第10話「例外の一枚」
錆びた蝶番が、小さく鳴く。ガラスの割れ目に夜の湿り気が薄く張りつき、そこへ遠いネオンの滲みが、色だけを連れて差し込む。足元では、落ちた葉が乾かずに重なり、踏むたびに水気を含んだ紙みたいな音を立てる。温室の空気は、今夜も青い。リナリアの群れは花弁を合わせて眠る前の呼吸をして、甘さの手前で留まっている。
扉を閉める前に、灯の手首が合図みたいに揺れる。ひと呼吸おいて、彼女は唇だけで言う。
「Behold。」
「……nobody。」
その二語が触れた瞬間、薄い膜が音も匂いも輪郭も、こちら側の上にもう一度描く。現実の温室の上に、温度の一層が重なる。ぼくは肺の奥に冷たくない夜を入れて、緩やかに吐く。灯は小さなライトを持ち上げ、掌で光を遮って、板ガラスの端にだけ細い線を走らせる。懐中電灯の役目は目印で、救いで、呼吸の長さに似ている。
距離を置く、と決めてから何夜目だろう。数えないことにした。今夜は、理由がある。灯がメッセージをくれた。「一枚だけ、約束を変えてもいい?」と。問いの形で送られたそれは、答えを待たずにぼくをここへ連れてきた。
赤い表面の上に、作業用の渡り板が横たわる。乾きかけの塗膜には、前にぼくが付けた浅いひっかき跡が、斜めに一本走っている。渡る前に、灯が先に足を置いた。彼女の靴の底が、赤から小さく音を引き出す。
「滑らない?」
「平気。」
短い嘘に、板が返事をするみたいに微かに撓み、灯はその反動を吸収する。続くぼくの足が赤を踏むと、表面のざらつきが靴底を瞬間だけ掴み、離す。手すり代わりの鉄骨は冷えていない。ぼくは指先で温度を確かめ、体重を移す。板を渡り切る直前、ガラス片の欠けた縁が袖をかすめて、糸が一本だけ切れた音がする。代償はいつも、小さい音で始まる。
温室の奥、ふたりで補修してきた棚の影。そこで灯は立ち止まり、エプロンのポケットから何かを出す。銀色の角が薄い布からのぞく。使い捨てカメラ。輪ゴムでループが二重にかかっている。灯は輪ゴムを外し、指先で本体の角をなぞる。光の加減で、プラスチックの肌がわずかに呼吸するみたいに見える。
「例外の一枚。」
彼女はそう言って、ぼくを見る。声の高さはいつもより半音低い。決めた声だ。
「……撮らない約束を、変える?」
「変えない。ただ、ね、例外を一つだけ入れておきたい。何かがあったら、これだけ見て。」
「何かがあったら?」
「うん。言葉が切れる時。合図が届かなくなる時。匂いを起こすためじゃなくて、呼吸の場所を思い出すため。」
ぼくはカメラを受け取る。掌に軽さが乗る。驚くくらい軽い。重さが記憶を固定してくれるものだと思っていたのに、逆だと知る。軽さこそ、どこにでも運べる重さだ。親指で巻き上げのダイヤルを回す。カリ、カリ、と歯車が小さく噛み合う。レンズは玩具みたいに見えて、しかし真面目に正面を見ている。
「どこを撮る?」
灯はすぐには答えない。ライトの先を少し持ち上げて、温室の天井近くの接合部を照らす。板ガラスと鉄骨の間にわずかな段差があり、外からの光がそこに滞留している。昼間はただの古い建築の一部。でも、夜の薄膜がかかると、角の角度が変わる。監視の光じゃない残りの光が、そこだけ優しく滞る。
「ここ。ここが、見た場所だから。」
灯の視線は角度を覚えている。東雲が教えてくれた「見る場所。」の話が、ぼくの指先にも同時に戻る。眉間と目尻の中間の一点。そこに視線を合わせる癖。ぼくはカメラを構え、その一点とレンズの中央がぴたりと繋がる瞬間を待つ。呼吸を浅くする。Beholdの前には息を一つ――紙片のあの行が、ここで立ち上がる。
「フラッシュ、どうする?」
灯は首を横に振る。「いらない。光は、いまあるぶんで足りる。」
ライトを、彼女は低く構え直す。天井の角には当てない。直接ではなく、棚の金属の縁に反射させ、漏れた分だけを角へ這わせる。懐中電灯 が合図でありながら、主役のふりをしない光り方。ぼくは肘を体に寄せる。指がシャッターの上で止まる。点滅はしない。ただ、心拍が短く、短く、長く。
「――準備、いい?」
「うん。」
シャッターの感触は、思っていたよりも深い。押し切るまでに指先の皮膚が少したわみ、クリックの直前に微かな空白がある。その空白が、記憶の隙間になる。ぼくはその隙間ごと押し込む。
カシャン。
音は小さいのに、温室の膜の中で少しだけ大きく聞こえる。膜が、音の輪郭を丁寧に拾うからだ。灯が息を吐く。吐いた息が、リナリアの葉のざわめきと重なる。風はほとんどないのに、どこかから音だけが届く。群れの一角で、花弁がひとつ揺れて、次に周りが追いかける。
ぼくはすぐにカメラを下ろす。もう一度巻き上げる癖を、指が勝手にやりかけて止まる。灯はそれを見て、笑うでもなく、表情を平らに戻す。
「一枚。」
「一枚。」
反復は契約書の署名みたいに機能する。ぼくは輪ゴムを掛け直し、エプロンの代わりに自分のジャケットの内ポケットにしまう。軽さが服の内側で体温に馴染む。灯はライトを消す。現実の夜が戻ってくる。ネオンの滲みが、遠くへ引いていく。
