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辺境スローライフ満喫中の俺、実は悪役令嬢の婚約破棄すら計算済みの黒幕でした  作者: 妙原奇天


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第二話 辺境での新生活

 日の出より少し早く、村の空に薄い霧がかかる。

 俺は丘から降り、粉にまみれた製粉小屋へ向かった。古い水車は夜のあいだも回り続け、軋んだ音とともにわずかな小麦を挽いている。流量は十分、歯車の噛み合わせも許容範囲。だが出力が伸びない――原因は、水路の落差とシャフト角のロスだ。


「ここを五度だけ切り下げて、羽根板を二枚追加する。軸受けは麻紐じゃなくて、蜜蝋を染み込ませた革で巻け」


 居合わせた村の若い衆が目を丸くした。


「五度だけ……そんな些細な違いで?」


「些細な違いの積み重ねで、戦は決まる」


 俺は笑い、設計用の黒炭を取った。水路の上流に小さな越流堰を入れる図を描く。落差が増えれば、水車はゆっくりでも重たい石臼を回せる。回転速度を求めない代わりに、粘り強いトルクを取る。パン生地のように、じわじわと。


 午前、改修が終わると、臼はぐうん、と低く唸って回りはじめた。粉塵が陽に舞い、ティナが歓声を上げた。


「すごい……! 昨日の倍は挽けてます!」


「倍が目標じゃない。三日で三倍にする」


「三倍!?」


「今日から粉は“重量”ではなく“ふるい通過率”で取引する。粗挽き・並・上白。袋に刻印を押す。形が整えば、隣村にも卸せる」


 俺は焼き印の原版を取り出した。刻まれているのは風車の意匠――ただし羽根の本数と角度が、ある規則で変化する。


 ティナが首を傾げる。「この違い、意味があるのですか?」


「ある。外から見れば等級印だが、内実は“暗号”だ。刻印の組み合わせで誰がいつ粉を運んだか、荷姿、経路、数量、全部が分かる。街道の検問で記録が奪われても、読み解けるのは俺と……信頼した数人だけだ」


 戦場で学んだことがある。剣より先に、帳面が折れる。だから帳面は散らしておく。刻印、紐の結び目、袋の縫い針目、すべてが符丁になる。


「符丁はパンにも使える。今日から村のパンは三種。日常用の“薄月”、旅人用の“石運び”、祝い用の“白花”。形と切れ目の数で、配送先と危険度を知らせる。万一、道で盗賊に囲まれても、こちらが先に状況を知れるように」


「パンで……合図?」


「飢えは戦に勝る刃物だ。刃物は見せずに持て」


 ティナは小さく「はい」と返事をし、焼き場へ駆けていった。窯から立ちのぼる香りは、村人の警戒心を溶かす。甘く、温かいものは正義だ。俺にとっても同じ――戦の理論を隠す良い煙幕になる。



 昼。

 川辺の胡桃の木陰で、俺は簡易の机を広げた。板に打った釘の間に糸を張り、村の資材と人手を点と線で可視化する。やがて糸の網は、王都へ延びる街道を避け、大きな弧を描いた。


 弧の先には、三つの点――“塩”“鉄”“蜂蜜”。

 スローライフが豊かに見えるための三種の調味料。戦の裏打ちをする、三種の戦略資源だ。


 塩は保存、鉄は道具、蜂蜜は栄養と薬の媒介。

 どれも王都の商会が握り、辺境には高値でしか回ってこない。だから、迂回する。王都を中心とした“蜘蛛の巣”から逃れるには、もう一枚、上に“鳥の網”を張る必要がある。


 鳥の網――渡り鳥の飛ぶ道筋に倣って、街道ではなく谷と尾根を繋ぐ。見た目の距離は遠回りでも、検問がないぶん、時間も安全も得られる。


「……間に合うか」


 呟いたところへ、荷馬車が砂をあげて近づいた。

 小柄な男が、陽気に笑って飛び降りる。


「おお、噂の“辺境の学者様”だな。ホーク商会のホブだ。塩を“重さ”じゃなく“効き目”で売りたいって変わり者。合ってるか?」


「効き目で、ね。塩は料理のためだけにあるわけじゃない。傷口、魚の保存、家畜の飼料。用途ごとに純度を変えれば、無駄が減る。結果、安くできる」


「はは、やっぱり変わり者だ!」


 俺は笑い返し、積み荷に視線を走らせた。袋の縫い目は粗い。つまり再封が容易。商会としては“割り増し”を狙うやり方だ。だがホブの目は笑っていても、手は落ち着きなく袋の口に触れている――つまり損する商売を押し付けられている。


