ、そして神経から脳へと伝う。なんとも気味の悪いその感触に、あの男のようにもしこれに掴まって嬲られたらと思うと背筋が凍る。そして恐らくは耐えきれないだろう、と感じた。そこまで考えて思わず手を離す。否、今だって目の前に佇む魔女が彼女だから──短い間とはいえ寝食を共にし、彼女がとても善い人間で、儚い少女で、放ってなどおけないから、こうしてなけなしの勇気とひとかけらの矜持を胸に自らを奮い立たせてはなんとか向かい合っているのだ。もしこれが彼女相手でなければ、きっと僕だって恥や外聞をかなぐり捨てて逃げ出していただろう。今だって出来ることならそうしたい。

けれど、でも。僕を見詰める彼女の全てが辛そうに、そして悲しそうに見えて堪らないのだ。だから決して逃げ出しはしない。彼女の人形のような虚ろで、深い悲しみをたたえた瞳はまるで僕を見る姉の眼差しのようで、嗚呼、今更ながら僕は彼女の中に姉の面影を見ていたのだと漸く気付く。ならば尚更に僕は彼女を見捨てられない。そうやって自分を納得させる理由をあれこれと脳内で並べ立てながら、先程脱ぎ捨てた上着を拾う。懐から短剣を取り出して、触手目掛けて投げつけるとひときわ大きな吸盤の真ん中に刺さった。どうであれ生き物であれば出血を免れない程に深く刺さったにも関わらず、出血は勿論痛みを感じる様子もなければ悶えることもなく、尚も平然と此方へ襲い掛かる触手に舌打ちする。原理や仕組み、正体は分からないままだけれど、こいつを相手にしていてはダメだという点のみは痛い程によく分かった。となるとこれらを使役している彼女をどうにかしなければ。思わず溜息が零れそうになるのを必死に堪える。殺すのは簡単だ。長い時間の中で、何度も何度もそうしてきた。でも、人智を超越したとしか言いようのない相手を殺さずに仕留めるにはどうしたらいい?全く見当がつかなかった。自然と眉間に皺が寄るのを感じる。


「ねえ、どうして逃げるの?どうして抗うの?そんなことをされてしまったら、殺すしかないじゃない…!」

「──僕は、それが貴女の本意ではないことを知っています。本当の貴女は、僕を兄のようだと言って慕って下さった貴女だ。何処の馬の骨とも知れない僕に、優しくして下さった貴女だ。言葉を交わす相手が居ることを、世話をする相手が居ることを喜んでいた貴女だ。…そうでしょう、マリアさん?」

「───────。」


不意に、彼女が言葉を無くす。今まで頑なに人形のような無機質な表情を崩さなかった彼女の顔が、幼さの残るあどけない顔が、幾らかの動揺に僅かながらも崩れる。揺れる。そうして露わになった表情は紛れもなく僕の知る彼女だった。すぐさま俯いてしまったからそれを確認出来たのはほんの一瞬だけだったけれど、充分過ぎる程だった。この状況をどう打破すべきか見当もつかずに眉間に皺を寄せては狼狽えていたけれど、漸く突破口が見えたのだ。得体の知れない何かを従えていても、彼女は彼女だった。恐らく本質はそう変わってはいないのだ。だから僕の言葉に動揺した。一種の確信を得た僕は、畳み掛けるように言葉を続ける。


「それに、僕は痛みが許しだとは思わない。いいや、そんなものは許しではない。長い間、旅をしてきた僕だからこそ胸を張って言える。痛みなく生きている生命などいない。それは貴女の傲りだ。」

「──いいえ。」


ゆらりと、炎が揺れるように彼女がほのかに俯いた顔を上げる。冷たい色をたたえた双眸が僕を真っ直ぐに見詰める。その瞳にはたったひとこと、実に短い言葉の中に込められた以上の軽蔑、侮蔑、失望、嘲笑、憎悪…冷たく暗い水底を覗き込んだ時のような、ありとあらゆる負の感情が込められていた。幼い少女のものとは思えない数々の感情を感じさせるその瞳に、視線に、その内側に孕む狂気に、思わず上着を鷲掴む手に力が籠る。

かつん、かつん、と不気味な程に一定の間隔で冷たい大理石の床を踏み、何処までも広がる銀河を渡る、彼女の黒いパンプスの音が屋敷中に響き渡る。小さな掌をかざしては触手をけん制し、優雅に歩く様は紛れもなく名家の令嬢だった。ほっそりとした指の一本一本が爪先までぴんと伸ばされた様は、宛ら美という概念そのもの。加えてバレリーナを思わせる真っ白なワンピースから覗く華奢な肩、レースとリボンで彩られたデコルテ、ふんわりと広がったスカートからちらりと顔を出す、ドロワーズの黒いリボン。愛らしさの塊の如き少女。多くの人から愛され、また、多くのものを愛すべき為に生まれてきたような少女が一歩、また一歩と近付く度に息を呑む。後ろに下がる。ついさっきそうだったように、背中が壁にぶつかる。けれど今度はその場にへたり込むなんてことはしなかった。けれどその代わりに頭の奥底にある本能が警鐘を鳴らすせいで、指の一本だって自由に動かせやしないのだ。息が詰まる。とても苦しい。陸地だというのに窒息してしまいそうだった。故に今の僕に出来ることは、眼前に迫る自分よりもずっと小さな少女を鋭い眼差しで見詰めることのみ。ただそのひとつだけだった。


「いいえ、それは違う。嗚呼…なんて悪い人なのかしら。いけない人なのかしら。だからこそ、こうなってしまう前に私を殺して欲しくて、そうお願いしたのに。精一杯の勇気を振り絞ったのに!」

