第11話「封鎖」
金属が擦れる乾いた音が、夜の縁をいびつに削る。風に鳴るのは葉ではなく、南京錠だ。柵の目はこの数日で狭くなった。鎖は新しい。塗装の傷まで均一に整っていて、どれも同じ硬さをしている。ロックの腹に小さく刻まれた番号が延々と並び、夜の呼吸を数字の列に置き換えていく。
ガラスは触れないところまで退き、温室の入り口には黄色と黒のテープが二重三重に巻かれている。そこへ新しい札が追加された。注意喚起の文字は太く、インクがまだ固まり切っていない匂いがする。ぼくは札を読む振りをして、匂いだけを受け取る。甘くない、印刷の匂い。ここ数日は、こういう匂いばかりを覚える。
「増えたね。」
隣で灯が言っていた声を思い出す。昨夜まではいた。今夜は、その声がいない。封鎖の知らせが張られた午後、灯から短いメッセージだけが届いた。「今夜は行かない。様子見。」。それで合図は止まる。Behold の文字は、喉の奥で丸いまま動かない。喉の丸さが、胸に降りる。胸の丸さが、足元に降りる。足は柵の影の端で止まり、ぼくは鍵の面に映る自分の影を見つめる。
遠くで車の音が切り分けられ、ネオンは湿り気に負けて輪郭を失い、色だけが路面へと染みる。リナリアの群れは向こう側にある。向こう側は今夜、「向こう側。」のまま固定されている。懐中電灯 を点ける意味がないとわかっているのに、親指が勝手にスイッチを撫でてしまう。光はポケットの布越しにひとつ息をし、また眠る。
封鎖。言葉は軽い。実際は重い。鎖一本一本の重さが、柵の線を太くしている。ぼくは金属のしわに沿って視線を動かす。死角はない。見逃しもない。昼間、作業員が規則正しく打ち込んだ結束バンドが、間隔の均一さでこちらを黙らせる。均一であることは、逃げ道が偶然に出来ないことの別名だ。
ポケットの中で軽いものが沈む。使い捨てカメラ。輪ゴムの×印は、そのまま。取り出さない。ここで取り出すのは約束の外だ。撮らないから守れるものがある。撮らないから立ち上がる匂いがある。頭ではわかっているのに、指は×印の位置を探す。探して、止める。
画面の向こうでは、別の鎖が鳴っている。今日の夕方から、コメント欄は伸び続けた。再生数の数字はいつもより速く回る。サムネイルには抽象的な温室の図と、光の筋のイラストが重なり、タイトルはあいまいに煽る。佐伯の声は抑えめで、いつものやわさ。けれど、切り抜きが切り抜きを呼び、見知らぬ誰かの指先が、場所を特定しようと地図の上に仮想のピンを落としていく。
「誰かが夜中に花を撒いてるらしい。」「赤い板があるって話。」「昔の温室がまだ残ってる?」
画面の向こうのその声は、嘲りではない。楽しげでもある。探す遊びは、楽しさの加速装置だ。ぼくは気づかないふりをして、再生を止めた。けれど脳の中の画面は止まらない。コメント欄のグレーの文字列が、柵の札の文字と重なる。文字は、匂いを持たない。だから、ぼくの鼻は無職みたいになる。働きたがっているのに、働けない。
あの日、ぼくらが朝の影を長引かせ、写り込みを置いてきたのが引き金になったのか。佐伯は「似た影」を切り抜き、言葉を濁して伸ばした。彼はぼくらを悪者にはしなかった。ただ、見つける喜びに火を足した。火は、風がなくても広がる時がある。今日の夕方がその時だった。
柵の角に回り込み、別の面を確かめる。南京錠は等間隔。結束バンドは新しい。柵の内側に積まれていた木箱は、すべて保管庫に移されている。ぼくらが整えてきた渡り板は見えない。内側にあった赤い表面は、今夜は遠い。代わりに、外にある赤いものが、視界の端でこちらを呼ぶ。
工事用の廃材置き場。仮囲いの白い内側に、色の抜けかけた板や鉄骨が無造作に寄せられている。その中に、剥がれかけでも赤い粒子をぎっしりまとった板が一本、斜めに立て掛けてある。幅も厚みも、あの渡り板とほとんど同じ。ぼくの目と手が、同時に前に出る。
持っていけば、戻せるかもしれない。向こう側に、あの赤の足場を一枚だけ還せるかもしれない。ポケットの中のカメラよりも、目の前の板のほうが、今夜は現実的に見える。倫理線、という言葉が頭で鳴る。柵の鍵を複製しない。持ち出さない。そう決めていたのは、鍵の話だけだ。板は鍵ではない。
――違うかもしれない。
心のどこかで、別の声が言う。「違う」じゃなくて、「同じ」。場所を支えるものを、無断で運ぶ。それは鍵の輪の別の歯をこじ開ける行為だ。ぼくは手を止める。止めたはずの指が、板の角に触れてしまう。角が皮膚を撫でる。ざらついた粒子が、薄い皮をほんの少し剥がす。痛みは小さく、しかし即座に自己主張する。代償はいつも、そういうふうにやって来る。
