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第2話「Behold」

 夜の底は、昨日より浅い。風が少しだけ湿っていて、街全体の匂いが薄められている。看板の電球が欠けた店先をいくつか過ぎると、裏路地の空気がすっと細る。鼻の奥に、茎の青さがひっかかる。ぼくは立ち止まらず、速度を落とす。視界の端で、細い光が三度だけ瞬いた。


 ――合図。


 路地の切れ目に、灯が立っている。黒いフードを下ろし、顎にかかる髪を指で払う。胸ポケットが少しだけ膨らんでいて、瓶の角が布越しに見えた。


 「来た。」


 「来ました。」


 ぼくの声は、思ったより落ち着いていた。灯は口角だけで笑って、踵を返す。吸い込まれるように、昨日と同じ細い通路へ入る。赤い渡り板は、夜の中で相変わらず現実味を失っていない。ぼくは足をかける前に、彼女を呼び止めた。


 「昨日、言ってたルール。渡る時は、嘘をつかない。」


 灯は振り向き、赤を見た。それからぼくを見た。


 「うん。ここから先は、変な強がりとか、平気なふりとか、そういうのを置いていく。置けなかったら、戻る。」


 「戻る。」


 「転ぶよりいい。」


 彼女の言い回しは淡々としていて、脅しには聞こえない。ぼくは頷き、視線を下げる。渡り板の表面は粗い砂で、靴底を受け止める準備ができている。最初の一歩は、昨夜より少しだけ確かだった。


 通路の途中で、換気のファンが唸りを強めた。湿った風が後ろから押し、ぼくのフードをめくる。灯は肩越しに、「大丈夫?」とだけ言う。ぼくは「大丈夫。」と答えかけて、言葉を飲み込んだ。彼女のルールを思い出す。大丈夫、は便利な嘘だ。


 「……少し、怖いです。でも行けます。」


 「それでいい。」


 灯は軽く頷き、赤の向こうへ消える。ぼくは一歩ずつ間を詰める。鉄骨の枠が近づき、割れたガラスの輪郭が闇の中で立体を取り戻す。昨夜より、匂いが弱い。瓶はまだ閉じているのだろう。音は、角が丸くなる寸前の硬さだ。


 温室の入口で灯が立ち止まる。胸ポケットから小瓶を取り出し、栓を指で転がす。ふっと空気の層が薄くなって、リナリアがにじむ。灯はぼくに向き直った。


 「合図、覚えてる?」


 「はい。」


 「今日は、私が先じゃなくてもいい?」


 ぼくは一瞬だけ迷い、それから頷いた。喉が乾いてはいないのに、からりと音を立てる。胸の中で言葉の形だけが出来上がる。灯が目を細める。待っている。


 「――Behold。」


 自分の声なのに、いつもより芯がある。応える声が、すぐに落ちてきた。


 「nobody。」


 辺りの厚みが、すとんと一段落ちた。割れたはずのガラスへ、亀裂のない面が薄く重なる。鉄骨の黒が、植物の影で縁取られる。温度が半歩下がり、風の向きが変わる。ぼくは息を吐く。吸い込む。匂いが増える。灯が、いつのまにか近い。


 「うん、上手。合図のあと、すこし待つの。匂いが追いつくのに、少しだけ時間がいる。」


 「待てば、来る。」


「だいたいね。」


 灯は空気の厚みを測るみたいに掌を上下させ、それから温室の奥を指した。枠の向こうに、赤い渡り板がある。昨夜見えた、それ。今夜は、より明るい赤だ。夢の層の中で、危険の印はかえって鮮やかになるらしい。


 「今日は、少しだけ直そう。」


 灯は肩から下げた布袋を開けた。中には、細い針金、布テープ、ビニール手袋、古い雑巾、それから小さなドライバーと金属のクリップがいくつか。ぼくは思わず笑ってしまい、灯が首をかしげる。


