第7話「都市伝説チャンネル」
薄く雨が降ったあとみたいに、街の音が低く沈む。ネオンは湿って見えるのに、空気は乾いている。工事の囲いに貼られた紙が、風でほとんど揺れない。金属の柵はいつもより冷たく、触れた指の温度を奪っていく。柵の継ぎ目、見慣れた银色の輪がひとつ、ふたつ――増えている。南京錠。形は同じで、刻印の番号が違う。錠前の数が、ぼくの心拍を計るみたいに増えた気がした。
「増えたね。」
灯が囁く。うなじの髪が一筋だけ首筋に貼りついている。ぼくは頷き、鍵の金属光を見ないように視線を逃す。柵の向こう、温室のガラスは夜露をまとって鈍く曇り、足元の赤い渡り板は乾いたまま、色だけが新しく見える。赤はいつも、時間の手前に立っている。
柵の隙間から身体を斜めに通し、触れないように渡り板の手前で足を止める。灯が指で合図を描く。短く二度、長く一度。ぼくはライトを軽く押して、同じリズムを返す。声にしない。声は記録される可能性があるから。光の間隔は、誰にも残らない。
温室の中は、今夜も音が薄い。ファンのかすかな回転に、どこか遠くの道路の響きが混じる。瓶を開ける前から、リナリアの青い匂いが残っている。灯が胸元から瓶を取り出し、栓をほんのわずかだけずらす。匂いが一段階濃くなる。ぼくらの輪郭が、夢層の膜でうすく縁取られる。
「今夜は……作業?」
「少しだけ。支柱、緩んでる。」
ぼくは頷く。灯が赤い渡り板の上で立ち止まり、表情を変えないまま視線を外す。赤。渡らない。ぼくは工具袋を手繰り寄せ、板の手前でしゃがむ。金属のスパナが冷たい。指を離す前に、手の中で重さの位置を確かめる。灯が瓶を閉じて、少し後ろへ下がる。彼女の足先が、赤の影にかからないように。
ぼくは息を止め、支柱のナットにスパナを掛ける。金属の触れ合う音は、できるだけ小さく。ナットはすぐに回り、柱がわずかにまっすぐに戻る。ぼくは次の支柱に手を伸ばす。赤い板の角、指先一センチ先で塗膜が剥げている。剥げ目は鋭い。触れないで、よける。
そのとき、手の中のスパナが汗で少し滑った。反射で握り直す。間に合わない。金属の固い音が、渡り板の上に落ちる。からん、と乾いた音が走り、ガラスの壁にぶつかって薄く跳ね返る。跳ね返った音は、外へ滲む。
ぼくと灯の間の空気が、ひとつ固まる。灯の目が、赤とぼくとスパナをいっぺんに測る。彼女は一歩、赤の縁へ踏み出すふりをして、踏まない。踏まずに、膝の角度だけ変える。瓶の栓を押さえ、匂いを一段下げる。夢層が薄くなる。現実が前に出てくる。
外が動いた。柵の向こう、足音がひとつ。間を置いて、もうひとつ。一定の歩幅。巡回。金属の鈍い鳴りが近づく。鍵が触れ合う音が、音楽みたいに森閑を削る。ここから見えない角度に、黒い球体がいくつか貼りついているのも知っている。あの目は、熱のない視線でこちらを撫でる。
灯が、目だけで言う。息。止めない。ぼくは頷き、落ちたスパナを赤の上から拾う。指先に、ざらつきが刺さる。赤い表面。ぼくは息を数え、腕を引く。工具袋へ静かに戻す。音はほとんどしない。でも、音はした。十分な音だった。代償が、赤の上に薄く置かれる。
足音は柵の外で止まる。光はこちらへ向かない。向かないで、通り過ぎるふりをする。ふりかもしれない。ふりでもいい。ぼくらは動かない。動かないで、各部位の温度を少しずつ下げる。汗が耳の下をゆっくり落ちる。落ちた場所がやけに冷たい。
やり過ごせた。たぶん。たぶん、今夜は。灯がまた瓶の栓をわずかに緩め、リナリアの青さを戻す。夢層が薄く重なり、温室のガラスに柔らかな皮膜がかかる。ぼくは息を吐く。吐く音も小さく。
「……ごめん。」
囁いて、顔を上げると、灯は首を横に振る。
「音は消える。約束は残る。」
約束。ぼくの胸の内側に、その言葉が沈む。沈んだところへ、別の波が当たる。灯がポケットから取り出したスマホの画面が、暗闇に淡く光る。ぼくらは温室では画面を開かない約束だった。灯は自分でその約束を作った。今、彼女はその約束を破らない。画面はロックされたまま、通知だけが覗く。小さな四角の中に、知らないアイコン。再生のマーク。短い文字列。「都市伝説」「温室」「見つけた人」。