それでもぼくは、持ち上げてしまう。重さは片手で抱えられる程度。肩に乗せると、赤い粒がシャツの布に摩擦の音を残す。歩き出す前に、鉄骨が崩れかけて軽い音を立て、ぼくの体が反射で捻れる。板の端が仮囲いに当たり、カン、と派手でないのに遠くへ届く音が出た。しまった、と思うより先に、仮囲いの外側から足音が早まるのが聞こえた。
「おーい、ちょっと!」
作業員の声。夜勤の見回り。ぼくは板を肩から下ろす。下ろす時、重さが一瞬増える。増えたのは重さではなく、躊躇なのだと思い直す。ぼくは板を元の位置へ戻す。赤い粒子が手のひらに移る。掌を擦ると、粒が皮膚の紋に沿って薄く散る。「すみません。」と、ぼくは柵の内側へではなく、夜の空気へ声を投げる。声は誰にも届かない。届かないまま、夜に吸われる。
足音は、こちらを通り過ぎていく。見回りは外周を巡っているだけで、ぼくを特定しない。けれど、その足音が今夜の巡回の間隔を詰める。ぼくは自分が作った細波の大きさを想像する。音の波紋は、巡回表の上の赤ペンの印に変わっていくだろう。
柵の近くに戻り、南京錠の列を見上げる。鍵は、鍵というだけで重い空気を持つ。鍵に似た形状のもの――例えばカメラのシャッター、例えば点滅のパターン――そういう間接的な鍵が、ぼくらに許されていた。直接の鍵に手を出してはならない。さっきの板は、鍵と同じ側に属していた。ぼくは遅れて理解する。遅れてでも理解できたから、戻せた。戻せたことだけが、今夜の救いだ。
合図は不能。柵越しにライトを点けても、反射が置かれるだけ。膜は立ち上がらない。Behold を言っても、nobody が返ってこないなら、それはただの音だ。言葉は、相手がいて初めて起動する。ぼくは口の奥で二音を転がす。その丸が、小さく転がっては止まる。灯の不在は、音の不在としてぼくの耳に居座る。
画面を見る。見ないと決めても、見る。佐伯の新しい動画が上がった。サムネイルは前より落ち着いて、タイトルは前より具体的だ。「湾岸のどこか」「廃温室」「赤い板」。言い切りではない。言い切りの手前で止めるのは、彼のやり方だ。再生すると、彼は「断定はしない」と言う。けれど、断定しない言い方で断定に近づく。画面には、似た影の切り抜きが複数、薄く重ねられて編集されている。ぼくと灯のあの影かもしれない。違うかもしれない。ぼくは指で一時停止に触れる。画面の時間が止まる。止まった影は、深夜の駅の床に伸びる黒のようだ。
コメント欄は、どっと流れる。知らないアイコンが、知らない声で、ぼくたちの知らない夜を綴る。地図のスクリーンショットは載せられていない。ルール違反の報告が重なって、削除も追いついているらしい。けれど、推測の矢印は止まらない。自分の街の端を撮った写真が、ぼくらの夜と重ねて語られる。見たことのない柵が、「あの柵に似てる。」と言われる。似ているという言葉は、世界を狭くする。狭くされた世界の端で、ぼくの胸が狭くなる。
玲の店の灯りは、もう消えている時間だ。カウンターの向こうの棚に眠っているだろう種包の紙の手触りを想像する。玲は、この騒ぎをどう受け止めているだろう。「選ぶ。」ことの温度を教えてくれた人なら、どんな声をかけるだろう。ぼくは思考の中に匂いを足す。リナリアの青い呼気。封鎖のインクの匂いに重ねる。匂いは混ざらない。別々の層を保ちながら、鼻腔に順番を作る。
巡回ライトが向こう側で揺れる。フラッシュライトとは違う、均一で硬い白。壁の角をしつけみたいに撫でて、次の角へ。ぼくは柵から一歩退く。退く時、靴の底が敷石の微小な段差に引っかかり、軽く躓く。バランスを取る拍子に、手のひらの赤い粒がジャケットの裾に薄く移る。証拠のない夜に、証拠のような汚れを作ってしまう。笑えない。笑う余裕が、今夜はない。
点滅のパターンを頭の中で繰り返す。短く、短く、長く。胸の内側でだけ灯りを点ける。灯がいない夜、合図は自分の体の中で往復して、どこにも届かないまま戻ってくる。戻ってきた灯りは、熱に変わる。熱は、痛みに近い。
ぼくは柵を離れ、駅へ向かう路地に入る。ネオンの滲みは湿度を増し、光の境界線は曖昧になり、粘つく。画面のように切り抜けない光。顔を上げると、繁華街の音の層が薄く重なる。笑い声、タクシーのブレーキ、どこかのシャッターが閉まる音。ぼくが立っている地面は、その音たちのどれにも所属していない。所属しないまま、足は前に出る。駅の入口のガラスに、ぼくの顔が切れ切れに反射する。