 「準備がいいですね。」


 「これでも店で働いてるから。水漏れとガラスには慣れてる。」


 「店?」


 「花屋。隣がカフェ。夜は向こうで皿洗い。昼はこっち。」


 「こっち。」


 灯の指先が、鉄骨の節をなでる。柔らかい、でも切れるかもしれない場所。ぼくの手は自然に金属へ伸びる。自転車のブレーキを直したときの指先の記憶が蘇る。小さなネジなら任せて、と口に出すべきか迷い、やめる。言えば上手くやらなければいけなくなりそうで、今はただ、触っていたい。


 「これ、はめたい。」


 灯が示したのは、内側に折れたガラス片の端だった。外に出ていくほど鋭い。ぼくは軍手を袋から取り出し、灯に手渡す。自分も手袋をはめ、金属クリップを一つひらく。


 「固定します。少し押さえていてください。」


 「うん。……平気。」


 平気、という言葉が赤の上をかすめた。同時に、渡り板の上の灯の足が、わずかに滑る。ぼくは反射的に身体を寄せ、ガラスの端を庇うように肘を突き出した。ガラスの縁が、布を通して皮膚を撫でる。鈍い痛みが遅れてやってくる。灯が小さく息を呑んだ。


 「ごめん、今のは嘘。平気じゃなかった。」


 ぼくは笑って、肘を見た。軍手の手首のところが、細く切れている。血は出ていない。赤い渡り板の上に、白い糸くずみたいな布片が落ちた。


 「大丈夫です。ほんとに。」


 「ううん、代わりに私が謝る。ルール破った。」


 灯は渡り板から慎重に降り、息を整えた。リナリアの香りが、さっきより青い。甘さの前で留まる匂いが、切り傷に冷たく触れる気がする。ぼくはクリップをつけ直し、ガラスの端を受け止めた。小さな音で、金属が閉じる。割れ目は消えないが、鋭さは少し鈍る。


 「ありがとう。」


 「いえ。……ルール、効くんですね。」


 「効く。赤の上は、嘘に敏感。」


 灯は冗談の調子を戻しかけて、それでも目だけは真面目だった。ぼくは頷き、もう一つのガラス片に手を伸ばす。温室の骨組みは、触っているとわかってくる。どこが強く、どこが弱いか。どこを押せば音が鳴り、どこを押さえれば静かになるか。ぼくの指先は、自分の居場所を思い出す。


 修繕は長引かなかった。二人で黙って、少しずつ角を丸くする。灯が瓶の口を軽く指で押さえて、匂いを少しずつ足す。層は一定の薄さを保ち、外の音だけが時々濃くなる。通りすぎる救急車のサイレン、遠くの踏切の鐘、隣のビルのガラスに反射する光。ぼくたちはそのたびに動きを止め、やり過ごす。


