第3話「体感二分の一」
風の層が変わる。昼の熱が残っているのに、夜のはじまりが背中から降りてくる。看板の光は相変わらず不揃いで、欠けた電球のぶんだけ影が多い。湿度は低いのに、匂いだけは満ちている。アスファルトの温度、排気の残り香、遠くの揚げ油。そこへ薄く、茎の青さが重なる。歩幅が自然に短くなり、ぼくは速度を落とす。
細い光が、三度、間隔を置いて瞬いた。昨日と同じ間隔。二度短く、一度長く。
「……こんばんは。」
灯は路地の切れ目にいて、髪を後ろでまとめていた。指に絡んだ輪ゴムを抜き、顎の下で結び直す。胸ポケットはわずかに膨らんで、瓶の角が布越しに冷たく押し出されている。
「間に合った?」
「間に合いました。」
ぼくの呼吸は整っている。灯は口角だけで笑い、踵を返す。通路の入口には、赤い渡り板。夜の中で、赤だけが夜から切り離されている。ぼくは足先をのせる前に、短く息を吸って吐く。嘘は置いていく。強がりも置いていく。昨日、覚えたとおりに。
渡り板のざらつきが靴底をつかむ。換気のファンが唸り、狭い空の線が細くなる。灯の肩先には、汗の匂いがほんのわずか混ざっている。そこへ瓶の栓の音。空気がやわらぐ。リナリアの匂いが、今夜は初めから甘さの手前まで広がった。
鉄骨の枠の前で、灯が立ち止まる。ガラスは昨夜の位置で留められ、クリップが均等に光を受けている。灯は瓶の口を指で押え、ぼくを見る。
「今日は、混ぜる。」
「混ぜる?」
「匂いの層。リナリアを少し薄めて、別の青さを足す。時間の感じ方を、試したい。」
灯は布袋から小さな遮光瓶を三つ出した。ラベルには、短い手書きの記号。B/G/W。ぼくが首を傾げると、灯は説明を付け足した。
「Bはベース。Gはグリーン、葉っぱの青さ。Wはウォーター、湿った感じ。どれも強くない。混ぜる比率で、層の厚みが変わる。」
「厚み。」
「匂いを強くすると、細部の解像が上がる。でも、時間が薄くなる。逆に、匂いを薄くすると、輪郭は少しぼやけるけど、時間が伸びる。……仮説。」
ぼくは頷く。仮説、という言い方は頼りないようで、安心する響きもある。灯はスポイトを手に取る。遮光瓶の口に差し、慎重に落とす。一滴、二滴。リナリアの瓶の口で、音もなく混ざる。灯は瓶の上の空気に指先を差し入れるような動作をしてから、蓋を閉めた。
「合図、お願い。」
ぼくは一歩だけ前に出て、喉を整える。胸の中で、言葉の形がぴたりと収まる。灯は待っている。待つことに慣れた人の姿勢で。
「――Behold。」
「nobody。」
言い終わるのと同時に、空気の温度が半歩下がる。割れたガラスに、割れていない面が薄く重なる。鉄骨の黒は、葉の影で縁取られる。匂いはさっきより青く、湿り気がほんの少し増えた。光の粒子が丸くなり、音の角が鈍る。
「今の、覚えておいて。ベース三、グリーン一、ウォーター零。」
灯は手帳に短い線を引き、時間を書き込む。ぼくは腕時計のリューズを引いて、秒針を止めた。いつもの癖で、時間を正確に測ろうとして、すぐにやめる。ここでは、正確さが別の形をしている。
「測り方を決めよう。」
灯は言って、地面に膝をついた。足もとに落ちた細い枝を拾い、赤い渡り板の脇に置く。ぼくもしゃがむ。鉄骨の影が、二人の腕を斜めに横切る。
「呼吸で測る。十に一度、視線を合わせる。それで、外の時間の半分に感じるか、三分の一に感じるか、話そう。」
「十呼吸ごとに、目を合わせる。」
「うん。呼吸は浅くないやつ。舞台の前の吸い方。」
舞台、という言葉に灯の過去の輪郭が薄く触れる。彼女の胸骨の動きが、音にならないリズムで上下する。ぼくもそれに合わせ、吸い、吐く。吸い、吐く。匂いが肺の奥のどこにも引っかからずに通る。十の手前で、灯の視線が上がり、ぼくの眼と重なる。短く、静かに、笑う。それを三度繰り返すころには、手首の脈の速度が、外界から半分だけ切り離されている。
「どう?」
「半分より、少し短い気がします。」
「うん。私も。じゃあ、次。」
