第一話 婚約破棄の裏側で
王都の大広間に、氷のような静寂が落ちていた。
磨き上げられた白亜の床には、絵画のように整列した貴族たち。
その中心で、俺は微動だにせず、彼女の言葉を待っていた。
「ライル・グラン。あなたとの婚約を破棄します」
涼やかに響いた声は、王女に次ぐ高貴な存在――
“悪役令嬢”と呼ばれる侯爵令嬢アメリア・ヴァーミリオンのものだった。
会場がざわめく。
だが、俺は少しも驚かない。
――ああ、予定通りだ。
この婚約破棄は、彼女の独断ではない。
王国上層部が仕掛けた権力争いの一手。
俺が“邪魔”になったから切り捨てただけの話。
俺はその流れを、三ヶ月前には完全に読んでいた。
むしろ、それを「起こさせるように」仕組んでいたのだ。
なぜなら――追放こそ、俺の解放であり、次の戦略の始まりだったから。
アメリアの表情は、完璧な勝者の微笑みだった。
だが、その笑顔の裏にある焦燥と不安を、俺だけが見抜いていた。
彼女は優しい。
そして、弱い。
この場で「悪役」を演じなければ、彼女の家が潰されると知っている。
だからこそ俺は、敢えて敗者の仮面を被る。
「……そうか。ならば、君の望むままに」
俺は淡々と答え、頭を垂れた。
嘲笑する貴族たちを横目に、扉を押し開けて去る。
大広間の外に出た瞬間、胸の内に張りつめていた糸が、静かに緩んだ。
――これで、すべてが盤上に乗った。
◆
追放から七日後。
俺は辺境の地、グレン村へとたどり着いた。
王都から遠く離れた、風と土の匂いしかしない田舎だ。
ここには、情報も権力も届かない。
だが、だからこそ、再構築にふさわしい。
村人たちは最初、俺を「ただの流れ者」として見ていた。
けれど数日も経たないうちに、彼らの目の色は変わる。
古びた製粉機を修理し、畑の配置を最適化し、
日照と風の流れを読んで灌漑路を引く。
たったそれだけで、収穫量は二倍になった。
「ライルさん、あんた頭いいんだなあ!」
「ただの学者かと思えば、鍛冶もできるのか!」
彼らの笑顔を見るたびに、俺は微笑む。
――そう、俺は戦場でも経済でも、盤上を読むのが得意だ。
王国参謀時代、千を超える戦略を立案した。
だが、今はただ畑を眺め、焼きたてのパンをかじる。
この静けさこそ、俺が望んでいた“休戦”だった。
……表向きは、な。
◆
夜。
灯火の下、机に広げた羊皮紙には、王国地図が描かれている。
赤い印は商会、青い印は傭兵団、黒い線は街道。
俺の手で結ばれた新たな流通網が、徐々に王都を迂回して形成されていた。
辺境で作物を育てる? いや、これは兵糧だ。
交易を支える? いや、補給線だ。
村人の笑顔の裏で、俺は戦略を育てている。
王国の貴族たちが、俺を“失脚した男”と思い込む間に。
やがてその補給線が国の心臓を締め上げることなど、
誰ひとり気づくまい。
◆
「……ライル様、手紙が」
扉の向こうから、村娘のティナが差し出した封筒を受け取る。
見覚えのある紋章――ヴァーミリオン家の紋だ。
封を切ると、短い文が目に入った。
『どうか、生きていてください』
震えるような文字。
あの“婚約破棄”の裏で泣いていた彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
「……心配はいらない、アメリア」
俺はそっと灯を消した。
――婚約破棄すら、計算済みだ。
次に王国を支配するのは、王でも貴族でもない。
盤上の影に潜む、ただの“辺境の男”だ。
◆
翌朝。
東の空が淡く染まる頃、俺は村の丘に立っていた。
吹き抜ける風の先には、まだ見ぬ戦場。
だが今回は、血ではなく“策”で勝つ。
「さて――今日も畑を耕すか」
手に取った鍬の刃先に、朝日が反射した。
その光はまるで、次の戦略の号令のようだった。
第1話完。
(次回「第二話 辺境での新生活」――表と裏の顔が本格的に動き始める)