ぼくは喉が乾くのをはっきり感じる。灯はロックを解かない。通知を上から払って消し、画面を伏せる。その手の甲に、ネオンの薄い滲みが貼りつく。
「……外で見る。」
「うん。」
灯は瓶の栓を締め、胸元にしまう。匂いが一段、静まる。夢層は引っ込む。現実に戻る。ぼくらは手短に支柱の確認だけを終え、工具袋を軽くする。渡り板の上をもう一度見て、赤が何も持っていないことを確かめる。何も置き忘れていない。音だけ、置いてきた。
温室を出る。柵の鍵はやはり増えている。番号の違う南京錠が、鉄の輪の上で重なり合い、互いの存在を主張するみたいに小さくぶつかる。金属の当たる音は、音楽に似ていない。似ていないから、記憶に残る。
ネオン街の裏へ出たところで、灯が画面を開く。ぼくらは横に並ばない。建物の角を挟んで、ほんの少しずれて立つ。画面の音は出さない。字幕だけが流れる。サムネイルは暗い。夜の柵の一部、見切れたガラスの破片、手前の植物のぼやけた影。サムネになりそうな画だが、どれも中心がない。あえて、中心を抜いている――そういう編集だ。
「……誰?」
ぼくが訊くと、灯は首を横に振る。知らない。でも、どこかで見た手つき。ぼくは喉の奥がもう一度乾くのを感じる。再生の枠の中、低い声が流れる。顔は映らない。機械的な語尾。語りは、噂の形を正しくなぞる。
――夜になると、開発予定地の柵の奥に光が見える。都市のどこかに、止まった温室。そこでは時間が遅い。二分の一。三分の一。匂いは、青い。見た人は、忘れてしまう。でも、忘れたあとにも、指先の感触が残る……
コメント欄は流れる。ほんと? 場所は? あれ、ここ見たことあるかも――いや違うかも。柵の形からして湾岸? いや、下町のほう? 特定班よろ。ぼくの胸が、固いものを入れられたみたいに冷える。灯の親指が、画面の端に置かれたまま動かない。
ぼくは画面から目を離し、周囲の気配を一つひとつ数え直す。自販機のコンプレッサー、二分に一度の振動。遠くの交差点の信号が切り替わる音。角の上に、黒い球体――カメラ。あれはここだけで三つ。影の中にもひとつ。ぼくらは角度を変える。額に落ちた光が、視界の端で形を変える。
動画の中で、柵の前に影が映る。人影。ふたり。重なっては、いない。似ているけれど、別の夜の、別のふたり。編集はわざと甘く、ノイズを残している。ぼんやりした輪郭が余白を増やし、想像の入り口だけを用意する。ぼくは、自分の喉が鳴らないようにして息を吐く。
「拡散は?」
「そこそこ。夜の勢いはある。」
灯の声は乾いている。ぼくは頷き、画面から目を離す。コメント欄の最後のほうで、見覚えのない名前が「特定やめろ」とだけ書き込んでいる。救いのようで、火に油のときもある文字列。ぼくらには制御できない場所。
灯は動画を閉じ、しばらく手の中で端末を温めるように持ってから、ポケットに戻す。彼女の手の指先は、さっきより冷たい。ぼくらは言葉を省き、路地の奥へ移動する。遠くで誰かが笑い、すぐに咳払いに変わる。ネオンの滲みは薄い。夜の真ん中が、いつもより狭い。
温室へ戻る選択肢は、今夜はない。鍵が増えた夜は、戻らない。ぼくらは裏通りの広いほうへ出て、長い塀の外側に沿って歩く。塀の上を風がかすめ、砂粒が小さく転がる音がする。灯は一歩先を歩き、角では必ず影に入る。ぼくは少し遅れて、影の外に残る。二つの影が、重ならないように。
次の曲がり角で、ぼくらは立ち止まった。塀の向こう側で、金属の音がまた小さく鳴る。南京錠がひとつ、ふたつ、触れ合う。ぼくは手のひらでライトを握り、点滅の間隔を指で撫でる。短く、短く、長く。灯は振り返らない。でも、呼吸が揃う。
「……あのチャンネル、見覚えない?」
灯が言う。問いというより、独り言に近い。ぼくは黙って首を横に振る。心の奥で、ひっかかりが動く。教室の一番後ろで、いつも何かの切り抜きを編集していた背中。影を集めるのがうまい友人。彼のことを思い出し、すぐに追い払う。結びつけが早すぎるのは、だいたい間違う。今は匂いで考えるほうがいい。匂いは嘘をつかない。画面は、嘘を簡単につく。