「ホブ。袋の口を“下に”して積め。次からは帆布を一枚、荷台に敷く。袋が滑れば、塩は固まらない。固まらない塩は、量りやすい」


「……おいおい、学者様。商売まで口出すのか」


「口だけじゃない。今日からこの村で“塩の等級印”を導入する。粗塩、晒塩、上白。印は俺が管理する。印の分だけ、次の仕入れで“鉄釘”を安く卸せ。釘は道を作る」


 ホブは鼻を鳴らし、しばらく考えてから頷いた。


「いいだろう。俺は得をしたいし、損をしたくない。だが“王都の目”は怖い。検問に見つかったら?」


「検問は“同じ日同じ場所に長くいられない”。賄賂が必要だからだ。だから彼らは短気だ。短気な相手には、遠回りをぶつける」


 俺は鳥網の地図をくるりと回し、北の谷筋に印を打つ。


「三日後、ここで“蜂蜜”を受け取る。支払いは粉、一部は“紙”で渡す」


「紙?」


「粉庫手形――粉の倉の預かり証だ。袋の焼き印と紐の結び目が、裏書きになる。王都の金貨は王の顔が死ねば紙切れだが、腹が減らない限り粉は紙切れにならない」


「……面白ぇ。腹は正直だ」


 俺たちは握手を交わした。

 商人は臆病で強欲で、同時に賢い。それは王国の将軍より信頼できる性質だ。腹の虫は嘘をつけない。



 夕暮れ。

 村の広場で、男たちは釘を打ち、女たちは粉をふるい、子どもたちは蜂を追いかけた。焼き上がった“薄月”が籠に並び、俺は一本一本、切れ目を確認する。


 そこへ、馴染みの顔――老猟師のグラントが背を丸めてやって来た。


「ライル。西の道に“灰色の旗”が立った。徴税官だ。しかも兵を連れている」


 灰色は暫定措置の色。一時徴発、あるいは臨時取り締まり。王都が辺境の動きを嗅ぎつけたか、あるいは――


「“軍を食わせる粉”が王都に回らなくなった」


 俺の独り言に、グラントがうなずく。


「鼻の利く狼は、まず匂いから吠える」


「吠えるなら、こちらは“木霊”で返すだけだ」


 俺は窯の脇に置いていた麻袋を持ち上げた。“石運び”のパンが詰まっている。固く、日持ちするが、芯は柔らかい。盗賊も兵も、空腹なら買う。


「徴税官の幕舎まで歩こう。値段を聞かれたら“王都価格の半分”と言え。兵は驚くだろう。だが“今日の分だけ”だ。明日は倍になる」


「倍?」


「兵の腹は今日を食う。明日のことは考えない。今日、彼らの胃袋を握る。明日、彼らの財布を握る。三日目には“道順”を握る」


 グラントは口の端を上げた。「相変わらず、黒い」


「黒いのはパンの焼き色だけだと信じてくれ」


 俺は冗談めかし、麻袋を肩に担いだ。



 徴税官の幕舎は、広場の外れに立っていた。軍馬の鼻息、槍の穂先、革鎧のこすれる音。

 その中心に、灰色の羽織をまとった男がいる。痩せて、目が細い。数字を好み、血を避けるタイプ――嫌いではない。


「辺境グレン村の代表者は?」


 俺が半歩、前へ出た。


「ライル・グランです。粉とパンの管理をしています。本日は兵の皆様のために、日持ちする“石運び”を」


 灰衣の男はパンを手に取り、重さを確かめ、匂いを嗅いだ。

 値切る前の儀式。俺は値段を“王都の半値”と告げ、さらに一歩、踏み込む。


「支払いは“銅貨”でも“粉庫手形”でも構いません。軍用については、明日以降、臨時の配送路を整えることができます。検問の負担を軽くします」


 灰衣の男の目が細くなる。俺はさらに畳みかけた。


「ただし、今日の分は“現金”で。明日からは“手形”を。手形は商会で換金できます。証印はこちら――」


 俺は焼き印と紐を取り出した。灰衣の男が紐の結び目を見て、わずかに眉を上げる。

 この結びは“盗難の跡が残りやすい”結び。手癖の悪い兵に嫌われ、手癖の悪い徴税官には好まれる。


「君は、王都の商慣習をよくご存じのようだ」


