第四話 追放された悪役令嬢
――王都、ヴァーミリオン邸・西棟。
朝の冷気は大理石の床を這い、鏡の中の自分を薄く震わせた。
アメリア・ヴァーミリオンは、鏡台の引き出しから白い手袋をひとつ取り出す。指先に残る絹の冷たさは、あの日の舞踏会と同じ。
婚約破棄を宣言した夜、彼女は生まれて初めて嘘をついた。家を守るために。兄を、領民を、そして――彼を守るために。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
侍女頭が低く告げる。
アメリアは頷き、身を翻した。クローゼットの奥、白の婚礼衣装はすでにここにはない。昨日、工房へ戻した。
戻した先は王都ではない。“辺境”だ。
(白花祭――)
それは王都の噂だった。辺境グレン村で、白いパンを掲げる祭が行われる。王都の宗務庁は関知せず、だが徴税局は“後援”を表明。貴族の婦人たちは「田舎くさい」と笑ったが、商会は笑わなかった。動く者たちがいる。動かしている者がいる。
(あなた、でしょう? ライル)
胸の奥で、彼の名が微かに灯る。
アメリアは唇を固く結び、馬車へ乗り込んだ。
◆
王都から北西へ三日の道程。
四日目の朝、霧の切れ目に“白”が浮かび上がった。
広場いっぱいに、白いものが揺れている。
薄い花弁を乾かした飾り、白布を張った屋台、白い粉で真っ白に焼かれた小さな冠のようなパン。
そして、人の笑顔。
アメリアはその光景を目にした途端、呼吸を忘れた。
「……きれい」
侍女のメイが隣で目を細める。「お嬢様、足元を」
石畳ではない。ならされた土の道。だが泥はない。砂利の選別、排水の溝、臨時の板――誰かが“段取り”を敷いた跡。
屋台の端で、パンを受け取る兵の姿もある。彼らの槍は穂先を布で包み、子どもがぶつかっても怪我をしないように工夫されていた。
(兵も、祭の“客”にする……)
アメリアは心の中で呟く。
――彼のやり口だ。戦を避け、腹と段取りで勝つ。
彼女は肩越しに侍女へ囁いた。「メイ、案内を。あなたの“友人”に」
メイが小さく笑い、雑踏の中へと進む。
白い切れ目の入ったパンが渡される。切れ目の数は四つ――メイが視線で示す。“四”は「安全」。
彼女たちは人波を抜け、粉の香り漂う小屋の前で足を止めた。
「お嬢様」
メイが扉を叩く。
返事はすぐにあった。穏やかで、よく通る低い声。
「入りなさい」
扉が開く。
木と鉄の匂い。窓から差す光に、粉の白が舞う。
その奥に、彼がいた。
粗末なエプロン、袖は肘まで捲られ、指には焼き印の煤。
王都の参謀ではない。辺境の職人。だが、目は変わらない。盤上を読む鋭さは、その瞳の奥にそのまま在る。
「――アメリア」
ライル・グランは名を呼び、そして一拍置いて微笑んだ。
彼はいつも、答えを急がない。相手が自分の言葉に追いつくまで待つ。
アメリアの胸に、あの夜の記憶が刺す。婚約破棄を言い渡した時、彼はほんのわずかに、同じ間を置いてから笑った。
それは、許しの間だった。
「ご機嫌よう、ライル。……お祭り、見事ね」
「白は汚れが目立つ。だからこそ、人は美しくしようとする」
彼の言葉に、アメリアも笑った。
そして、笑顔を畳み、姿勢を正す。
「私は監視役よ。王都の“後援”の名の下に、祭に不正がないかを見るための。……けれど私は同時に、客でもあるわ」
「客ならば、パンを」
ライルは籠から“白花”を一つ取り、ナイフで切り分けた。切れ目は二つ――“注意”。
侍女のメイが微かに眉を動かす。アメリアは気づかないふりをしてパンを受け取った。
「甘いわね。蜂蜜?」
「聖蜜だ。向こうの谷から。……税は払っている」
「“表向きは”、でしょう?」
「君は相変わらず鋭い」
言葉遊びの仮面に隠れるように、二人は視線を交わした。
言えない言葉がある。二人にしか通じない符丁がある。
だからこそ、仮面が必要だった。
◆
「それで、王都は何を望む?」
ライルは率直に問う。
