終章 この世界のすべては、掌の上で
季節がひとつ、巡った。
白花の咲く丘は、いま青く穂を揺らしている。
風が通り抜け、麦の波が太陽にきらめいた。
――戦はなかった。
だが、確かに国は変わった。
王は春の初めに崩御した。
葬儀は静かに行われ、喪の鐘は三日間鳴り続けた。
その間も市場は動き、粉庫手形は滞りなく流れた。
王が死んでも、国は止まらない。
それこそが、ライル・グランの築いた“秩序”だった。
◆
グレン村の小さな丘。
新しい製粉所のそばで、ライルは麦の穂を握っていた。
あの日の焼き印は、いまも腰に下げている。
煤は落ち、白布が巻かれている。
――アメリアの婚礼衣装の切れ端だ。
「……結局、俺は何も築いていないのかもしれないな」
呟くと、後ろから声が返った。
「築いたじゃない。見えない形で。」
アメリアだった。
彼女は白い帽子をかぶり、風に髪を遊ばせている。
ヴァーミリオン家の当主となり、王都と辺境をつなぐ“白花同盟”の代表でもあった。
けれど彼女の笑みは、昔のままだ。
「ねえ、ライル。王都の子どもたち、パンを“白幕パン”って呼ぶのよ」
「皮肉だな。黒幕の策で焼いたパンを、白幕の名で呼ぶとは。」
「いいじゃない。黒と白、両方そろって初めて模様になるんだから。」
アメリアは草の上に腰を下ろし、空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
あの日、王城で光が差したときと同じ空。
彼女は目を細めて言った。
「あなたの“策”は、まだ終わってないでしょう?」
「策に終わりはない。ただ、人が歩き続ける限り、形を変えるだけだ。」
「じゃあ、次は何を?」
「次は――静かに暮らす。」
アメリアが笑う。「それ、あなたが一番苦手なことね。」
「そうかもしれない。」
ライルは掌を開いた。
麦の穂が一本、そこに落ちる。
小さな種が、風に乗って指先を離れた。
「でも、“掌の上”ってのは案外広いんだ。
世界を支配するためじゃない。
守るためなら、これくらいの広さで十分だ。」
アメリアはその手を見つめ、静かに言った。
「ねえ、ライル。あなたの掌の中に、私は入ってる?」
「ずっと前から。」
その答えに、アメリアは微笑み、目を閉じた。
風が頬を撫で、麦の波がざわめく。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
誰も知らないだろう。
この平和が、かつて“黒幕”と呼ばれた一人の男の策によって保たれていることを。
◆
夕暮れ。
製粉所の煙突から、白い煙が細く立ちのぼる。
それは空に溶け、夜へと変わる。
ライルはその煙を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「父上……あなたの策も、ようやく完成しましたよ。」
風が答えるように吹いた。
煙はほどけ、星がひとつ、光った。
◆
夜、村の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
アメリアは窓辺に立ち、ライルが畑を歩くのを見ていた。
彼はいつもと同じように、明日の風向きを確かめ、
土を一握りし、空を仰ぐ。
彼の世界は、広くもなく、狭くもない。
それでも、確かに動いている。
すべては――その掌の上で。
――Fin.




