第9話「種の由来」
金属のシャッターが上がるときの低い唸りが、朝の湿り気を少しだけ震わせる。風は冷たくないが、匂いを連れていない。通りに出ると、昨夜のネオンの名残が店のガラスに薄く貼りつき、ゆっくりと消える。東雲の店は、開店の一時間前。ドアの内側で、灯が脚立の上にいて、ガラス拭き用の布を絞っている。布から落ちる水滴の形が、今日の気温を教えてくれる。
「おはよう。」
「おはよう。」
声は短く、少しだけ硬い。距離を置くと決めたあの夜から、ぼくらは温室に行っていない。合図の間隔だけが、胸の中で乾いたまま続いている。短く、短く、長く――点滅はさせない。灯は脚立を降り、手の甲で額の汗をなぞる。薄い湿り気に、微かな葉の匂いが紛れる。
店の奥から、東雲が出てくる。黒いエプロンに白い糸くずが一本ついている。指先は朝から土の温度を持っているらしく、その温度が空気に移る。
「早いわね、二人とも。座って。お茶、いれる。」
テーブルは木の節が浮き出ていて、そこに置かれたコップの底がわずかに揺れる。湯の匂いは何の主張もしない。灯はエプロンのポケットから、小さな紙包みを取り出して、東雲に渡す。知っている包み。細い糸で二重に結んであり、角は少し柔らかくなっている。ぼくらの温室の始まりにいたもの。
「種、返す時が来たらって言われてたけど……まだ返さないよ。ただ、由来を、凛に。」
東雲は包みを掌に置いたまま、しばらく黙る。黙ることが、説明の準備みたいにゆっくり広がる。やがて、結び目をほどかずに言う。
「これね、前にここで働いてた人から預かったの。区立の温室で世話をしていた、年配の女性。手が、すごく優しかった。」
コップの湯気が少しだけ屈折して見える。灯は背筋を伸ばす。ぼくは肘をテーブルから離す。
「事故があった。温室の補修中に、足場が滑って。直接の責任が誰にあるかなんて、後からは決まらない。けれど、誰かは責任を負わなきゃいけない。そうやって、責任が連鎖して、人が変わって、ルールが増えた。」
事故。東雲の声は、土の温度を少し失って平らになる。ぼくは赤い表面の渡り板の質感を思い出す。雨上がりの夜に、塗料がわずかに柔らかくなっていた時の、靴の底の吸い付き。そこを渡る前後で、小さな代償が確かに生まれた夜のこと。東雲は続ける。
「その人、病院に行く直前に、これを置いていったの。『ここに置いといて。もし、また誰かが庭を始めるなら渡して』って。種包の外側には何も書かれていないけれど、指の匂いが、少しだけ残っていた。季節が変わっても、ほんの微かに。」
灯の視線が包みに落ち、指先がテーブルの節の上で止まる。ぼくは息をゆっくり吸って、吐く。香りのない空気を、身体が勝手に青いものと結びつける。リナリアの最初の芽の青さ。ふたりで撒いた初夜の湿り気。
「その人ね、写真を撮るのが苦手だったの。『匂いは写らないから、見返すと余計に寂しい』って。だから、ここにも写真は残っていない。種だけ。」
灯が、短くうなずく。ぼくは喉の奥でうなずきが引っかかり、遅れて形になる。
東雲は包みをひっくり返して、糸の結び目の端を軽く撫でる。解かない。そのまま、包みをまた灯に戻す。
「あなたたちが選ぶなら、またこの包みはあなたたちのもの。いつか別の人に手渡す時が来たら、その時に匂いの話だけを添えてね。地図は描かなくていい。匂いの話だけで、十分つながる。」
「匂いの話。」
灯がつぶやく。彼女の横顔は、しばらく何かを見ない方向に向いている。ぼくはその角度を知っている。晒される前と後の間にだけ出る角度。灯は、ほんの短い間だけ遠くに行って、すぐに戻ってくる。
「玲さん、あの、わたし……。」
東雲はその先を促さない。ただ、コップに湯を足す音を静かに作る。それが促しになる。灯は言葉を選ばずに言う。
「昔、合唱の動画が流出したことがあって。誰があげたのかも分からないまま、コメント欄で、声が顔の形に変えられた。音が数字に切られて、勝手なグラフがついた。歌ってる時は匂いがするのに、それが全部、画面の中で消えていった。あれが忘れられない。だから、守りたい。場所じゃなくて、人の温度を。」
東雲はうなずくだけで、慰めの言葉を置かない。その代わりに、店の奥の小さな引き出しからコルクの小瓶を持ってくる。中には乾いた葉が少しと、細かい種がいくつか。
「これは、あの人が最後に混ぜた乾いたブレンド。リナリアだけじゃない。少しだけ別の花の匂いを支えにしている。甘さが前に出すぎないように。青さが不安になりすぎないように――そう言ってた。」
灯は瓶の口に鼻を近づけて、深くは吸わない。ほとんど触れるだけ。ぼくも同じように、空気を薄く味わう。乾いた紙の匂いの奥に、ほんの微かな青さがある。温室の膜が立ち上がる前の、気配だけ。
「その人はね、たぶん、あなたたちと同じだった。合図は言葉じゃなくて手の癖だったけれど。彼女は『見せないことで守れるものがある』って言い切ってた。わたしは最初、そんな言い方が嫌だった。隠すことと逃げることの違いなんて、どこにあるのって。でも、時間が教えてくれた。隠すのは、ちゃんと、誰かを守る選択になる。」
