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第8話「朝の規則、破る」

 冷やされた金属の匂い。工事囲いのシートが、ときどき微かに鳴る。ネオンは薄く滲み、路地の角に貼りついたまま動かない。空気は乾いているのに、舌の上だけ湿っている気がする。スマホの画面はポケットのなかで沈黙して、代わりに指先がライトの円筒を探す。短く、短く、長く。点滅させないで、間隔だけを胸の中で転がす。


 柵の南京錠はさらに増えていた。番号刻印の違う銀色が、重なり合って鈍く光る。ひとつ触れれば、全体がわずかに鳴る仕組み。ぼくは柵の隙間に肩を差し込み、音を立てない角度で通る。内側の地面は乾いて、細かな砂が靴のソールで鳴る。正面には、いつもの赤い渡り板。さわらない。踏まない。色だけが、今夜も鮮やかに浮いている。


 灯はもう来ていた。温室のガラスの影に腰かけ、瓶の栓に親指をあてている。光は最低限。彼女の頬の線だけが細く照らされて、ほかの情報は省略される。


 「……来た。」


 「うん。」


 目を合わせず、ぼくらはそれぞれの位置で呼吸の数を合わせる。灯が短く息を吸って、小さく言う。


 「Behold。」


 その音の後ろ側に、青く淡い匂いが立ち上がる。ぼくは返す。


 「……nobody。」


 視界の縁に薄い皮膜がかかり、ひびの入ったガラスの角が柔らかくなる。温度が一度だけ上がる。掌の内側の触感が、ふくらむ。いつも通り、あるいはいつもより少しだけ、濃い。灯は瓶の栓をほんのすこし緩め、リナリアの香りを増やす。時間の輪郭がにじむ。外の道路の音は、遠ざかる。


 「今夜は、作業しない。」


 灯が先に決めて、ぼくはうなずく。赤い表面の向こうで、工具の金属がわずかに光るのを見て、近づかないことをもう一度決める。音を置きたくない夜。ぼくらは並ばない。斜めに座り、互いの靴先が触れない距離を保つ。


 「動画、伸びてる。」


 灯が言う。「コメント欄が、地図になりかけてる。」


 ぼくの胸の内側に、小さな針の群れができる。言葉が砂になって、喉で引っかかる。


 「誰があげたか、わかった?。」


 「まだ。わかっても言わないけど。」


 灯は瓶の口に布をあてて、もう一度だけ香りを整える。共有幻視の膜が厚くなる。ぼくは彼女の横顔を盗み見て、目を伏せる。ふたりのあいだの温度は、画面越しには伝わらないはずの温度。守るために、サムネにならない角度と手つきを選び続ける。だが守っている間に、時間は早くも遅くもなる。


 「今夜は短く、ね。」


 灯の言い方は、決心というより習慣だ。ぼくは「うん。」と言って、でも胸の中ではできるだけ長く、と祈る。祈りは記録されない。記録されないものだけが、ここには残る。


 ぼくらは何もしないで、匂いと温度だけを交換する。灯の肩に、ガラス越しのネオンがゆっくり滲み、肩の影が床に長く伸びる。ぼくはその伸びを目で追って、途中でやめる。やめた場所が、時間のメモリになる。呼吸が二回、三回。皮膚の内側の鼓動は、外の半分よりさらに遅い。膜は厚くなりすぎないように、自分で薄める。薄めないと、戻れない。


 瓶の栓が一段閉じられ、匂いがわずかに落ちる。灯が合図のように言う。


 「そろそろ。」


 ぼくはうなずく。うなずきながら、ほんのちょっとだけ視線を赤い板に滑らせる。反射で、その縁に置いてある古い鉢の位置を直したくなる。やめる。やめて、立ち上がる。柵のほうへ歩きながら、背中で温度が引いていくのを感じる。共有幻視の膜が剝がれ、現実のガラスが戻る。音が戻る。工事囲いのビニールが乾いた音で擦れる。鍵が、触れ合う。


 外へ出る。路地はいつもより明るく、空が低い。雲の腹がほぐれて、色のない光が街を薄く塗る。太陽の足音がはじまる少し手前。ぼくらは別れて歩く。角ごとに時間をずらす。画面のレンズがどこにいるか、身体で避ける。灯の背中を追わない。追えば尾行の画になる。横切れば、比較の画になる。何もしなければ、空白の画になる。選ぶのは空白。


 駅が近づく。自販機のコンプレッサーが規則的に鳴り、売店のシャッターが半分だけ上がっている。ホームへ続く階段の一段目に、薄い朝の光がのる。ここからは、いつも一緒に行かない。灯は右の階段、ぼくは左の階段。そう決めて、二人は別の流れに混ざる。


