第5話「ナイショの輪郭」
午前の熱が、夕方になっても壁の中に残っている。ビルの隙間を通る風は乾いて、紙袋の口をめくる。油の匂い、台所洗剤、タバコの焦げ、雨には足りない湿り気。そこにうっすら、茎の青さが重なる。鼻の奥の膜がわずかに波打つ。ぼくは歩幅を短くし、角の手前で速度を落とす。
細い光が、三度。二度短く、一度長く。路地の切れ目で灯が指を下ろす。髪を低い位置でひとつにまとめていて、後れ毛が首筋に貼りついている。胸ポケットの角が暗がりに四角い影をつくる。彼女は口を開かず、顎で目配せをして、いつもの通路ではないほうへ歩きだした。
「今日は人が多い。別の道。」
声は小さく、路地の壁に当たって吸われる。ぼくは頷き、ついていく。鉄扉と換気口の間を抜け、小さな階段を下り、表通りへは出ず、細い縁石だけを踏む。灯の靴底がきちんと音を返す。曲がり角ごとに匂いが変わり、目印のない目印になる。揚げ物の店の油が濃く、次の角の古本の匂いが乾いて、さらに先で漂う柔軟剤がむやみに甘い。
「今日、先に寄りたいところがある。東雲さんの店。」
ぼくはうなずき、彼女の歩幅に合わせて息を整える。赤い渡り板は、まだ遠い。
商店街の明かりはばらばらで、欠けた電球のぶんだけ影が増える。花屋の前にだけ、小さな明るさが集まっている。バケツの水が冷たく、葉の緑がまだ昼の温度を覚えている。風鈴が短く鳴って、店の奥から人の気配が出てくる。東雲 玲は、白いシャツの袖を肘まで折り、額の髪を指で払ってぼくらを見た。目が笑うより先に、匂いが笑う。
「いらっしゃい。――灯、それ、例の子?」
灯は頷く。ぼくは頭を下げる。玲はぼくの顔を一度だけ見て、すぐ花のほうへ視線を落とす。その落とし方が、安心させる。
「リナリアは、まだ外には出さない。奥で増やす。」
短い説明。余計なことは言わない人の声。灯は「うん。」とだけ返し、カウンターの裏へ回る。ぼくは店の真ん中で立ち止まり、冷たい水の縁を指で触る。水の温度は真っ直ぐで、昼の疲れを吸う。
「凛くん、でいい?」
玲が名を呼ぶ。ぼくは頷く。
「お客さんじゃないなら、奥へ。見せたいものがある。」
灯が目だけで合図を寄越す。ぼくはカウンター横の狭い戸口を通り、バックヤードへ入る。香りの層がすぐに変わる。土、段ボール、古い紙、鋏の金属、そして、乾いた花の粉の匂い。灯は棚のいちばん上から、小さな紙包みを両手で下ろした。薄い茶色の紙に、細い紐。手のひらに乗るサイズ。角は擦れて柔らかい。
「種包。」
灯がそれだけ言う。玲は言葉を足さない。灯が紐をほどく。紙の中に、さらに小さな紙。開くたびに、乾いた音がする。いちばん内側の小袋に、細かい種が眠っていた。色は濃いこげ茶で、光を吸う。紙の上に指でごく少し移す。種が集まると、砂よりも軽い音になって揺れた。
「……重さがないのに、重いですね。」
ぼくの言葉に、玲が笑った。
「重さは、受け渡しの回数でつく。」
灯は頷き、小袋を閉じる。紙の端に、柔らかい鉛筆で小さな印がついている。日付ではない。名前でもない。誰にも読めないための印。
「どこから?」
ぼくが訊くと、灯の視線が一瞬だけ玲に流れる。玲は首を小さく横に振った。
「由来は、また今度。今は、渡し方だけ。」
「渡し方。」
「地図は描かない。口で渡す。」
灯の声が、乾いた紙の上を滑っていく。ぼくは頷き、紙包みの重さのない重さを掌で受け取る。紙の繊維が指の腹にざらりと触れる。灯がぼくの手を両手で包む。一瞬だけ、体温が重なる。
「ここから――口伝。」
灯は言う。ぼくは視線を落とし、耳の内側で空白を用意する。余白がないと、言葉は落ちない。
「表通りに出ない。出ると、目が強い。裏の細い道をまっすぐ。油の匂いが一番濃い角は曲がらない。次の角、教会の鐘がたまに鳴るほうへ。鐘の音は必ず遅れてくるから、それを待つ。出たら、左。手すりの塗料の匂いが残ってる小さな階段を下りる。そこで一度だけ、ライトを短く二回、長く一回。誰も返さないなら、進む。返したら、その返事を無視して戻る。」
「返したら、戻る。」
「合図は私か凛だけ。それ以外から返ってきたら、すべて偽物。偽物は、ここでは敵。」
灯の言い回しは、脅しではなく、作業手順に近い。ぼくは言葉を反芻し、口の中で音を確かめる。
「階段を下りたら、匂いが変わる。金属が湿ってる匂い。換気の音。赤い板が見える。赤は、渡る前に嘘を置くところ。置けないなら、戻る。戻れないなら、止まる。止まって、呼吸を十数える。」
