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第6話「太陽の足音」

 空気は乾いているのに、耳の奥だけが湿っている。換気のファンが低く回る音に、夜の底から小石が転がるみたいな揺らぎが混じる。温室のガラスは冷えて、指を近づけると皮膚の温度を吸いとっていく。柱に括った目立たない布切れは動かない。風がない。匂いだけが薄く流れ、甘さの手前の青さで口の中を曇らせる。


 灯が、瓶の栓を少しだけずらす。匂いが、ほんの半歩分だけ濃くなる。ぼくらは、合図も言葉も出さない。彼女の肩の高さに合わせて息を吸い、同じ幅で吐く。今夜は作業をしない。触らない。触らないで、覚える。梁の高さ、足の幅、赤い渡り板のざらつき。赤は危うい。だから触れない。赤の手前で止まる。


 「今日は、長くなる。」


 灯が小さく言う。彼女の声に、湿り気が混じる。理由は訊かない。訊かないで、息の速度を落とす。ぼくの胸の奥で、時間が柔らかく折り畳まれていくのがわかる。感覚が濃くなる。ファンの回転数の微妙なぶれ、遠くの道路のかすかなリズム、どこかで金属が鳴る低い音。それぞれが音楽の断片みたいに、重ならないで並ぶ。


 灯は瓶を胸に戻し、視線を上げる。割れたガラスの向こうで、街の明かりが薄く滲む。ネオンは呼吸している。生き物みたいに膨らんだり、痩せたりする。ぼくはネオンから目を外し、灯の横顔を追う。彼女の睫毛に、見えない粉が乗っている。粉は、ここにしかない種類の静けさを映す。


 「この配合、二分の一より、もう少し短い。」


 「三分の一。」


 「たぶん。」


 たぶん、という単語が、安心の形で置かれる。確信は強すぎる。強いものは壊れる。ぼくらは「たぶん」に寄りかかり、時間の濃さに身を委ねる。話した言葉が、自分の耳に届く前に柔らかくなる。嘘を置く場所は、遠い。赤い縁から離れている。今夜は嘘を必要としない。


 灯が足元に視線を落とす。赤い渡り板の手前で、光がわずかに跳ねる。ぼくはその跳ねを目で追わず、指先に記憶させる。板の端の欠けた位置、塗膜の剥げ、角度。灯は板に触れない。触れずに、箱のように身体を折り曲げる。何もない空間に輪郭を作るみたいに、肩と腰の角度だけを変えて、立ち上がる。


 「……見てないふり、うまくなったね。」


 「ここでは、うまくなる必要がある。」


 「ここ以外でも、ね。」


 灯の口角だけがわずかに上がる。笑いは声にならない。ぼくは頷く。瓶の栓が、もう一度だけ、僅かにずれる。匂いは青で、甘さは遠くに置かれている。ぼくらは肩と肩のあいだの空気をあたため、手の甲が触れない距離を長く維持する。その距離がちょうどいい。触れる代わりに、匂いが触れる。


 時間が溶ける。ファンの音に、規則性が生まれては消える。ぼくは何度も呼吸を数え、数えた端から忘れる。灯は瓶の栓を閉じようとしない。閉じない選択は、どこかの境界線の上に立っている気配を運ぶ。けれど、その線は見えない。見えないものほど長い。玲の言葉が胸に残る。ぼくはそこに背中をあずける。


 「……そろそろ。」


 誰が言い出したのかわからない。灯が先にライトに触れ、短く二回、長く一回。ぼくは返す。外へ漏れない点滅。ここにいるという事実だけが、ここに残る。瓶の栓が、音を立てずに閉じられる。甘さが引っ込む。青さだけが細く線を引いて残る。


 温室を出る。赤い板を避ける。足裏のざらつきは、板を踏まなくても、足に残る。通路は暗い。壁の手触りは、昨日より乾いている。灯は先を行き、角では必ず立ち止まって耳を澄ます。足音は少ない。遠くに低い笑い声。画面の光が壁に跳ねる。扉の隙間から流れ出した料理の匂い。ぼくらは匂いの濃いほうを避け、薄いほうへ抜ける。