 流れが、今夜は少し多い。新聞配達の人、作業服の人、椅子のある店の人。彼らの影が長く、ゆっくり動く。ぼくは足を早めるでもなく、遅らせるでもなく、影の速さに合わせる。階段の途中で、上から降りてきた誰かの手に、白い紙袋がぶつかる。紙袋の中から、軽い音でなにかが転がる。ぼくの靴先が止まり、反射で拾い上げる。飴。包み紙が銀色に光り、ネオン色をわずかに拾う。


 「ありがとう。」


 声が、近すぎた。振り返ると、短髪の青年が笑っている。笑顔が、早朝の空気でさらさらしている。ぼくは飴を渡し、また階段を上る。階段の踊り場で、天井の角に黒い球体を見つける。知っているカメラ。今日の角度は、いつもより少し下だ。いつから下がったのかは、わからない。灯は右の階段で上がっているはず。角の上の球体が、ぼくよりも灯のほうを見ているように感じる。感じるだけでも、脈が速くなる。


 ホームに出たところで、ぼくは反射的に視線を落とす。ホームの端に、乗客たちの影が重なり、朝の匂いが混じる。金属の線路は冷たく、遠くから車輪の鳴る音が薄く届く。プラットフォームの柱に貼られた小さな画面が、広告の切り替わりと一緒に、監視の映像を数秒だけ映す。顔は見えない。影と動きの輪郭だけ。そこに、さっきの踊り場の影が、ほんの瞬間だけ重なる。ぼくの影かもしれないし、違うかもしれない。判断の前に、画面は広告に戻る。戻ったことが、ぼくの身体を冷やす。


 電車が入ってきて、風がホームを撫でる。朝の匂い。青いというより、湿った紙の匂い。リナリアはここにはない。匂いは切れて、代わりに細い金属の匂いが鼻に残る。ぼくは乗らない。乗ってしまえば流される。灯がどの車両に乗ったかは、見ない。見なければ、覚えない。覚えなければ、書かれない。


 ホームの端で、ぼくは時間をずらすつもりだった。一本、見送ってから、別の階段で出る。そう決めて、立っていた。決めたはずだった。


 ――太陽の足音が、近づく。


 線路の向こうのビルの縁に、細い光が這い始める。窓枠のアルミが一本ずつ目を覚まし、壁の影が薄く解ける。ぼくの靴のつま先にも、薄い線が乗る。置き換わりの瞬間。ここで動けば、規則は守られる。動かないと、破る。


 動かないほうを、選んでしまう。


 理由は、きっとしょうもない。膜の離れ方が今日はうまくいかなかったのかもしれない。灯の横顔の角度が、さっきいつもと違っていたのかもしれない。鍵の数が多すぎて、数え直しているうちに脳のどこかがゆるんだのかもしれない。何にせよ、ぼくはホームに残る。一本、二本。朝の人波が増え、影の重なり方が変わる。ぼくは影に混ざり、混ざったことで逆に輪郭が立つ。


 ホームの端から、乾いたシャッター音がする。スマホの音とも、古いカメラの音ともつかない短い音。誰かが後ろで「撮るなよ。」と笑い、別の誰かが「写ったか?」と言う。ぼくは振り向かない。振り向けば、顔がある。顔は残る。ぼくは視線を足元で固定し、靴紐の結び目を見つめる。結び目がほどけていないことを確認して、なんとなく指で撫でる。撫でる手が震える。


 電車が出ていき、ホームがいったん軽くなる。ぼくは階段へ向かう。違う階段。灯が使わなかったほう。上がりきったところで、地上の光が一段強くなる。太陽の足音は、もう目の高さにある。ぼくは目を細め、路地の角を曲がる。角の先の空気が、夜ではなくなる。


 ポケットの中のスマホが震える。画面を見ないまま、歩く。震えは二回、三回。通知の数は、いつもより多い。ぼくは他の振動と同じようにやり過ごす。やり過ごしたいのに、指の中のライトが汗ばむ。短く、短く、長く。今は点滅しない。合図はしない。合図をしないことが、合図になる。


 その日の午前、短い睡眠を挟んでぼくは画面を開けてしまう。誘惑は、匂いではない。何の匂いもしないのに、喉が乾いたみたいになる。


 ――「今朝の駅、影が似てる。」


 文字列。添えられた画像は、低い画質の切り抜き。ホームの影。柱の手前で止まった人影が二つ、距離をとって立っている。顔は写っていない。服の色も潰れている。けれど、影の形は、ぼくらの体温を連れてくる。コメント欄は、見覚えのある語尾でざわめく。


 「温室の都市伝説、これじゃない?」

 「駅はどこ?」

 「影だけで特定できるわけないだろ」

 「でもさ、柵の鍵増えてたの、ガチ」

 「巡回強化されてるって聞いた」


 聞いた、という言葉の軽さ。軽いのに、重い。画面を閉じる指が、ほんの一瞬遅れる。遅れた一瞬の間に、別の通知が滑り込む。似た写真。別の角度。今度は踊り場の上の球体から切り抜いたような俯瞰。輪郭がさらに潰れ、影がひとつに見える。まるで重なっているようで、重なっていない。そこに勝手な物語が生まれる。知らない人が、勝手に色を塗る。


