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第4話「普通って何?」

 昼の残り香がまだ街の角にくっついている。ガラス越しの太陽がビルの壁で砕けて、細かい粉みたいな明るさになる。学内の通路は乾いた空気が循環して、消毒液と紙の匂いが薄く残っている。歩くたび、靴底がきれいな床に音を渡す。音は軽いのに、背中のほうだけ重い。


 講義室の扉を押すと、空調が顔にあたる。ひやりとした風が目の膜を薄くして、世界が少し遠くなる。席に着く。教科書を開いたまま、ページの文字列は意味を持たずに並んでいる。昨夜の呼吸の数え方を思い出す。十で目を合わせる。ここにはそれがない。視線は散って、止まらない。


 「水城、最近どう? 元気?」


 前の席の女子が振り返って、笑う。彼女の指先には薄いピンクのインクがついていて、ノートの縁に小さな花の絵が並んでいる。瞬間、ぼくの口が勝手に言う。


 「元気。」


 言い終わった音が、自分の耳に硬く響く。嘘の音。言い直すタイミングは、すでに通り過ぎている。彼女は満足そうに頷いて、前を向く。ぼくの喉だけが乾き、舌の裏が紙みたいに張りつく。


 講義は、黒板の上で進む。先生の声は、録音した音を流しているみたいで、起伏がない。ぼくのノートには、日付と科目名だけがきれいに書いてある。中身は空白。ペン先が紙の上にいるのに、何も落ちない。隣の席の男子が、目立たないための笑い方をしている。教室全体が、「普通」の形に合わせて呼吸をしている。ぼくは何度も、息を合わせ損ねる。


 休み時間、廊下で佐伯に会う。彼は携帯をいじりながら歩いていて、イヤホンを片側だけ耳から外している。画面の明かりが顎の下を照らし、目の下に薄い影を作る。


 「お、凛。次、出る?」


 「出る。」


 「まじめだな。俺、後で録画でいいや。」


 「録画?」


 「ほら、上げてる人いるから。ノートも借りられるし。」


 佐伯は言いながら、カメラアプリを何気なく起動して、すぐに閉じた。癖みたいな動作だ。ぼくは視線を落とし、胸ポケットの芯のない重さを意識する。瓶はない。ライトはある。合図は、ここでは意味を持たない。


 「最近、どこか行ってる? 夜とか。」


 何気ない話題に見えて、少しだけ針がある。ぼくは笑って、肩をすくめる。


```

「家と駅の往復です。」

```


 「そっか。そういうときもあるよな。」


 佐伯は簡単に引き、イヤホンを戻した。彼の歩幅は一定で、流れの速さにぴったり合う。ぼくの足は、半歩だけずれて、すぐに人にぶつかりそうになる。謝って、端を歩く。空気の重さが少し変わる。窓の向こうで、雲が飛ぶ。雨にはならない。積み重なった何かが、降りたがる手前で踏みとどまっている。


 夕方、家の電話が鳴る。母の声は元気だ。近況を尋ねる言葉の裏に、心配の底が少し見える。


 「最近どう? ちゃんと食べてる?」


 「食べてる。元気。」


 二度目の「元気。」は、一本目より滑らかだった。言い慣れた嘘は、音が丸い。母は安心したように息を吐き、天気の話をした。ぼくは適当に相づちを打つ。通話の向こう側にある空気が温かくて、こちら側の空気が冷たい。遠い場所の温度差で、言葉が少しだけ歪む。


 電話を切ると、窓の外はすでに暗かった。ぼくはライトの位置を確かめ、上着のポケットに手を入れる。金属はすぐに体温を吸う。外へ出る。夜のはじまりは、昼の匂いを薄めない。むしろ、昼の匂いの上に夜の匂いを重ねて、濃度を増やす。排気と油と、どこかの店の香辛料。そこへ、思い出すように、茎の青さ。


 細い光が三回。間隔は正確で、短く短く、少し長く。


 「こんばんは。」


 灯は路地の切れ目で、髪を編んでいる途中だった。耳の後ろで指を止め、編み目を整える。胸ポケットの角が、暗がりに四角い影を作る。


 「来たね。」


 「来ました。」


 ぼくらは通路へ入る。赤い渡り板が夜に浮く。踏み出す前に、息を一度整える。嘘は置いていく。言い慣れたやつほど、ここでは重い。ポケットの中のライトが軽く動き、ぼくは輪郭を意識して指を静かにする。


 渡り板のざらつき。換気のファン。細い空。灯の肩越しの、汗と洗剤の匂い。瓶の栓が、控えめに鳴る。リナリア。今夜は、甘さの前で止まる青さに、ほんの少しだけ花の丸さが混じっている。「半歩」の配合。ぼくらは合図もなく、層の立ち上がりに身を合わせる。