アメリアは眉を下げ、仕立て直した白い外套を指先で摘んだ。
「“秩序”よ。王都は秩序を求める。徴税も商売も信仰も、王都の枠の中で回り続ける秩序を。……でもここは、枠の外にある」
「枠の外に“道”を敷くのが、軍師の仕事だ」
「ええ、そうね」
アメリアはふと口元を緩めた。「あなたの“スローライフ”は、相変わらず静かで忙しいのね」
「静かに忙しいのが好きでね」
「私も」
二人の間に、ひとしずくの温度が落ちた。
それはたぶん、恋と呼ばれるものの予感ではない。
もっと具体的で、もっと脆く、もっと強い。
――互いの“役”を守るための共犯関係の温度。
そこへ、外が騒がしくなる。
笛の音が一度途切れ、代わりに怒号が割り込んだ。
ティナが駆け込む。「ライル様! “灰色旗”が――!」
「徴税の臨検だ」
ライルは短く言い、焼き印と帳面を掴んで立ち上がる。
アメリアも続いた。外に出ると、広場の中央に灰色の旗が立ち、兵が列を作っている。
先頭に、鋭い目の若い隊長――先日、ライルに噛みついた男。
彼の横に、あの灰衣の徴税官グレイ。
さらに、その後ろに黒外套の影。金糸の刺繍。
「ディラン……」
アメリアの喉が、ほとんど音にならない声を漏らす。
兄は彼女を見ない。視線はまっすぐ、祭の屋台へ向けられている。
「白花祭の出店に対し、臨時検査を行う。蜂蜜、粉、塩、いずれも王都の規格に照らして調べる。……異議は?」
沈黙。ざわめき。
ライルは一歩前に出る。「異議はない。ただし、検査は“食前”に。祭の祈りが終わる前に手を触れれば、冒涜になる」
若い隊長が鼻で笑う。「詭弁だ」
グレイが低く言う。「王都布告にも“祭礼の場を乱すことなきよう”の条あり。詭弁ではない」
隊長が舌打ちし、ディランが右手を上げて制した。
「祈りの刻まで三十刻ある。その間に“帳面の確認”を行う」
「帳面なら、こちらに」
ライルが差し出したのは帳面――ではない。
焼き印、紐、袋の縫い目、パンの切れ目。
それらの“現物”で構成された、動く帳面だ。
ディランが眉をわずかに上げる。「紙は?」
「紙は燃える。食える帳面のほうが、飢えには役立つ」
アメリアは思わず微笑みかけ、すぐに表情を正す。
グレイが一つ一つ手に取り、頷きを積み重ねていく。
若い隊長は苛立ち、ついに声を荒げた。
「偽装だ! 印も紐も好きに作れる!」
ライルは穏やかに首を振った。「印も紐も真似できる。だが“信用”は真似できない。――これが粉庫手形だ」
彼は籠の底から、薄い木札を取り出した。
木札には焼き印、紐の結び、そして微細な“蜂蜜の結晶”が埋め込まれている。
結晶は温度で形を変え、指の温もりで痕跡が残る。
偽造しようとすれば、触れた痕でわかる。
「……くだらん手品だ」
隊長が吐き捨てた時、群衆の向こうで甲高い悲鳴が上がった。
屋台の一つが傾ぎ、樽が転がる。蜂蜜が地面にこぼれ、子どもが足を取られて尻もちをついた。
兵が慌てて駆け寄り、誰かが「盗賊だ!」と叫ぶ。
たしかに、外套の男が混乱に紛れて袋を攫っていた。
隊長が槍を構え、突進する。
その刃先が、転んだ子どもの背に向かう――。
「やめて!」
アメリアは思わず叫び、身を投げた。
白い外套が風に広がり、彼女は子どもを抱き起こす。
槍の穂先が外套の裾を裂き、布が白い羽のように散った。
瞬間、別の音が割り込む。
短い笛の三連――“鳥の網”の合図。
屋台の裏、窯の陰、粉倉の脇。
あらゆる場所から、村の男たちが無言で動き出した。
逃げる外套の男の前に網が落ち、足が絡まる。
別の方向からは、蜂の箱が開けられ、煙が流される。蜂は煙に従い、ゆっくりと外套の男の周りを回る。
誰も刺さない。刺されないように、蜂の“帰巣”の煙が選ばれている。
若い隊長が目を剥く。「な――」
「ここは“祭”だ。血を流さず、腹を満たし、段取りで片を付ける」
ライルの声は低く、よく通る。
彼は外套の男に近づくと、網をゆっくり外し、手に“石運び”のパンを握らせた。「食え」