灯は手帳にもう一本線を引き、瓶に少しだけWを足した。湿度の記号が鼻の奥にだけ増す。匂いの形は変わらない。けれども、音の隙間にやわらかい水の膜が張られる。ぼくたちは同じルールで呼吸を数える。十に一度、目を合わせる。光は丸いまま、周縁だけすこし滲む。外から通り過ぎる救急車のサイレンが、何拍か遅れて届く感じがする。
「これは?」
「半分。ちょうど半分くらい。」
「同意。」
灯は嬉しそうに頷き、瓶の蓋をきゅっと閉めた。手帳の端に、×印。ぼくは腕の上で細かく立つ産毛の感触に気づく。怖いわけではない。けれど、確かに境目の上を歩いている。線の上。赤い板の縁には指を置かない。置かずに、影をまたぐ。
実験は三通り。ベースが多い配合では、輪郭がくっきりしすぎて、時間は短縮される。グリーンを増すと、匂いの上で思考がとどまり、会話が遅くなる。ウォーターを少しだけ足した配合で、呼吸のリズムが外界と半分ずれる。それが今夜の「正解。」らしい。
「これなら、外の三十分を、こっちで十五分にできる。」
灯は言って、手帳を閉じた。ぼくは時計を見かけて、やめる。数字に合わせに行くと、層がひずむ気がする。代わりに、手のひらで赤の縁を軽くなぞった。ざらつきが皮膚の水分を持っていく。塗膜の粒が微かにこぼれる。
「触り方、うまいね。」
灯が言う。ぼくは肩をすくめる。
「壊さない程度に試すのが得意です。」
「いいこと。ここは、壊さないのが一番の技術。」
灯は瓶を胸元に戻し、代わりに布袋の底から細い紐を引っ張り出した。巻き尺だった。店のロゴが薄く擦れている。
「距離も測りたい。匂いの層が、どこまで届くか。」
「ぼくが動きます。」
「お願い。私がここで配合を保つ。一歩ごとに、合図。」
ぼくは渡り板の手前に立ち、ライトを左手に持つ。灯は、ガラスの割れ目のところで瓶を支え、目を閉じた。ぼくは一歩。ライトを短く二度、長く一度。灯が同じ間隔で返す。匂いはまだ変わらない。もう一歩。返事が少し遅れる。もう一歩。匂いの青さが薄くなり、代わりに温室の鉄と埃の匂いが出てくる。灯が目を開けた。
「そこ。そこが境目。……戻って。」
ぼくは二歩戻り、匂いの膜に再び包まれる。灯の肩の力が、目に見えなくても緩むのがわかる。
「ここからここまでが“庭”。それ以上は、ただの建物。」
「ただの建物。」
「それも嫌いじゃないけどね。」
灯は笑い、巻き尺の数字を手帳に写した。ぼくはライトを消す。配合を変え、境目が数十センチ動く。層は呼吸みたいに縮む。広がる。ぼくたちはその変化に合わせて立ち位置を変え、互いの距離を短くしたり、長くしたりする。近いと、匂いは甘くなる。遠いと、青さだけが残る。
「体感、半分。」
灯が呟く。ぼくは頷き、合図のスイッチを指先で弾く。
時間の密度が変わる、と灯は言った。たしかに、ここにいると、会話の間が広がるのに、時計の針は追いつかない。ぼくは話そうとした言葉のいくつかを、話さないまま手の中で温める。言葉はすぐに形を変え、別の言葉になる。灯はそれに気づいている。気づいていながら、何も言わない。ぼくも言わない。そうやって、合図だけが行き来する。
合図の節の間に、外の音が挟まる。遠くの笑い声、どこかのドアの閉じる音、バイクの排気。どれも、今夜は少し遅れて届く。遅れているのは音のほうか、ぼくらの時間のほうか。判断できないことが、少し気持ちいい。
「……これ、外でもできたらいいのにね。」
灯が言う。ぼくは首を振る。
「外は、目が強い。」
「そう。目の強いところでは、匂いは弱い。だからここに戻る。」
小さな回路図が、会話の裏で描かれていく。匂い→層→時間→目→場所。どれかが強くなれば、どれかが弱くなる。バランスを崩さないように、配合を調整する。灯の手の中の遮光瓶は、小さなフェーダーに見えた。
「ねえ、凛。」
「はい。」
「この配合、名前つける?」
「名前?」
「呼ぶたび、同じ場所に戻りやすくなる。」
ぼくは少し考え、言った。
「……半歩。」
灯は目を細め、笑った。
「いい。半歩。外から、半歩だけ外れる。」
灯は手帳に「半歩」と書く。その字は、驚くほど丸かった。ぼくはその丸さに少し安心し、息を整える。こういう安心を、無闇に外に連れて行かないと決める。連れて行くと、すぐに名前が変わってしまうから。