「王都では、魚より帳面が泳ぎますから」


 薄く笑いを交わしたところで、横合いから声が飛んだ。


「待て! その名――ライル・グランと言ったな」


 鎧の胸板に獅子を彫った若い隊長が、声を荒げる。

 こいつは数字ではなく血を好む目だ。俺が最も退屈する種類。


「王都布告に名がある。元参謀、王命に背き、国家機密を持ち出した罪。身柄の拘束、もしくは――」


「もしくは?」


「協力の約定。辺境における兵糧供出と、配送路の提供。対価は……“二倍の税免除”」


 幕舎の空気がねじれた。兵の目に、腹と財布の計算が浮かんでいる。

 灰衣の男は沈黙し、若い隊長は肩で息をしている。

 俺は一拍だけ考え、パンの籠から一本を取り出して、半分に割った。ふわりと湯気が上がる。芯の柔らかさが、刃物のように空気を切り裂いた。


「隊長。あなたの部下は、今日を守り、明日も歩く必要がある。腹が空けば、槍は落ちる。道が乱れれば、馬は転ぶ。俺のパンは今日を満たし、俺の道は明日を繋ぐ」


「詭弁だ」


「では数字で。今日の兵糧を王都から運べば、輸送費は銅貨三十、途中で二割が湿って減耗、残りの一割は盗まれる。こちらからなら、銅貨十五。減耗は一割未満。盗賊には“パン”で買収する」


 灰衣の男が咳払いをし、若い隊長の前に出た。


「……隊長殿。文言通りなら、これは“協力の約定”の範疇に入る。拘束は“協力を拒めば”の話だ」


「だがこいつは元参謀だぞ。裏がある」


「裏があれば、表が整う」


 灰衣の男――徴税官は俺に向き直り、静かに問う。


「見返りは?」


「三つ。兵の通行は“川沿い”を避けて尾根道を使うこと。検問は“市場のある日”に合わせず、ずらすこと。“粉庫手形”を王都の補給所で“銅貨”と同等に扱うこと」


「最後は重い」


「重いほど、軽くなる。腹は正直だ」


 沈黙ののち、徴税官は頷いた。


「……明朝、詳細を詰めよう。今夜は兵にパンを配る。代金は“現金”で支払う」


 俺は軽く頭を下げた。若い隊長は不満そうに鼻を鳴らしたが、パンの匂いがそれ以上の言葉を奪った。

 食べ物は、刃を鈍らせる。俺はその切れ味まで計算に入れている。



 夜。

 窯の火が落ち、村に静けさが戻る。

 俺は作業小屋の灯の下、羽根の角度を微調整した焼き印を磨いた。羽根の本数は“配送の危険度”、角度は“検問の配置”、柄の印は“商会の信用度”。

 暗号は増えるほど脆くなる。単純だが組み合わせが豊富――それが良い暗号だ。


 扉が小さく叩かれた。


「ライル様……お客です」


 ティナが顔を覗かせ、控えめに身を引いた。その背後から、粗末な外套の人物が一人、滑るように入ってくる。

 フードを外した唇が、ひび割れている。だが目は澄んで、まっすぐだった。


「お久しぶりです、ライル様。王都の友より“白花”を」


 “白花”。祝い用の白いパンの名。

 俺は無言で頷き、机の引き出しから同名の符丁が書かれた鍵を出す。

 彼女――王都で働く下女のメイは、布包みを解いた。中からは薄い羊皮紙が四枚。外見は市場の出店許可証、裏は細い細い書き込み。

 王都の“今”が、黒いインクで無駄なく連なっていた。


「王都の食肉商たちが、市場日を“木曜から火曜へ”ずらしました。検問と狩日が重なり、田舎の搬入が滞っています。……それから」


 メイは一瞬だけ言葉を飲み込み、俺の目を見た。


「アメリア様が、“婚礼衣装”を戻されました」


 手の中の焼き印が、音も立てず重さを変える。

 “戻す”――支払いを断ち、工房との契約を解消した。

 婚約破棄の“演技”に必要だった衣装は、もういらない。庇護の鎧を脱ぐということだ。彼女は“悪役”から降りるつもりはない。むしろ、自分の役目を、本当に引き受けるつもりなのだ。