 地上へ出る。風がある。風は温室の匂いを連れてこない。灯は瓶の上から指を押さえ、胸元にしまう。見えないものは、見えないまま。ぼくらは駅へ向かう。表通りは避けて、家のない裏の道。舗装の継ぎ目が多い。歩幅で数える。数えた数は、背中へ落として消す。


 駅の手前で、灯が一度だけ立ち止まる。視線でぼくの手首を指す。ぼくは頷き、ライトに触れる。短く二回、長く一回。返事はない。返事がないのは正常。ぼくらは歩く。地下への階段は涼しい。空気は乾いて、肌から水分を奪う。音の層が変わる。アナウンスの声、電車のブレーキ、靴の底が床を擦る音。匂いの層には何もない。消毒の匂いは薄く、誰かの香水は遠い。


 改札を抜け、ホームへ降りる。人は少ない。最後の電車ではない。けれど、夜の終わりの気配が、線路の向こうからじわじわ来る。ぼくらは並んで立つ。反対側のホームに、黒い球体がいくつも光る。カメラ。ぼくは見ない。見ないけれど、気配はある。カメラの「見ている」は、人の視線と違う。熱がない。けれど、長い。


 灯は髪を結び直す。指がうなじに触れ、皮膚がわずかに光る。その光が、ホームの白い蛍光灯の光と混じる。ぼくは目を伏せ、靴の縁に視線を置く。ホームの端に黄色い点字ブロック。点の連なりは、均一で、親切で、冷たい。そこにぼくの影が重なる。灯の影と、線の上で薄く混じる。影の端が、長くなる。


 電車が来る前に、どこかでシャッターが切られる音がした。ここではない。ぼくの耳の外側で、別の場所の音が、遅れて届く。錯覚。錯覚かも知れない。ぼくは首を振らない。影はさらに伸びる。ホームに風が通る。ぼくと灯の間の空気が、少しだけ冷える。


 電車の灯りがトンネルの奥に現れる。顔のない光。光は近づく。ホームの足元が少し明るくなる。窓に映るぼくらの並ぶ輪郭が、ガラス越しに重なる。ぼくは無意識に灯のほうを見る。彼女は視線を下げ、唇の端だけで何かのリズムをなぞっている。点滅の間隔だ。短く、短く、長く。


 ――太陽の足音。


 言葉にしなくても、ぼくはわかる。地上の窓の縁を這うあの光が、この地下まで匂いなしで伝わってくるときの、気配。時計の針は嘘をつかない。でも、ぼくらの時間は濃く短かった。夜の端を長く引っ張ってきた。もう、伸びないかもしれない。


 電車が止まる。ドアが開く。乗り込む。車内はまばらだ。広告は眠っている。誰も読んでいない文字が宙に漂う。ぼくらは並んで座らない。向かい合いもしない。少し斜めに、同じ空気の中にいる。次の駅までのわずかな距離が、やけに長い。ぼくは窓に映る自分の輪郭の隣に、灯の横顔が重なるのを見ないふりをする。見ないふり。見ないふりは、ここでは技術だ。


 電車が動き出す。トンネルの壁が後ろへ流れる。ぼくらの影はガラスに薄く貼りついて、細く伸びて、やがて切れる。遠くのほうで地上に上がる階段が見える。あの階段の上では、もう光の足音が始まっている。まだ届かない。けれど、来る。ぼくは手のひらをポケットのライトに当てる。点滅はしない。間隔だけを指先でなぞる。


 電車が次の駅に滑り込む。ドアが開く。灯が立つ。ぼくも立つ。ホームに降りる。ここは乗り換えの人が多い。夜の終わりに向けて、動く人の方向は揃っている。ぼくらは人の流れに逆らわない。流れに沿いながら、少しだけ距離を空ける。ここで「並ぶ。」は危ない。並んだ影が、記録に残る。


 それでも、並ぶ瞬間がある。改札へ向かう曲がり角。手すりの前。蛇腹のベルトの切れ目。ぼくらの影が、壁に長く伸びる。灯の影は細く、ぼくの影は角が多い。その二つが、ほんの数歩だけ重なる。重なった影は、カメラの黒い目の中で、ただの形に変わる。形は中身を持たない。持たないものであってほしい。