「………それでも、僕には貴女を殺す理由がない。仮にあったとしても、殺せませんよ。僕は、優しい笑顔を浮かべることの出来る貴女を知っているから。」

「甘い人。……御免なさいね。でも、今更嘆いたって遅いの。手遅れなのよ。もうすぐ私とお父様はひとつになる。」


それでも、臆病風に吹かれる身体を奮い立たせてなんとか反論を述べる。すると彼女の小さな掌が僕の腕を掴んだ。幼い子供のものとは思えない、確りとした握力に目を見開く。とはいえ、それを振り払うことも、そうして逃げることも、今からだって最早人間ではない彼女に向けて刃を突き付けることも、僕にとっては恐らく何ら造作ない。つまりはそうすべきなのだろう。僕はたった今、目の前で彼女の張り巡らせた蜘蛛の巣に掛かった獲物がどうなるか目にしたばかりなのだから、少しでも抵抗して生き延びたいと願うのが限りある命を持った、正常な生き物の取るべき行動なのだろう。けれどあの触手ならまだしも、僕にたいそう親切にしてくれた彼女を眼前にして、そんなことは出来なかった。彼女の言う通り、僕はなんて甘い人間なんだろうと自分で自分に呆れる。乾いた笑いが零れ落ちる。

彼女の掌が、僕の心臓のあたりを撫でる。僅かに薄い身体が重なる。──そりゃあ、死ぬのは嫌だ。今まで死に場所を求めて旅をしていたも同然だけれど、自然に死ぬのと自分で死ぬのと誰かに殺されるのではやっぱり意味が違う。死という結果は同じだろう。終着点は同じだ。でも、僕はやっぱり違うと思うのだ。そもそもとして、いざこうして誰かに生死を握られるのだって嫌で嫌で堪らない。なのに、彼女の瞳越しに見遣った自分は薄っすらと笑っていた。


「…貴方が悪いのよ。でも、どうか安心なさって。貴方がどんなに悪い人でも、お父様はきっと赦して下さる。だから何度だって死んで下さいな。そして痛みこそが救済であると、その身を以って理解して下さいな。貴方が理解して下さるまで私、何度だって貴方を殺すから。」

「………殺せませんよ。貴女は、そんな人じゃない。かといって、罪人でもない。──マリアさん。貴女はもう、赦しを請う必要なんてないんです。」

「嗚呼、五月蠅い人。まるで犬ね。犬はダメよ。思い切り腹を蹴り上げて、ぐちゃぐちゃになるまで踏みつけて、肉片のひとつだって残したくないくらいに嫌い。本当に嫌いなのよ。思わずそうやって黙らせたくなってしまうくらいに、ね。」


恐ろしいまでの残忍さを携え、僕の心臓を押し潰そうと掌に力を込める彼女の前にそうっと上着の内ポケットに忍ばせていたそれを差し出す。先程から渡そう、渡そうと思いながらも機会を逃し、渡せずにいたそれ。眩い銀の輝きと刻み込まれた精巧な模様、僕の知らない彼女の罪を赦すであろう、彼女の母からの愛の証。シャンデリアから放たれる照明を照り返しながら揺れる、きらりと輝く銀鍵のロザリオ。

訝しげな表情を浮かべたのも一瞬、すぐさまこれがなんなのか、誰の物なのか理解した彼女が目を見開く。酸欠の魚のように小さな口をぱくぱくと開いては閉じ、僕とロザリオを交互に見遣る。恐る恐ると言った様子で僕の胸から手を離した彼女が、そろりとそれに手を伸ばす。天からの尊い贈り物を手にするように、恭しくそれに手を伸ばす。ゆっくりと、まるでガラス細工に触れるように彼女の繊細な細指がロザリオの端、緻密な細工の施された十字の一辺に触れる。小さな掌にそれが収まったのを確かめてから、そっとネックレス部分から手を離す。しゃら、とビースのぶつかる音を奏でながらロザリオが彼女の手にその身を委ねた。呆然と、けれど愛おしそうにロザリオを見詰める彼女は僕の良く知る善良な少女の顔をしていた。


「こ、れ──どうして、あなたが…?」

「それよりもマリアさん、裏を見てください。」

「……裏…?」


まさかここで地下の隠し部屋に入ったなどと口にする程、僕は愚か者ではない。ましてやそれが彼女と、彼女の言う『お父様』の琴線に触れたらと思うと背筋が凍る。故に今は余計なことは口にせず、ただ彼女にひとことそう告げる。すると不審に思いながらも素直にロザリオを裏返した彼女が、再度目を見開いた。零れ落ちそうな程に見開かれた空色の瞳からは宝石のように煌めく雫がひとつ、ふたつと零れ落ちる。それを契機にぼろぼろと、とめどなく彼女の瞳から涙が溢れては真っ白な頬を、地面を、際限なく濡らしていく。


「『親愛なるマリアへ。あなたの母イヴより、愛と祝福を込めて』──この言葉に込められた感情が分からない程、貴女は愚かではないでしょう?」

「…あ、あ………ああ、お母さま…おかあさまぁ、っ──!!」


ロザリオの裏面、確かに刻まれた言葉を声に出す。その途端に、彼女がわんわんと泣き叫んだ。抑え込んでいた悲しみ、苦しみ、罪の意識さえも洗い流すように涙を流す、その小さな身体をそっと抱き締める。狭い背中に腕を回すと、彼女もまた僕に縋り付くように必死になって腕を回して来た。この腕の中に居るのはその小さな躯体の奥底に狂気を孕んだ魔女ではなく、僕を兄のようだと言って慕ってくれた少女だった。僕の世話が出来て嬉しいとはにかんだ少女だった。僕と言葉を交わせることが嬉しいと、幸せそうに笑う少女だった。決して決して、魔女ではない。僕の良く知る、とてもありふれた清廉な少女だった。






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