渡り板を戻る前、灯が棚の端で指を切った。ほんの少し。鉄の角が皮膚を舐めただけ。赤はいらないくらい少量で、でも確かに存在を主張する。ぼくはポケットから小さな絆創膏を出す。灯は「大丈夫」と言いかけ、言葉を飲み込む。嘘を言い慣れていない舌の動きが、そこで止まる。ぼくは何も言わずに、彼女の指先を持ち上げ、絆創膏の端を貼る。体温が伝わる。匂いが跳ねる。甘さに青が混ざる。
「ありがとう。」
その一語で、膜が滑らかになる。ぼくは赤板へ足を置く。往路より復路のほうが危ういのは、いつも同じ。二歩目で塗膜の粒子が靴底にくっつき、三歩目でそれが剥がれる。剥がれる瞬間の微かな揺れで、ポケットの内側のカメラが衣擦れの音を立てる。音は、ぼくにだけ聞こえるように小さい。
出口近くの割れたガラス越しに、外の夜がこちらを覗く。画面の向こうで流れる数字の列、切り抜かれた影、知らない誰かの指先――そんなものたちの気配が、温室の縁で止まっている。止めてくれているのは、合図と約束だ。灯が扉を押し、蝶番がもう一度鳴く。
外気が頬に触れ、現実が肌に戻る。共有幻視の膜は、合言葉を閉じると同時に薄くなり、しかし約束だけは残る。残るというより、骨に吸い込まれていく感じ。ぼくは深く吸わない。軽く吸って、軽く吐く。
「どこに置く?」
灯が言う。カメラの居場所のことだ。ぼくは少し考える。部屋の机の引き出し。東雲の店の奥の木箱。温室のどこか。どれも、違う気がした。
「――あとで、玲さんに預けたい。誰にも見せない場所に。必要な時だけ、取りに行く。」
灯はうなずく。「わたしも、そう思ってた。」
沈黙が続く。沈黙は、途中で音になる。高架の向こうから、電車の走行音が薄く近づき、遠ざかる。太陽の足音はまだ遠い。足音に気づかないふりをするには、十分な夜が残っている。
「凛。」
「うん。」
「ごめん、って言わないで。例外を提案したの、わたしだから。」
「言わないよ。」
「じゃあ、約束。もう一度、握る。」
ぼくは頷き、しかし手を差し出すわけではない。手を握る代わりに、視線を一点に合わせる。東雲の示した場所。灯も同じところに合わせる。二人の視線が、空中で合わないのに、同じ箇所に重なる。そこに、薄い匂いの端がふっと立つ。青さが一つ前に、甘さは半歩下がる。
温室を出て、柵の影の濃さを確かめる。南京錠が増えている。紙の張り紙は新しいインクの匂いがして、風に鳴らないように四隅がテープで留められている。ぼくは鍵に視線を落とすだけで、手を伸ばさない。複製の誘惑は、ここではいつも遠い。倫理線は、柵の線よりもはっきりしている。
駅までの路地、ネオンは湿度に負けて色をにじませる。灯は歩幅を変えない。ぼくも変えない。影は二つ、壁に並び、角を曲がるたびに形を立て直す。画面の向こうに拾われるには、今夜の光は弱すぎる。弱さに守られる夜が、稀にある。
ホームへの階段の手前で、ぼくらは立ち止まる。電光の表示は、次の終電ではなく、始発までの空白を告げるドットの列をゆっくり書き換える。灯はポケットに指を入れて、何も取り出さない。ぼくも同じことをする。笑いが喉の奥で形にならないまま、空気に放たれて消える。
「今夜は、ちゃんと夜のうちに。」
「うん。夜のうちに。」
約束の反復は、退屈さを選ばない。選ぶのは、温度だ。ぼくらは互いの眼差しを短く、短く、長く。点滅はさせない。合図は胸の中でだけ繰り返す。灯は階段を降りる。ぼくは別の出口へ向かう。二つの足音が離れる。太陽の足音は、まだ影の向こう。
部屋に戻ると、窓に夜の名残が薄く貼りついている。カメラはジャケットから机の上に移され、輪ゴムの交差が小さな×印を作っている。触らない。見ない。そこに在ることだけを、体に刻む。引き出しを開け、空白のノートの上にやさしく置く。その上を、風が掠める。カーテンの裾が椅子の背もたれに触れて、音を立てる。
目を閉じる。さっきの一点に視線を合わせる癖を、もう一度。膜は起きない。けれど、角の角度が、脳の内側で正確に立ち上がる。鉄骨の線、ガラスの面、そこへ滞留する光の薄い濁り。撮った一枚は、まだ見えない。見えないままでいい。必要な時まで、暗いところで眠らせておく。眠りは、匂いを薄く増幅させる。そう信じる。
窓を少し開ける。夜の終わりと朝の手前が混じった風が入ってくる。遠くで何かが走る音。もっと遠くで鳥の声。まだ列にならない。足音の手前。ぼくは息を静かに吐く。
その瞬間、机の上の紙が一枚、風でめくれる。紙の下から、輪ゴムの交差がほんの少し浮き、静かに戻る。軽い音。どこかで、リナリアが揺れる気配がする。温室ではない、ただの部屋の空気の中で、青さがいっせいに起きる。
――カシャン。
さっきの音が、遅れて胸の奥で再生される。一枚だけ。例外の一枚だけ。窓の外の風がその音を攫って、白いカーテンをふわりと持ち上げる。花の群れのどこかで、誰にも見えない花弁が、約束の方向へ微かに傾く。甘さは半歩下がって、青さが前に出る。ぼくは目を閉じたまま、その香りを受け取る。ネオンの滲みは消え、風だけが残る。リナリアが、風で揺れる。