 「水城君。」


 「はい。」


 「ここ、写真は、撮らない。」


 灯は言った。瓶の栓を戻しながら、言葉を選んでいるのがわかる。


 「撮らない、ですか。」


 「うん。撮ると、外のほうが強くなる。写ってしまうと、“場所”になりすぎる。」


 「場所、になりすぎる。」


 「説明できるものになると、誰のものでもなくなくなる。……矛盾してるけど、そういうことって、あるから。」


 ぼくは頷いた。矛盾の形を、ガラスの影の中に見た気がする。


 「わかります。言葉にした途端に、違ってしまうことがあるから。」


 「そう。だから、ね。記憶で持って帰る。匂いがそれを助ける。……例外は、いつか一度だけ。」


 「一度だけ。」


 灯は自分で言って、少し笑った。


 「未来の話。今はまだ、約束だけ。」


 「約束します。ここは、撮らない。」


 ぼくの声は、さっきより柔らかい。灯は「ありがとう。」と言って、懐中のライトを取り出した。小さな光が指先で跳ねる。点滅の間隔が、少し規則的だ。二度短く、一度長く。


 「これは?」


「合図の準備。もし離れても、これで見つけ合えるように。夜の海で、灯台みたいに。」


 「灯だけに。」


 言ってから、自分の言葉に苦笑する。灯は肩を落として笑い、それから顔を上げた。


 「私のほうが、少し高く点滅。あなたは、少し低い。音じゃなくて光で呼ぶ。」


 「見間違えませんか。」


 「見間違えない。匂いも足すから。」


 灯は胸ポケットを軽く叩いた。瓶はもう閉じているのに、匂いはまだ層の隅に残っている。ぼくはライトを受け取り、持ち方を覚える。掌にすっぽり入る大きさ。スイッチを押しすぎると点滅が乱れる。指の腹で、そっと押す。


 修繕を終えて、ぼくは渡り板の脇に座った。灯も隣に腰を下ろす。赤の縁が二人の靴の間にある。彼女は瓶を取り出し、今度は栓を開けずに眺めるだけにした。ガラス越しに揺れる液体に、外の光が小さく折りたたまれる。


 「どうして、ここを教えてくれたんですか。」


 自分でも驚くくらい、真ん中に入った質問だった。灯は少しだけ間を置き、視線を瓶からぼくに移した。


 「匂いを拾う歩き方をしてたから。」


 「歩き方。」


 「音より先に匂いで止まった。昨日。そういう人は、うるさい場所で静かにできる。……静かにできる人は、静かな場所を壊さない。」


 ぼくは、言葉の裏を探さなかった。そのままの形で受け取ることにした。理由が真っ直ぐなほど、疑う手が奥から出かける。けれども今は、出番がない。


 「ありがとうございます。」


 「どういたしまして。」


 灯は瓶を仕舞い、手のひらを擦り合わせた。手袋を外した指の腹に、ガラスの粉の感触が残っているのかもしれない。ぼくは自分の肘を見た。布のほつれから覗く皮膚は赤くはない。傷は、匂いに撫でられて眠っている。


 「ねえ、水城君。」


 「はい。」


 「朝になる前に、終わるからね。」


 「はい。」


 「これ、すごく大事。朝は光のほうが強い。匂いは弱くなる。弱くなると、層が薄くなる。薄くなると、誰かの目が強くなる。目が強くなると、ここはすぐに“場所”になる。」


 彼女の説明は、図解なしの図解のようだった。ぼくは頷き、赤を見た。赤は、夜の中に安定している。光が強くなると、別のものに見えるかもしれない。


 「朝の規則、ですね。」


 「そう。だから、今夜はこのあと、合図を一度だけやって、帰る。」


 「合図。」


 灯は立ち上がり、ぼくに手を差し出した。手袋を外した手は温かい。引かれて立つと、層の温度がわずかに沈む。ぼくは深く息を吸い、吐く。


 「Behold。」


 灯の声は、昨夜より静かだった。ぼくは笑って、答える。


 「nobody。」


 層が、いちど、波打つ。匂いが濃くなる。割れたはずのガラスの面は、今だけ滑らかだ。灯が小さく頷く。二人の距離が、数センチだけ縮む。何も起きない。起きなくていい。起きなかったことが、今夜の出来事になる。


 時間は、指で摘まめるくらい短くて、やけに重い。ぼくたちはその塊をしばらく握って、それからそっと置いた。灯がライトを一度だけ点滅させる。ぼくも同じ間隔で返す。合図は短く、きれいだ。


 撤収の手順は静かだ。クリップの位置を確認し、布テープの端を押し直す。落とした糸くずを拾い、雑巾で赤の縁を軽く拭く。瓶の栓が、今度は確かに閉まる。匂いは層の奥へゆっくり沈む。