 鉄骨の枠の前で、灯が振り向く。


 「今日は混ぜない。昨日と同じで行く。呼吸は十で合わせるけど、言葉は少なめで。」


 「はい。」


 灯は一歩、赤に乗る。ぼくも続く。二歩、三歩。板の端で、風が逆向きに吹く。灯はわずかに揺れて、すぐに戻る。


 温室の中は昨夜と同じに見えて、昨夜とは違う。音の重心が低い。匂いの膜が薄く、よく伸びる。ガラスの割れ目は新しいクリップで安定して、風が通っても鳴らない。灯は布袋から小さなガーゼを取り出し、ガラスの縁をそっと拭う。その手つきが丁寧で、ぼくは見とれる。


 「凛、今日、昼はどうだった?」


 灯はガーゼを折りたたみながら訊く。ぼくは短く息を吐く。赤の上にいるので、強がりは置いていく。嘘は軽いようで、ここでは足に絡む。


 「『元気』って言いました。」


 灯は視線だけでこちらを見る。責める目ではない。聞くための目だ。


 「そう言うの、上手い?」


 「上手いほうです。言い慣れてるから。」


 「言い慣れてるやつほど、ここでは重い。」


 灯はぼくの思考を先回りするみたいに言い、ガーゼをポケットにしまった。ぼくは頷く。足もとの赤の縁が、視界の端で波打つ。ぼくは片足の力を少し抜き、板を確かめる。ざらつきはいつもと同じ。揺れているのは板ではなく、自分の中だ。


 「普通、って言葉、今日どれくらい聞いた?」


 灯の声は低い。ぼくは指を折って、思い出す。


 「二回。『普通に大丈夫?』と、『普通に元気?』。」


 「普通に、ってやつ。」


 灯は口の端をわずかに上げ、瓶の蓋を半分だけ緩める。匂いが増す。


 「普通、って、誰が決めるんだろうね。」


 「たぶん、数です。多いほう。」


 「多いほう。」


 灯はその言い方を一度繰り返し、ガラスの向こうを見た。外では、救急車がサイレンを一つ伸ばしたあと、音を切る。層の上に残った音だけが、遅れてぼくらに届く。


 「私、昔、普通を信じようとしたことがある。」


 灯は言う。今夜の彼女の声は、いつもより近い。言葉が体温を持っている。


 「信じようとして、できなかった?」


```

「できないほうに、いるほうが楽だった。楽、って言い方も違うか。生きやすい、でもない。……呼吸が合う、に近い。」

```


 彼女は胸骨の上で、ゆっくり呼吸を整える。十の手前でぼくと目を合わし、また視線を落とす。ぼくの呼吸もそれに合う。時間は半分になる。音は丸く、光は滲む。


 「凛は?」


 「ぼくは、『普通』を疑ってるふりが上手いだけです。」


 「ふり。」


 「はい。疑ってる、と言うと、少し賢く聞こえる。ほんとは、ただ合わないだけなのに。」


 「合わない、でいいのにね。」


 灯は笑う。笑いは音にならず、匂いだけが少し甘くなる。


 「合わないことを、『普通じゃない』って言ってしまうの、嫌い。」


 ぼくは黙って頷く。言葉は少ないほうがいい。少ない言葉のまわりで、意味がしみ出す。


 灯は赤の端に足を寄せ、踵で軽く板を叩く。音は鳴らない。鳴らないけれど、ぼくの足首の内側で何かが反応する。昼の嘘の音。「元気。」の丸い音が反響して、足の筋の細いところを引っ張る。


 「……痛む?」


 「いいえ。」


 言って、すぐに気づく。板の上では、強がりは置いていくはずだった。言い直す。


 「いや、少し、引っ張られる感じがします。」


 その瞬間、板の縁に指を置いていた足が、わずかに滑った。軽い。ほんの半歩。足首の筋が、音もなく捻れる。熱ではなく、冷たい痛みが走る。灯がすぐに手を伸ばす。ぼくの肘を支え、体重を分散させる。呼吸を一度止めて、二度目で戻す。


 「ごめん、私が質問を重ねすぎた。」


 「違います。昼の『元気』の代償が今きました。」


 灯は目を瞬かせ、それから、短く笑った。笑いは小さく、でも確かだった。


 「そういうふうに言えるの、好き。」


 ぼくは足首を一度回す。痛みは鋭くない。位置を直せば、歩ける。灯は板から降り、ガーゼでぼくの足首の上からそっと押さえる。匂いがわずかに強くなる。青くて、やさしい匂い。


 「赤は約束を目立たせる。越えるとき、転ぶとき、置いていったものが目立つ。……昼の言葉は、ここに残る。」


 灯はそう言って、ぼくの靴紐を結び直した。指が器用に動き、結び目の形が整う。ぼくは自分の靴が自分のものに戻る感覚を、少し遅れて受け取る。


 「大丈夫?」


 「今度は、ほんとに。」


 言い直すのは、少し気持ちいい。言葉が体に追いつく。


 休むために、ぼくらは板から離れて座る。赤が目の端で浮き、触れないのに存在感だけが近い。匂いの層は薄く保たれ、外の音はゆっくりめに届く。灯は瓶を胸に戻し、手帳を取り出す。