階段を降りる。構内は思ったより明るく、思ったより空いている。電光の表示は、次の電車までの時間ではなく、始発の時刻を硬いフォントで告知している。凍った数字。数字は笑わない。ぼくはベンチの端に座る。ベンチのプラスチックは冷たくない。温かいわけでもない。体温を奪いもくれない。
灯は来ない。来ないとわかっているのに、視線は階段の上を時々見る。吹き抜けの隅で風が細く旋回する。風は匂いを運ばない。ここには花がないからだ。匂いはぼくのポケットの中に小さく閉じ込められ、輪ゴムの×印の下で眠っている。眠らせておく。今は起こさない。
画面を開くと、通知はまだ増えている。佐伯のチャンネルの再生数は跳ね上がり、「位置特定」のゲームはほぼ未知の参加者に委ねられている。佐伯自身は夜の配信で「憶測は控えて」と繰り返し言ったらしい。切り抜きがそれを反射的に増幅して、更に広がる。彼の声は嘘じゃない。けれど、彼の声の外で、声は増える。ぼくは画面を閉じる。閉じた画面に、自分の顔がぼやけて映る。ぼやけたまま、目がこちらを見返す。
始発の案内の前に、夜をやり過ごす人たちが集まり始める。床に座る若い連中。リュックを枕にして横になる男。コーヒーを握っている女の人。誰もこちらを見ない。見られない夜は、楽だ。楽な代わりに、孤独の濃度が上がる。ぼくは孤独の味を確かめる。塩気はない。金属の薄い味がする。南京錠の味だ、と頭のどこかが勝手に名付ける。
灯の不在は、空白ではない。形を持つ。その形は、座席ひとつ分の幅かもしれないし、合言葉二音分の長さかもしれない。形は測れると錯覚するが、実際は測れない。測ろうとすると、余白のほうが増える。余白が増えると、ぼくはそこへ不要な未来を置いてしまう。「次は」「もし」「いつか」。置いた未来は、今夜には不向きだ。
始発の時刻が近づく。空気が変わる。空気が変わる前に、音が変わる。遠くで金属の車輪がゆっくり回り始め、軋みが細く連続になる。太陽の足音の前奏。ぼくは立ち上がる。ポケットの中の×印が、小さく位置を直す。輪ゴムの弾力がわずかに返ってくるのを感じる。それは合図ではない。ただの物理。けれど、物理の感触に救われる時がある。
ホームの端で、ぼくは線の手前に立つ。黄色い点字の粒が靴底に少し当たる。粒は赤ではない。赤ではない足元に、ぼくは少し安心する。赤い表面は今夜、向こう側にある。向こう側に置いたまま、ぼくはここで朝を迎える。
列車が入ってくる。風が一段階、冷える。ぼくはその風の中で目を細める。視界の端で誰かが伸びをし、誰かが眠そうに立ち上がる。灯は来ない。来ないことを受け入れるために、ぼくは息を吐く。吐いた息は白くはならない。季節がそれを許さない。代わりに、息の温度だけがぼくに返ってくる。
電車のドアが開く。ホームの匂いが軽く撹拌され、油と金属の薄い混合が鼻に触れる。花の匂いはない。ないことを確認してから、ぼくは一歩を入れる。扉の脇に立ち、窓の縁に沿って進む光を見ないふりをする。太陽の足音が、地下にいるのに聞こえた気がした。聞こえたものを、ぼくはシカトする。シカトの仕方は、灯に教わった通りだ。窓の縁だけを見る。縁を這う光だけが、ぼくに挨拶をする。ぼくは返事をしない。
列車が動き出す。ホームが後ろへ滑り、駅名の看板が薄く流れる。朝の気配が、地下の隙間から差してくる。ぼくは手のひらを開く。赤い粒の一部がまだ残っていて、指紋に沿って細かく光る。洗えば落ちるだろう。落とす前に、一度だけ、その粒のざらつきを確かめる。向こう側に置いてきた赤の触感。ぼくらが渡るたびに受け取ってきた代償の、最小単位。
始発は誰にも優しくないが、誰にも残酷ではない。均一。均一さはときどき救いになる。ぼくは顔を上げ、窓の外ではなく、反射する自分の目を見る。目は眠い。けれど、起きている。起きていることが今夜の仕事だ。灯の不在を、仕事として受け止める。合図不能の夜を、やり過ごす。鍵の列を、頭の中で一本ずつ数えて、消していく。消すのは鍵ではなく、焦りだ。焦りを消しても、柵は残る。柵が残っても、ぼくは残る。残るなら、次にやることを考える。今は、まだ考えなくていい。始発の車内で、ぼくはただ、朝になる気配を薄く吸い、薄く吐く。
ネオンの滲みは、地上で色を落としているだろう。風が吹けば、きっとインクの匂いは早く薄まる。リナリアの匂いはまだ来ない。来ないものを待たない訓練をしながら、ぼくは駅で始発をやり過ごす。太陽の足音は遠いまま、しかし確かに近づいてくる。ぼくは窓の縁だけを見て、目を閉じない。閉じないまま、朝の明るさの手前に身を置く。ここでは、誰もぼくを見ない。誰にも見つからない時間が、最後の薄さで延びる。朝の気配が、均一に広がっていく。