灯は空を見上げる。空は低い。雲はほとんど動かない。街の光だけが、雲の腹をじわっと照らす。薄い灰色の中に、色の抜けたネオンが滲む。ぼくは灯の横顔を盗み見て、すぐに視線を戻す。盗み見は記録されない。正面から見るのは、記録に残る。
「凛。」
灯がぼくを呼ぶ。名を呼ぶのは、彼女なりの信号だ。ぼくは短く返事をする。
「……Beholdを、減らそう。」
言葉は低く、固い。拒絶の音じゃない。守るための音。ぼくの胸に、ゆっくり沈む。沈む途中で、赤い渡り板のざらつきが背中に蘇る。さっきの金属音。巡回の足音。増えた南京錠。画面の中の見切れた画。コメント欄の流れ。全部が薄い繊維になって、胸の中で絡まる。
「うん。」
口ではすぐに頷いたのに、身体はわずかに遅れる。遅れたぶんだけ、皮膚の内側にざらつきが残る。ぼくは両手の指を軽く組み、ほどく。指先の跡が白く残って、すぐに色が戻る。
「ここで守れなかったら、どこでも守れない。」
灯はそう付け足して、歩き出す。ぼくは後ろから三歩分の距離を取る。距離の中に風が入り、風の角がぼくの頬を撫でる。風は匂いを持っていない。助かるようで、寂しい。ぼくはポケットのライトをもう一度握り、点滅をしないまま間隔だけを数える。短く、短く、長く。合図は、夜よりも静かな場所に隠す。
帰り道、ぼくらはいつもより周り道をする。角で止まる回数を増やす。自販機の前を避け、カメラのある天井を見ない。灯が唐突に立ち止まり、ぼくにだけ聞こえる小さな声で言う。
「サムネにされない走り方って、あると思う?」
「……影が崩れる走り方。」
「それ。」
灯はうなずいて、ほんの少しだけ速度を上げる。膝の角度、足の置き方、肩のブレ。走っていないのに、走って見える。走っているのに、止まって見える。画面に切り取られたとき、意味を持たない動き。意味を与えないという選択。ぼくはそれに合わせる。二人の影は、長い塀の上でばらけ、ネオンの滲みの中で薄く引き伸ばされ、輪郭を失う。
交差点の手前で足を止める。信号の赤が、ぼくらの足元に落ちる。赤は渡らない。信号が青に変わる瞬間、どこかの窓の内側で、画面の光がふっと明滅した。誰かが再生ボタンを押し、指を離したのだろう。離れた瞬間、光はまた別の窓へ移る。都市は、同時にたくさんの目を開けている。
「次の夜は、間をあけよう。」
灯が結論だけを置く。ぼくは頷く。間をあけることは、薄く離れることじゃない。濃く守るための余白だ。頭でそう整頓しながら、胸の内側で反発する小さな音を飲み込む。飲み込んだ音は、喉の後ろに残る。
駅までの道、ぼくらは別々の並びに分かれ、信号のタイミングもずらす。ホームでは互いの影が重ならないように立ち、電車の窓に映る自分を見ない。画面の向こうで増える「見た」「行った気がする」「場所わかったかも」の文字列を、今は遮断する。今夜のぼくらは、表示させない。表示させないのも、選択だ。
最後に、地上の出口の手前で、灯が振り向かずに言う。
「凛、あの赤い板。今日、音を置いてきた。」
「……うん。」
「次は、何も置かない。」
「置かない。」
彼女は頷く気配だけ残して、別の階段へ消える。足音はすぐに、駅の雑音に混じって聞こえなくなる。ぼくはポケットのライトを握り、点滅はしない。間隔だけを胸の内側で刻む。短く、短く、長く。夜の端を歩きながら、ネオンの滲みを横目に、息の数を揃える。
柵の向こう側で、南京錠はひとつ分、重さを増やしている。画面の向こう側で、サムネの見切れた画が、またひとつ増える。ぼくの中で、赤い渡り板のざらつきが、ゆっくりと薄れていく。その代わりに、灯の言葉が濃くなる。
――Beholdを、減らそう。
夜風が路地を抜ける。匂いはない。ネオンは滲む。ぼくはその滲みの端で立ち止まり、見ないふりを覚えた眼で、影の長さを計る。影は短くも長くもならない。ただ、そこにあるだけだ。