 俺は視線をメイから羊皮紙へ戻し、さらさらと赤い炭で追記した。市場日の移動――検問の迂回――兵の胃袋――商会の帳面――そして。


「……鳥の網を、もう一枚張る」


「鳥の、網?」


「渡り鳥は、空だけを飛ばない。ときに川面すれすれ、ときに森の中。彼らを“迎える枝”を増やす。王都の外へ“枝”を出しておく。衣装工房、染色屋、刺繍師、仕立ての針子。『戻された婚礼衣装』の行き先は、王都の塵箱じゃない。辺境の“白花祭”だ」


 メイの目が見開かれる。「辺境に、祭りを?」


「“白花”はここで生まれた言葉だ。祝いのパン。……衣装の白と、パンの白を結べば、王都の噂がこちらへ流れる。“悪役令嬢は衣装を捨て、辺境に白を贈った”――そう語らせる」


「アメリア様が、こちらに?」


「まだ呼ばない。彼女が“自分で歩いて”来られるように、道を敷くだけだ」


 俺は焼き印を火にかざし、余分な煤を落とした。

 炎の向こうで、メイの表情が揺れる。


「……ライル様」


「何だ」


「王都の布告に、あなたのお名前が載りました。“協力すれば免罪、拒めば反逆”」


「知っている。今日、灰衣の男が持ってきた」


「怖くは、ないのですか」


 俺は少しだけ考え、首を横に振った。


「怖いのは、役割を間違えることだ。王都は“王”という役を演じる。俺は“黒幕”という役を演じる。だが本当の役は、もっと手触りのあるものだ。子が眠り、明日も食えること。畑が実り、兵が馬から落ちないこと。……役ではなく“役立つ”こと」


 メイは、ふっと笑った。

 俺も笑い、羊皮紙を束ねて革紐で括った。紐の結び目は、今日から新しい型だ。

 扉の外で、遠く犬が吠えた。風向きが変わる。


「明朝、塩の“晒”を三袋、鉄釘を百。蜂蜜を小瓶で二十。――鳥の枝は、そこからだ」


 メイが頷き、外套をかぶる。

 そのとき、外から荒々しい叩音。ティナの叫ぶ声。


「ライル様! “王都の封蝋”です! 急ぎの使い!」


 俺は焼き印を火から外し、扉へ歩いた。

 差し出された書簡の封蝋には、見覚えの紋――ヴァーミリオン家。

 だが、その表書きの筆跡は、アメリアではない。固く、軍人の筆。


 封を切ると、短い文が目に飛び込んできた。


『辺境にて“白花祭”を主催せよ。王都の名の下に。

 ――執行役 ディラン・ヴァーミリオン』


 顔を上げると、メイが息を呑んでいた。

 俺は手紙を机に置き、静かに笑う。


「……良い。王都が“表”に名を出した。なら、こちらは“裏”で整えるだけだ」


 白いパンの切れ目が、灯に細く光る。

 戦は、刃でなく、段取りで決まる。

 そして段取りは、毎日の暮らしの中で育つ。


 明日、村は祭りの支度に取り掛かる。塩は晒され、釘は道に降り、蜂蜜は子の舌に触れる。

 兵の胃袋は満ち、検問は空を掴み、噂は風に乗る。

 そして――遠い都で、衣装を返した一人の令嬢が、白を手繰ってこちらへ歩き出す。


 俺は焼き印を握り直し、鋼のように静かな心で、次の一手を思い描いた。


「盤上に、花を咲かせよう」


第2話ここまで。

次回は第3話「密使と密約」

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