 帰りの渡り板で、灯が小さく息を吐いた。


 「さっきの“平気”、ほんとにごめん。」


 「大丈夫です。……いや、大丈夫、は危ない言葉でした。」


 「はは。そうだね。」


 灯は笑い、真顔に戻った。


 「ありがとう。庇ってくれて。代償、軽くてよかった。」


 「代償。」


 「赤は、約束を目立たせる色。越えるときは、いつも何かが置かれて、何かが渡される。今日は、小さな傷と、少しの理解。」


 ぼくは頷いた。言葉の形が、板のざらつきに合う。足音をなるべく小さく、通路を戻る。換気のファンの音が大きく、途中でリナリアの匂いが薄くなる。層は薄く、さらに薄くなり、そして落ちる。現実が表に出る。


 路地に戻ると、夜の湿度は変わらず、しかし音は多い。氷の割れる音が近くでして、遠くで笑い声が起きる。ネオンは滲まず、正確に瞬く。ぼくはフードを直し、灯を見る。彼女は胸ポケットを軽く叩いてから、ぼくの手に小さなものを握らせた。


 「これ、持ってて。」


 掌の上で、冷たい金属が転がる。ライトだった。ぼくがさっき触っていたのと同じ、細いもの。灯は別のライトを自分のポケットに戻す。


 「同じのを二つ。間違えないように、あなたのはテープを一回多く巻いてある。」


 見ると、グリップの端に透明のテープが一巻き分だけ余計に光っている。


 「返すときは?」


 「返すと、きっと“場所”になる。だから、返さなくていい。なくしたら、その時だけ言って。」


 「なくしません。」


 言ってから、その言い切りが心地よいことに気づく。灯は満足そうに頷いた。


 「じゃあ、今日はここまで。……朝の足音、聞こえる前に。」


 ぼくらは同じ方向へ歩かない。灯は来た道と逆へ、ぼくは駅へ。別れる直前、灯が振り向いた。


 「凛。」


 「はい。」


 「次、合図の先に言ったほうが、会いたいほう。」


 「覚えてます。」


 「じゃあ、競争。」


 彼女は笑い、三歩で人の気配の薄い側へ消えた。ぼくはライトを握り直し、ポケットの中で位置を決める。指が自然にスイッチの膨らみを探し当てる。


 階段を降りると、地下の空気は夜より冷たく、乾いている。改札の向こうで、終電に間に合わない人たちが走っていく。ぼくは走らない。階段の途中で、上から風が降りる。どこにも瓶はないのに、リナリアの匂いが一瞬だけ混ざる。


 朝の足音を、今日は聞かない。駅の時計はまだ夜の時刻を示している。ぼくはホームへ降り、電車が来るまで、ライトの点滅を一度だけ試した。二度短く、一度長く。誰も気づかない。それでいい。


 ポケットの中で、金属が体温を吸う。肘の傷はもう忘れかけている。忘れかけているのに、忘れないものだけが残る。赤の縁、ガラスの端、匂いの層。写真がなくても、思い出は形になる。形になるけれど、誰にも見せない。


 電車が入ってきて、風が押し寄せ、ホームの紙がめくれる。ネオンの滲みはここまで届かない。ぼくは乗り込み、ドアの内側で息を吐いた。窓に映る自分の輪郭は、昨日より少し濃い気がした。


 秘密は、約束のかたちで体に残る。渡り板を渡る前に、嘘を置いていくこと。朝になる前に帰ること。撮らないこと。合図を忘れないこと。どれも簡単で、どれもむずかしい。守られるたびに、守るべきものの形がはっきりする。


 電車が動き出す。トンネルに入る前、遠くの空が一瞬だけ薄くなる。夜と朝の境界は、まだ遠い。ぼくは目を閉じ、ポケットのライトを指で軽く叩いた。点滅のリズムが、皮膚の内側で弾む。


 ――次は、どっちが先に言うだろう。


 問いは声にならない。風と一緒にほどけ、闇に混ざる。いい夜だ。朝の気配を、今日はちゃんと、やり過ごせる。


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