灯が、包みを掌で軽く押さえる。その手の上に、東雲の視線が静かに乗る。ぼくは、何かを言うべきだと身体が促すのに、言葉が出てこない。代わりに指先がテーブルの節をなぞり、その硬さを記憶する。硬さは、匂いより長く残ることがある。
東雲はふと、話題を少し傾ける。
「再開発のこと、貼り紙見たでしょう。最近は見回りも増えてる。」
ぼくは頷く。灯も頷き、視線を外す。東雲は続ける。
「橘って人、名前を知ってるの。昔、ここに顔を出したことがあった。安全の話しかしない人だった。良い悪いじゃなく、そこしか触れない感じ。理由があるのだろうって思ってたけど、それ以上は聞かなかった。」
橘。名前が空気の温度をほんの少し下げる。安全、責任、過去。単語の角が、舌の上で乾く。労災、という言葉がぼくの脳のどこかで遅れて点灯する。今はまだ輪郭だけ。灯が静かに口を開く。
「――わたしたち、温室はしばらく行かない。匂いも混ぜない。合図もしない。だけど、約束だけは、握り直しておきたい。」
東雲は微笑む。笑う、というより、頷きが笑みに変わる。その顔の皺の一本一本に、土の温度が残る。
「それがいちばん強い。約束は、夢層が消えても、現実に残るから。」
店の表のガラスに、朝の光が水平に走る。通りの向こうで、誰かが自転車のブレーキを鳴らす。金属の高い音が、すぐに吸い込まれる。東雲はカウンターに戻り、伝票の端に小さな印を押す。その仕草は仕事の動きなのに、儀式みたいに見える。
「そうだ、これ渡し忘れてた。」
奥から、薄い封筒が出てくる。封筒の中には、手書きの配合が書かれた紙片。文字は丸く、ところどころインクが濃い。灯は一行目を目でなぞる。
「青を一つ前に、甘さは半歩下げる。」
読んで、灯は笑う。笑い方は、声より先に香りがする笑い方だ。ぼくはその笑いを横で受け取る。紙片の最後の行には、「Behold の前には息を一つ」 とだけ書いてある。東雲が付け足したのだろう。灯が紙片を折り、包みと一緒にエプロンのポケットに入れる。
店を出る前、東雲が手を止めて、ぼくらを見る。
「写真を撮らないって、あなたたちが決めたのなら、その代わりに『見る場所』を体に刻んでおきなさい。ここ、って決めた一点。そこに合わせる癖を。そうすれば、必要な時に、匂いの端っこが起き上がる。」
東雲は眉間と目尻の中間を、指で軽く押さえる。灯は同じ場所に指を持って行って、目を閉じる。ぼくも、それに続く。皮膚の下で、脈が短く、短く、長く。点滅はしない。けれど、脈の間隔だけで、薄膜がほんの少し動く。
店を出る。通りの光は昼の手前で、まだ色のない明るさ。灯は信号待ちで横に立ち、ポケットの中の包みをもう一度確かめる。ぼくは言葉が浮かぶのを待たないで、言う。
「――ごめん。あの朝のせいで。」
灯は首を振る。顔はぼくのほうを向かない。信号の青が、彼女の頬の輪郭だけを薄く染める。
「わたしも、破ったと思ってる。同じ場所にいたら、同じことした。だから、責めるのは違う。ただ、距離を置いて、約束を太くする。」
「うん。」
信号が変わる。歩き出す。店の前の鉢植えの葉が、風で片方だけ揺れる。香りはしない。代わりに、紙の乾いた匂いがどこからか混じる。灯がふと、笑わない声で言う。
「ねえ、凛。もし、何かがあって、言葉が切れる時が来たら。わたし、例外で、一枚だけ渡すかもしれない。」
例外。胸のどこかが、きゅっと鳴る。ぼくは立ち止まりそうになる足を動かし続ける。灯は続けない。言わないことで、言ったことになっている。ぼくはうなずく音を喉で作る。
別れ際、灯はエプロンのポケットに指を滑り込ませ、包みの角だけを確かめる。ぼくはライトの重さを掌の真ん中で確かめる。短く、短く、長く。点滅はしない。合図は今夜も保留だ。
その夜、ぼくはひとりで部屋の窓を開ける。風はまだ匂いを持っていない。机の上に空白のノートを開き、何も書かない。目を閉じる。東雲が示した一点に、視線を合わせる癖をつける。そこで、灯の横顔が立ち上がる。温室のガラスの向こうに滲むネオンではなく、店のガラスに貼りついていた朝の光。彼女の指が種包の糸に触れる寸前の、無音の時間。写真は撮らない。撮れない。けれど、ここには置ける。置いたものは、誰にも見えない。誰にもナイショ。けれど、ぼくの中では、何度も立ち上がる。
約束の形を、書かないまま覚える。灯が言った「温度を守る」を、言葉ではなく間隔で覚える。短く、短く、長く。点滅はしない。けれど、合図は確かに胸の中で繰り返される。
窓の外で、夜の風が少しだけ強くなって、カーテンの裾を持ち上げる。遠くのどこかで、誰かが金属の鎖を動かす音。南京錠の触れ合う短い音が風に混じり、すぐに途絶える。匂いのない風の中で、ぼくは静かに息を吐く。リナリアの青さはここにはない。ないからこそ、今は思い出せる。青さは、記憶の端でだけ、確かに揺れる。
――撮らないはずの一枚を、撮らずに心に留める。
そう決める。言葉にしない。ノートにも書かない。点滅は、しない。けれど、風がページを一枚めくる。めくられた白の上で、微かな香りの気配だけが、確かに立ち上がる。