ぼくは頷く。玲は黙ったまま、紙包みの角をなでる。触り慣れた手の動き。灯が包みをもう一度紙に戻し、紐を結ぶ。結び目は小さく、ほどけにくい形だ。
「これは、東雲さんの店で預かる。持ち歩かない。あなたが触るのは、今夜だけ。形を覚えて。」
ぼくは頷き、紙の重さをもう一度掌に感じる。重さはないのに、確かに何かがある。匂いはしない。だからこそ、誰にも見つからない。
玲が口を開く。
「見えるものほど、弱い。見えないものほど、長い。」
短い言葉が、バックヤードの空気に沈む。ぼくは返事をせず、ただ息を整える。灯は包みを胸の高さまで上げ、軽く頷いてから、棚の奥に戻した。細いものの隙間を通して、紙の端が見えなくなる。
店に戻る前、玲がぼくを呼ぶ。
「凛くん。鍵を複製しようとしたら、やめなさい。」
ぼくは驚き、すぐに頷いた。玲の目はやさしいのに、線がある。触れてはいけない線。
「鍵は増えると、場所が場所じゃなくなる。――秘密は、数で死ぬ。」
「わかりました。」
灯は黙って、ぼくの横顔を見ていた。うなずくぼくの首の角度を、確かめるように。
店先に戻ると、夕暮れの色が少しだけ濃くなっていた。風鈴がもう一度鳴る。玲はレジ横の小さな鐘を軽く叩き、短い音を作って、ぼくらを送り出してくれた。
商店街を離れ、夜の始まりの匂いに戻る。灯は歩きながら振り返る。
「今の、口伝の練習。地図は描かない。描いた瞬間に、私たちのものじゃなくなる。」
「はい。」
小さな「はい」が、胸の中で折り畳まれる。ぼくらは合図もなく歩き、いつもの路地を選ばない道で温室へ向かう。曲がり角ごとに灯が短い言葉を落とす。「左。」「まっすぐ。」「待つ。」。ぼくはその都度、足の力を少し抜く。言葉の重さを足裏で受ける。
やがて、換気のファンの音。金属の湿り気。赤い板が夜に浮く。踏み出す前に、灯が立ち止まる。
「ここから、ナイショの輪郭。」
灯は胸ポケットを軽く叩き、瓶の栓を指で転がす。匂いが薄く立ち上がる。青く、甘くなる前。ぼくは息を整え、言葉を置いていく。嘘を置く場所は、赤の手前。灯が先に足をのせる。ぼくも続く。ざらつきが靴底を掴む。
温室の中はいつもと変わらないはずなのに、今夜は影の角度が違って見えた。ガラスの割れ目に貼った布テープが、薄く光を返す。クリップは無言で仕事をしている。灯は瓶を胸の高さで支えたまま、ぼくに視線を向ける。
「ここで、境界を刻む。見えない線。」
ぼくは頷き、布袋からビニール紐と小さな布を受け取る。灯が渡すというより、手が自然にぼくの手の形を覚えていた。ぼくらは声を少なく、動きを多くする。赤の縁から一歩内側、鉄骨の柱に紐を軽く結ぶ。強くは結ばない。解ける結び目。風で鳴らない程度の張り。次の柱には、小さく折った布を、目立たない向きに挟む。布には匂いはつけない。
「ここからここまでが“庭”。ここから先はただの建物。――私がいなくても迷わないように。」
灯が言う。ぼくは頷き、紐のたわみを指でまっすぐにする。指に粉っぽい感触。ガラスの粉ではない。古い塗膜の粒。咳が出ない。匂いの層が守る。
「合図の場所も決めよう。」
灯はライトを取り出し、飾りのない梁にそっと当てた。木材ではない。冷たい鉄。点滅を短く二回、長く一回。ぼくは別の位置に移動し、同じ間隔で返す。光はにぶく反射し、外へ漏れない。ぼくらにだけ見える。見えるような気がする。
「返ってきたら、誰かがいる。返ってこなかったら、誰もいない。返ってきてほしい夜と、返ってきてほしくない夜がある。」
灯は自身に言い聞かせるみたいに呟き、瓶の栓を押さえ直す。匂いが青く、薄く、そして遠くへ伸びる。「半歩」の配合が、時間を半分にする。ぼくらは呼吸を合わせ、言葉を少なくする。線が見えないぶん、触れないで覚える。紐のゆるみ、布の折り目、梁の高さ。目で見ないで、体に入れる。
「ここは、写真に向いてない。」
灯がつぶやく。ぼくは笑う。
「向いていないものは、好きです。」
「私も。――でも、言葉は残す。さっきの口伝みたいに。」
灯は手帳を出し、小さな点と短い線だけを書いた。意味のない記号。見た人には役に立たない。知っている人には、完全な地図。ぼくはそれを覗かない。覗かないで、覚える。
作業を終えると、灯は瓶を胸元から離し、赤の縁まで下がった。ぼくも並ぶ。渡り板の上。風は弱い。換気のファンが低く唸る。外の音は遠い。ぼくらは合図もなく、短く走った。二歩、三歩。跳ねない。音を立てない。赤は鳴らない。けれど、脚の筋の細いところに、うれしい疲れが落ちる。