 「今日の言葉、書いていい?」


 「どの言葉ですか。」


 「『普通』のあたり全部。あと、『ふり』。」


 「どうぞ。」


 灯は丸い字で二つの単語を書き、横に小さく印をつける。印は、すぐに意味を持たない。ただの点。それでも、記録は残る。写真じゃない。言葉の輪郭だけが、手帳の紙に沈んでいく。


 「ねえ、凛。」


 「はい。」


 「普通、って、人の数の多さに合わせることじゃないと思うんだ。……何に合わせるか、選べるってことの、通称かも。」


 ぼくはその言い方が気に入って、しばらく何も言わない。選べる、というところが、胸の奥を動かした。選べるなら、選びたい。選ぶことは、何かを捨てることに似ている。けれど捨てるのと違って、音がしない。静かな動作。ここに合う。


 「ぼく、選びます。」


 「何を。」


 「合わないこと。」


 灯は笑い、目を細めた。匂いが甘くなる前で、少しだけ丸く変わる。


 「それは、たぶん、普通。」


 ぼくは笑う。笑いは音にならず、息だけが静かに動く。


 時間は半分に縮んで、ふたりの間に積まれる。ぼくらは合図を一度だけ確認し、赤の上で走らない。「飛ぶ」代わりに、「留まる」を選ぶ。留まって、呼吸を数える。十で目を合わせる。そのたび、灯の眼の奥に、わずかな光が揺れる。外から跳ね返ってきたネオンの粒子が、層の内側で丸くなる。


 撤収の手順に入る。クリップの位置、布テープの端。瓶の栓。ライトを短く短く長く。返事。消灯。層の厚みが薄くなる。音の角が戻る。匂いは遅れて沈む。


 帰りの渡り板で、灯が一歩を置く前に、ぼくを見た。


 「足、ほんとに?」


 「ほんとに。」


 今度は嘘じゃない。ぼくは痛みの位置を確かめ、板に足を置く。ざらつきが靴底を掴む。もう滑らない。二歩、三歩。通路のファンが低く唸り、空は狭い線のまま変わらない。


 路地に出る前、灯が立ち止まった。


 「明日、早い?」


 「二限からです。」


 「朝の足音、聞かないうちに解散ね。」


 「はい。」


 灯は頷き、胸ポケットを軽く叩く。瓶は静かで、重さだけが残る。ぼくはポケットのライトを指先で確かめる。金属はすでに体温で馴染んでいる。


 路地に出る。ネオンは滲まず、正確に瞬く。人の流れは薄い。どこかで氷の割れる音。少し遠くの角に、立ち止まっている影がある。白いコードが夜に浮いていて、画面の明かりが顎の下を照らす。さっきの佐伯ではない。別の誰か。誰でもいい誰か。ぼくたちは素通りする。視線は一度も重ならない。背中に重さは残らない。けれど、記憶の端に、小さく折れて挟まる。


 別れ際、灯が振り向く。


 「凛。」


 「はい。」


 「普通は、借り物だよ。私たちは“選ぶ”。――忘れないで。」


 言葉は薄く、よく伸びて、ぼくの胸に折り畳まれて入る。ぼくは頷く。


 「忘れません。」


 灯はライトを一度だけ点滅させ、闇へ溶ける方向へ歩き出した。ぼくも駅へ。階段を降りる。地下の空気は乾いていて、昼の冷気に似ている。でも違う。今は、匂いの層が体に薄く残っている。足首の内側に、小さな痛み。代償は軽くて、意味は重い。


 ホームで目を閉じる。十呼吸。目を開ける。時計の針は、外の時刻を正確に示す。ぼくの中の時間は、半分の密度で積まれている。そこへ、昼の言葉が遅れてやって来て、もう一度くるりと反響する。「元気。」。丸い音。ここでは、重い。重いから、置いていく。


 電車が来る。風が押し寄せ、広告の紙がめくれる。ネオンの滲みは届かない。ぼくは乗り込み、ドアの内側で息を吐く。窓に映る自分の輪郭は、昨日より少し濃い。唇の端が、わずかに上がる。音にならない笑いが、喉の奥でほどける。


 次に会うとき、ぼくはきっと、言い慣れた言葉を持っていかない。代わりに、選ぶための沈黙を持っていく。合図は覚えている。二度短く、一度長く。誰にも。誰にも言わない。朝の足音を、まだ遠くに聞きながら、ぼくは目を閉じた。リナリアの青い匂いが、ほんのわずか、遠くから届いた気がした。


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