男はおそるおそるかじり、涙をこぼした。
兵の何人かが、槍を下げる。
グレイだけが、黙って頷いた。
ディランはしばらく沈黙し、やがて言った。
「……臨検は“祈りの後”にする。混乱の責は、王都が取る」
若い隊長が抗議しかける。
ディランは初めてアメリアを見た。
妹の外套が裂けているのを見て、ほんの少しだけ目が揺れた。
「……アメリア。怪我は?」
「ないわ」
彼女は立ち上がり、土のついた手袋を脱いだ。
手袋の下の指先には、絹ではない固さが残っている。
――この指で、彼女は“悪役”を演じてきた。
だが今、その役を少しだけ置いた。
「ディラン兄様。王都は“秩序”を求めるのよね。ならば見て。ここにある秩序を」
彼女は周囲を示した。
白いパン、蜂の箱、子ども、兵、商人、徴税官。
誰も血を流さず、誰も空腹のままではない。
そして、その中心に立つ男。
「……秩序だと?」
若い隊長が唾を吐くように呟く。
アメリアは凛とした声で答えた。
「ええ。“段取りで人が助かる秩序”。王都にないものよ」
沈黙を切ったのは、笛だった。祈りの刻を告げる柔らかな音。
人々は静かに手を合わせ、白いパンを掲げる。
ライルも帽子を取り、短く目を伏せた。
アメリアは隣に並び、同じように目を閉じた。
祈りは短い。だが、確かな重みがあった。
◆
祈りの後、臨検は淡々と行われた。
帳面は“食える”形で検められ、焼き印と紐はひとつずつ意味を照らされ、蜂蜜は“供物”として扱われた。
グレイは最後に判を押し、静かに宣言した。
「白花祭――王都“後援”のもと、適正」
広場から安堵の吐息が上がる。
若い隊長は納得いかぬ顔のままだったが、ディランは彼の袖を引いた。
彼は歩み寄り、低く言う。
「ライル。――お前は“黒幕”の名を自分に与えた。だが今見たのは、“白幕”だ」
「幕は色で役を変える」
「ならば、幕の裏は?」
「裏には、畑がある」
ディランの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。それは少年の頃、アメリアだけが知っている顔だった。
彼は振り返り、妹を一瞥する。
その目に「しばらくは任せる」という言葉が宿り、同時に「常に見ている」という警告が重なっている。
兄は王都へ戻る。だが、糸は切らない。
黒外套が遠ざかり、灰色の旗が降ろされる。
夕陽が白い粉を淡く染めた。
◆
夜。
窯の火が落ちる頃、アメリアはライルの作業小屋を訪れた。
彼は焼き印を磨いていた。羽根の角度が少し変わっている。
あの日と同じだ。彼はいつでも“次”の角度を考えている。
「ありがとう。……あの子を、助けてくれて」
「君が先だ。俺は笛を吹いただけだ」
「笛を吹く人を、人は“指揮者”って呼ぶのよ」
アメリアは笑い、そして真顔になる。
「ライル。私は王都の人間。監視役でもある。だから問うわ。――あなたは、この祭で何を“運ぶ”の?」
ライルは少しだけ考え、真っ直ぐに答えた。
「明日を」
その言葉は、驚くほど軽く、重かった。
アメリアは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「……なら、私も運ぶわ。役を、枠の外へ」
彼女は懐から小さな包みを取り出す。
白い刺繍の端布。婚礼衣装から切り取った縁だ。
ライルはそれを受け取り、焼き印の柄に巻きつけた。
白が黒に絡み、静かに色を変える。
「白幕に、黒の縫い目。――悪くない」
「ええ。悪くないわ」
窓の外で、白花祭の灯がまたたく。
人の声、笑い、笛。
アメリアは小さく祈り、ライルは次の段取りを頭の中で並べ直した。
盤上に、白い道が一本増える。
王都と辺境、監視と救済、悪役と黒幕。
そのすべてを結ぶ道だ。
「さあ、明日も忙しくなる」
「静かに、ね」
二人は同時に笑い、そしてそれぞれの役へ戻った。
白い夜は深まり、黒い影は薄くなる。
それはたぶん、正しい順序だった。
第4話・了。