 夕方、灯から短いメッセージが来る。文字は少ない。感情の語尾がない。


 ――今夜は行かない。柵、巡回強化。朝の影が、出回ってる。


 ぼくは返事を書いて、送らない。書いては消す。消しては書く。結局、これだけになる。


 ――ごめん。


 画面は既読になり、しばらく沈黙のまま止まる。ぼくは部屋の窓を開け、外の空気を入れる。風は匂いを持っていない。洗濯物の柔軟剤の匂いが時々まぎれ、すぐに消える。リナリアの青さは、ここにはない。ぼくは目を閉じ、胸の内側で合図の間隔を数える。短く、短く、長く。点滅はさせない。数えるだけ。


 夜の少し前、灯から電話が鳴る。音は出さない設定。画面に名前だけが出る。ぼくはすぐに出る。沈黙が先にある。沈黙をはさんで、灯が言う。


 「今夜だけじゃない。少し、間を空ける。」


 ぼくは息を吸って、吐く。言い訳をさがす脳と、受け入れようとする胸が、別の動きをする。言葉が同時に生まれて、ぶつかって消える。


「……わかってる。」


 灯は続ける。


 「守るために離れる。これは逃げじゃない。ここを、あとに残すための時間。」


 「うん。」


 「朝の規則、破ったでしょう。」


 その言葉は、責める響きではない。確認だ。ぼくは、うなずく音をのどで作る。


 「ごめん。」


 「ううん。わたしも多分、同じ場所にいたら破ってた。だから、今は離れる。」


 彼女の声は乾いているけれど、冷たくはない。乾いた紙に、インクが一滴落ちて広がるみたいな声。ぼくはその広がりを、耳の内側で受け止める。


 「巡回、ほんとに増えてる。橘の部下だと思う。鍵の数も、さっきまた増えたって。」


 橘。名前が空気の密度を変える。安全という単語の重さが、柵の金属に足されたみたいに響く。ぼくは窓の外の風の音で、自分の呼吸を隠す。


 「Beholdは減らす。匂いは、混ぜない。画面は、閉じる。」


 灯は淡々と言い、最後に少しだけ柔らかくなる。


 「凛、あの誓い、まだ有効だからね。」


 「……写真は、撮らない。」


 「うん。撮らない。でも、今はそれ以上に、写り込まない。」


 電話はそこで切れる。短く、正確に。ぼくはスマホをテーブルに伏せ、ライトだけを手の中に残す。点滅させない。ただ、重さを確かめる。重さは割合で記憶される。手のひらの中央と、小指の付け根のあいだに、金属の芯の重み。短く、短く、長く――点けない合図が、脈と重なる。


 夜、ぼくは温室へ行かない。代わりに、駅の近くのベンチに腰掛け、通り過ぎる人の影の形だけを見ている。影はたいてい、すぐに崩れる。誰かの肩が、別の誰かの影と重なって、すぐに離れる。離れ際だけが、記憶に残る。ふと、古い飴の銀紙が足元に転がってくる。拾い上げる。昨日の飴とは違う味だと思い込む。包み紙は同じ。味は、記憶が作る。


 ベンチから見上げる空は、低く薄い。ネオンは遠くで滲んで、こちらまで届く前に溶ける。風は匂いを持たない。ぼくの部屋に戻る道すがら、ポケットのスマホがまた震える。開かない。開いたら、別の朝が来る。開かないまま、歩幅だけを細かくする。


 窓の外が白み始める頃、ぼくは机に座って、何も書かないノートの前にいる。灯の言葉が、紙より先に胸に書かれる。


 ――守るために離れる。


 朝の足音は、今日も同じ順序で近づいてくる。窓の縁に沿って、細い光が這う。ぼくはそれを見ない。見ないことを「シカト」と呼べる夜は、もう終わった。今は、見えないふりだけが残る。見えないふりをしながら、脈の間隔を数える。短く、短く、長く。点滅は、しない。


 遠くで、工事の金属音がひとつ鳴る。南京錠の触れ合う音が、それに続く。画面の向こう側では、今朝の影に似た影が、別の誰かの物語に組み込まれていく。ぼくのここでは、匂いのない風が通り過ぎる。リナリアの青さは、どこにもない。どこにもないから、守れるものが一つだけ残る。約束。朝の規則を破ったという事実と、それでも、次は守るという選択。


 窓を少しだけ開ける。風が紙の角をめくる。ネオンはもう滲まない。かわりに、光の線がまっすぐ机の上を走る。ぼくは目を閉じる。香りのない空気の中で、瓶の栓の硬さを想像する。指先にその硬さが戻ってきた瞬間、ぼくは静かに息を吐く。


 朝が来る。ぼくは、距離を置く。風は通り過ぎるだけで、何も運ばない。リナリアの匂いは、来ない。来ないことで、今夜は終わる。


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