「輪郭は、これでいい。」
灯は言い、布袋を背に回した。その横顔に、ふいに別の光が刺す。外からの光ではない。温室の内側の、どこにも属さない光。ぼくは気づかなかったのに、灯は気づいた。すぐに瓶の栓を閉め、層を浅くする。
「今の、見た?」
「いいえ。」
「なら、見なくていい。……たぶん、何もない。」
灯は「たぶん。」と言った。「決めつけない」ために置く言葉。「不安を増やさない」ための間。ぼくは頷き、赤から降りる。足裏のざらつきが消える。匂いの層はさらに浅くなる。撤収の手順。クリップの位置。布テープの端。梁の点滅の跡は残さない。ライトを短く二回、長く一回。返事は、灯の指先から。消灯。
帰り道。通路を抜ける手前で、灯が立ち止まる。通路の外に貼られた新しい紙が、風に一度だけ揺れて、また壁に戻る。白い紙。太い黒い文字。工事の注意。立ち入りの規制。細かい字の中に、見覚えのない名前。橘 司。役職の肩書。小さな印。
「……変わる。」
灯の声が、乾く。ぼくは紙を凝視しない。視線の焦点をずらす。ずらしたまま、文字の位置だけを体に入れる。
「読む?」
「読まない。――覚える。」
灯は頷き、紙から視線を外す。ぼくらは路地へ戻る。風が少し冷えた。油の匂いは薄く、柔軟剤は強く、湿り気は増えない。表へ出ない。出ないと決めたから、出ない。
商店街の角まで戻ると、花屋はすでにシャッターを半分下ろしていた。玲が中から手を振る。ぼくらは振り返さない。ここでは、振り返さないのが礼儀だと、もう知っている。
別れ際、灯が振り向く。
「今日の口伝、今夜で忘れて。」
```
「忘れる?」
```
「うん。合図と呼吸だけ残して、経路は私に聞いて。毎回、少しずつ変える。変えないと、線が固まって、誰かのものになる。」
「わかりました。」
忘れることが約束になる。覚えない勇気。ぼくは頷き、ライトをポケットの中で確かめる。金属はすでに体温だ。灯は胸ポケットを軽く叩き、瓶の重さを確かめる。
「また、すぐ。」
「すぐ。」
灯はそのまま踵を返し、薄い人の流れの向こうへ消える。ぼくは駅のほうへ歩き出す。足取りは軽い。足首の内側の痛みはもうない。信号のない横断歩道を渡りかけて、ポケットの中で電話が震えた。
画面には、家の番号。夜の時間帯にしては早い。ぼくは立ち止まり、深く息を吸う。赤い板の手前でやるべき呼吸を、ここでやる。通話を取る。母の声は少し高い。背後でテレビの音が小さく流れている。
「凛? 今、いい?」
「いいよ。」
「来月の法事、覚えてる? 日にち、言ったっけ。朝早いの。始発で来られる?」
ぼくは一瞬、言葉を探す。始発。朝。足音。ぼくの中で、温室の「朝の規則」が光る。夜明け前に散る。破ると目が強くなる。ぼくは見えない赤い縁に足を置きかけ、引っ込める。
「……うん。大丈夫。」
言ってから、胸の奥がわずかに軋む。「大丈夫」は便利な嘘だ。母は安心して、細かい時刻を続ける。ぼくはメモを取らない。合図の間隔だけが、指の中で残る。
通話を切る。ポケットの中でライトが小さく動く。ぼくは立ち止まり、目を閉じる。十呼吸。目を開ける。表通りの向こうで、看板の明かりが一つ消える。別の一つはちらつく。ネオンは滲まない。風は匂いを運ばない。ぼくは胸の中で、言葉を入れ替える。
――調整する。守るために。
歩き出す。階段を降りる。地下の空気は乾いていて、温室の湿りとは無縁だ。ホームに着く。人影はまばら。窓に映る自分の顔は、昨日よりはっきりしている。ぼくはポケットのライトに指を添え、点滅を一度だけ――しない。しないで、間隔だけを体に打つ。
地上で風が変わった気配が、遅れて地下まで届く。薄い層が、見えない輪郭を描いては消す。ぼくは目を閉じ、匂いのないところで、リナリアの青さを想像する。紙包みの重さのない重さが、掌の内でまだ続いている。家族の声と、張り紙の名前と、合図の間隔。いくつもの線が、重ならないように、静かに並ぶ。
電車が入ってくる。風が押し寄せ、広告の紙がめくれる。ネオンの滲みは届かない。ぼくは乗り込み、ドアの内側で息を吐く。次の夜、経路は変える。口伝は更新する。守るために忘れる。忘れるために、選んで覚える。
遠くの階段の上で、かすかな風が生まれた気がした。見えない輪郭が、夜の中に薄く立つ。ぼくはその気配に耳を澄ませ、目を閉じる。匂いは来ない。けれど、胸の中だけで、リナリアが微かに揺れた。