実験を終えるころ、空気の重さが微かに変わった。遠いところで温度が一度だけ上がり、戻る。ぼくの体内の時計が、朝への坂道のふちを意識する。灯は瓶の蓋を閉めた。その動作は、いつもより一段だけ慎重だった。
「もう一本、だけ。走ろう。」
灯は立ち上がり、赤の手前に立つ。ぼくも立つ。合図を合わせる必要はない。合図は、足音に混ぜる。
「嘘、なし。」
「なし。」
足裏が赤を掴む。二歩、三歩。鉄骨の間を、細い風が逆らって吹く。渡り板は長くない。けれども、その数歩のなかに、夜が凝縮される。板の端で灯が少しだけ跳ね、ぼくもつられて軽く跳ねる。赤は鳴らない。鳴らないのに、ぼくらの内側にだけ音が立つ。短い音。軽い音。呼吸は乱れない。笑い声は出ない。出ないのに、笑っているのがわかる。
板を渡り切り、二人で同時に振り返る。赤が、夜の中に浮かぶ。ぼくらが今通ってきた数歩の痕跡は、何も残していない。残さないで、残っている。体の内側にだけ。
「飛んだね。」
灯が言う。ぼくは頷く。飛んだ、と言われて、そうだと思う。飛んだ、のなかに、走った、も、渡った、も、含まれている。言葉は簡単で、意味は多い。今はそれでいい。
撤収の手順は昨日と同じ。クリップの位置、布テープの端、瓶の栓。ライトを一度だけ点滅させ、返事を受け取ってから消す。層はゆっくり浅くなり、外界の音の角が少しずつ戻る。
帰りの通路で、灯が足を止めた。ぼくも止まる。換気のファンの唸りの向こう側で、別の気配が、ほんの一瞬だけ、止まった。足音ではない。視線の重さ。ぼくは振り向かない。灯も振り向かない。二人とも、赤の縁から足を外す。
「……行こう。」
灯が先に動く。ぼくも従う。通路の出口に近づくほど、匂いは薄くなり、街の光は固くなる。路地へ出る直前、ぼくは自然にライトに親指を置いた。点滅はしない。ただ、触れる。灯は胸ポケットを軽く叩く。瓶の重さが布越しに移る。
路地に出ると、風がゆるい。ネオンは滲まない。人の流れはまばらで、角で立ち止まっている背の高い影が一つ。白いイヤホンのコードが、夜の中でやけに目立つ。スマートフォンの画面が、顔の下で小さく光る。影はただ立っているだけで、何も起きない。ぼくたちは素通りする。視線は前へ。足音は一定に。灯は何も言わない。ぼくも何も言わない。通り過ぎたあと、背中に重さは残らない。残らないが、記憶の端に小さく折れて挟まる。
「今日の結果、忘れないで。」
灯が言う。ぼくは頷く。
「半歩。ベース三、グリーン一、ウォーター一。呼吸十で目を合わせる。」
「正解。」
灯は満足そうに笑い、いつものように別方向に歩き出す。別れる直前、三歩手前で振り向き、ライトを一回だけ点滅。ぼくは同じ間隔で返す。
「朝の足音、聞く前にね。」
「はい。」
ぼくは駅へ向かう。赤の粒が靴底に残っている気がして、歩幅が整う。階段を降りる。地下の空気は乾いていて、温室の湿りはすっかり剝がれる。改札前のデジタル時計は、夜の終わりに近い時刻を示している。ぼくはホームに降り、柱にもたれ、目を閉じる。十呼吸。目を開ける。電車はまだ来ない。外の三分の二の時間が、こっちは半分になっていたのだと、今さらのように胸が理解する。
ホームの端に、さっきの背の高い影に似た人が立っている。偶然だろう。白いコードがまた光った。こちらを向いている気配はない。ぼくは視線を逸らし、ライトの位置を確かめる。ポケットの中で、金属はもう体温を持っている。瓶はないのに、鼻の奥に、リナリアの香りがほんのわずか残っている。甘くなる前の青い匂い。薄い水の膜。半歩だけ外れた時間。
電車が入ってきて、風が押し寄せ、広告の紙がめくれる。ネオンの滲みはここまで届かない。ぼくは乗り込み、ドアの内側に立つ。窓に映る自分の輪郭は、昨日よりまた少し濃い。胸の中で、十呼吸のリズムが続く。
――次も、半歩で。
声にはしない。言葉の形だけを胸に置いて、ぼくは目を閉じる。風が薄く、そして遠く、リナリアの匂いを運んだ気がした。