 改札を出る。地上へ上がる階段の手前で、ぼくらは一度だけ足を止める。階段の上から、柔らかい光の端が降りてくる。まだ朝ではない。でも、足音はここまで来ている。灯はぼくを見ない。ぼくも灯を見ない。壁のタイルの角に視線を置いて、同時に息を吸う。吐く。吸う。吐く。呼吸の形が揃うと、影が少しだけ短くなる。錯覚かもしれない。


 「……ここで。」


 灯が言う。声はいつもと同じ高さで、少しだけ低い。ぼくは頷く。階段を上らない。上がらないで、別の出口へ向かう斜めの通路を選ぶ。遠回り。遠回りは、安全ではない。けれど、目の数は減る。通路は狭い。壁に近いほうを灯が歩き、手すり側をぼくが歩く。間の空気は冷たい。二人の歩幅は揃う。揃うことが、唯一の近さになる。


 別の出口から地上に出る。ここは道幅が狭い。建物の壁が近い。窓の縁は光っていない。太陽の足音は、まだ角を曲がっていない。ぼくらは分岐で立ち止まり、視線だけで別の方向を指す。灯は左。ぼくは右。言葉にしたら嘘になる。言わないで、決める。足音が二つ、別の道へ分かれる。匂いは混じらない。風は来ない。


 角を曲がる直前、灯が振り向いた。振り向くといっても、視線だけ。首は動かさない。目が、ぼくの手の位置をなぞる。ポケット。ライト。合図。ぼくは頷く。点滅はしない。頭の中で、短く短く長く。灯は一度だけ瞬きをし、唇の形で謝る。謝罪の形ではなく、約束の形。約束は声よりも長く残る。


 そのとき、上のほうで、窓の内側を光が横切った。太陽の足音が、角を曲がる。ぼくは見ない。見ないで、体だけ先に動かす。灯も同じように動く。別の角、別の道、別の影。朝の冷たさが、足元に薄く積もる。


 ――後から知ることになる。別の部屋で、別の光の下で、誰かが画面を見ていたことを。駅のホームの、壁に伸びる影の切れ端。丸いレンズの端で歪んだ二つの形。彼は拡大し、色を抜き、輪郭だけを切り取って、保存した。サムネにはしない。投稿もしない。けれど、フォルダは作る。名前はつけない。数字の羅列。彼の指先は、保存のボタンで一度だけ止まる。止まって、押す。画面に小さな音が鳴る。彼はその音を嫌わない。嫌わないまま、画面を閉じ、椅子の背に体を預ける。深夜の、乾いた部屋。彼の名は佐伯。彼の目は眠っていない。けれど、彼はまだ、何もしていない。


 ぼくはそのことを知らない。知らないまま、曲がり角をもう一つ曲がる。灯の足音は聞こえない。聞こえないはずだ。道が違う。ぼくはポケットのライトに触れ、点滅はしない。間隔だけを指でなぞり直し、空気を吸う。空気は冷たい。匂いは薄い。温室の青さは、舌の奥のほうにしか残っていない。


 最初のバスの音が遠くで鳴る。ぼくは歩く速度を落とす。家のある方向へ。夜の水分が、道路から蒸発していく気配。新聞受けの金属が、光る準備をしている。ぼくは目を閉じる。閉じた目の裏側を、薄い朝が撫でる。撫でられたところだけ、記憶が曖昧になる。夢層の端が剥がれ、現実のほうへ戻る。残るのは、約束だけ。約束は、現実に残る。


 角を曲がり切ったところで、背中に小さな振動。メッセージ。画面を見ない。見ないで、足を止める。呼吸を整える。十数える。画面を開く。短い文がひとつ。


 ――今度はちゃんと夜のうちに。


 灯。句点はない。ぼくは返さない。返さないで、指先で点滅の間隔をもう一度つくる。短く、短く、長く。誰にも返さない合図。街に、朝の足音が増える。窓の縁が、一本だけ細く光る。ぼくはその光を視界から外し、まっすぐ前を向く。太陽の足音は、聞こえないふりでやり過ごす。やり過ごして、今度はちゃんと、夜のうちに。


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