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第1話「乾いた街、君の匂い」

 最初に届いたのは匂いだった。雨上がりでもないのに、路地の空気がふっとやわらぐ。排気と古い油のにおいが層になってよどむ裏通りで、その一角だけ、冷えたガラスに指を当てたみたいに澄んだ香りがする。甘さの手前で止まる、青い茎の気配。鼻の奥が少しだけひりついて、ぼくは立ち止まった。


 看板の切れたネオンが明滅し、地面に色のない光をこぼしている。配達バイクが通り抜けるたび、風の溝ができて紙片が舞う。夜の音は多いのに、ぼくがいる場所だけ別の薄さをしていた。乾いているのに、渇かない場所――と、ふいに思ったとき、足もとでコトン、と音がする。


 小瓶だった。透明なガラスに白い栓。側面に、細い字で何かが書いてある。拾い上げると、瓶の中で液体が揺れて、さっき感じた匂いがはっきりする。Linaria。読めたのは、それだけだった。


 「ごめん、それ、私の。」


 声の方向を向くと、路地の出口側に人影が立っていた。短い髪が耳にかかるくらいで、光の届かない場所にいながら、輪郭だけがやけに明るい。黒いパーカーのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手をこちらに伸ばしている。ぼくは瓶を渡す。近づいた瞬間、香りが強くなった。


 「ありがとう。割れなくてよかった。」


 「……これ、花の匂いですか。」


 「うん。リナリア。知らない?」


 頷く代わりに、もう一度吸い込む。甘いのに、湿度がない。乾いた街で、のどの奥だけが水をもらう。ぼくは言った。


 「すごく、落ち着く匂いですね。」


 彼女は少し笑って、瓶を胸ポケットにしまった。


 「そうでしょう。だから落としたら困るの。道がざわつくから。」


 ざわつく、という言い回しが耳に残る。ぼくは彼女の横顔を見た。目じりに細い光が刺さっている。ネオンがうまく焦点を結べないで滲み、その滲みの中心に彼女がいる。


 「……道が、ざわつく。」


 「匂いは記憶とつながるから。静かに歩きたい時には、静かな匂いがいる。騒がしい時には、騒がしくない匂いがね。」


 似たような言葉を、どこかで聞いた気がする。あるいは勝手に作り変えて覚えたのかもしれない。ぼくはポケットの中でキーケースを握りしめ、口を開いた。


 「その、さっきの。文字、読めなかったけど、リナリアはわかりました。」


 「えらい。読めなくても、わかればいいの。」


 彼女はそう言い、ひと呼吸おいてから、まっすぐぼくを見た。


 「あなた、夜の匂いに詳しそう。」


 詳しくなんてない、と反射的に否定しかけてやめる。違う。ぼくはただ、この速さについていけないだけだ。歩道橋の上を、音の固まりが通り過ぎていくみたいな日。大学にいても教室の端で霞んで、そのうち自分の輪郭まで薄くなる。思えば、匂いのことを考える時だけ、少し息が楽だ。


 「詳しくはないけど……嫌いじゃないです。」


 「それ、十分。」


 彼女はポケットから細いライトを出して、掌の上でカチ、と小さく点滅させた。懐中電灯、と呼ぶには頼りないが、光はまっすぐに伸びる。


 「名前、教えて。私は朝霞、灯。」


 「水城、凛です。」


 「凛。いい名前。」


 名前を褒められて、少し頬が熱くなる。彼女はライトを消した。


 「ねえ、水城君。今から少しだけ、静かなところ、行ける?」


 静かなところ。ぼくは無意識に頷いていた。彼女は踵を返し、路地の奥へ歩き出す。ぼくがついていくと、行き止まりに見える薄い鉄の扉が現れた。上部に「立入禁止」の文字。錆の色が褪せて、赤にも茶にも見える。扉の脇には、塗装の剥げた板が立てかけてある。近づくと、それは渡り板だった。防滑の粗い粒が残り、やけに鮮やかに赤い。


 「これ、危なくないですか。」


 言いながら、ぼくは板の縁に触れた。塗膜のざらつきが指に残る。彼女は軽く首を振る。


 「危ないよ。だから、ゆっくり。」


 ゆっくり。道具の扱いを知っている人の声だった。扉は鍵がかかっている。だが彼女は扉ではなく、横に伸びる細い通路を選ぶ。渡り板は、その通路の隙間を埋めるために立ててあるらしい。赤が夜に浮き、踏み出すたび、小さな砂の音がする。ぼくは息を整え、一歩ずつ彼女の後ろを行く。


 通路の先は、建物と建物のあいだに挟まれた暗がりだ。頭上で換気のファンが唸り、風の向きが変わる。電線が重なり合って、空が細く切り取られている。足もとがわずかに上りになり、ぼくの鼓動は自分の靴の音と同じリズムで速くなる。


 やがて、鉄骨の枠が見えてきた。縦横に組まれた梁の間に、割れたガラスがはめこまれている。形は温室に似ている。けれども市の看板も説明板もない。放置されたまま時間が重なり、埃と蔦が固く結びついている。彼女は立ち止まり、ぼくに振り向いた。


 「ここ、ね。うるさいときに、静かに戻る場所。」


 ガラスの向こう、暗闇の層のむこう側で、何かが揺れたように見えた。気のせいかもしれない。ぼくは無言で頷く。彼女は胸ポケットから、さっきの小瓶を取り出した。


 「匂いを、少しだけ強くする。」


 瓶の栓が外れると、空気が一段やわらいだ。彼女が瓶の口を指でおさえ、ガラスの枠にそっと触れる。触れたところから、冷えた水が染み込むみたいに気配が広がる。ぼくはそれを見ているしかできない。彼女は小さく息を吸い、ぼくを見た。


 「合図がいるの。私が言うから、続けて。」


 「合図。」


 「――Behold」


 音の輪郭は薄いのに、意味が空気の芯に刺さる。反射的に、ぼくの喉が動いた。


 「……nobody?」


 言った瞬間、視界の焦点がふっとずれる。君と二人だけのこの空間に、誰も近づいて欲しくないという感情が言葉に表れてしまった。

ガラスは割れたままなのに、割れていない面が重なって見える。鉄骨の黒に、遠い緑の薄片がまぶされる。風は吹いていないのに、葉の裏だけが裏返る。音は減らないのに、音の輪郭が丸くなる。ぼくは手を伸ばし、空気を触る。ほんの少しだけ、温度が下がる。彼女が隣にいるのがわかる。肩が、一瞬重なるくらいの距離まで近づいていた。


 「大丈夫。怖くない。」


 「これは、何ですか。」


 「私たちだけに重なる薄い層。名前は、まだない。」


 彼女はそう言ってから、笑った。


 「――まあ、仮に“庭”って呼んでるけど。」


 庭。ぼくはその言葉に息を詰め、再び匂いを吸い込む。リナリアの香りが、さっきよりも甘い。甘いのに、のどは軽い。ふしぎに平らで、まっすぐな場所に立っている気がする。


 中に入る――という動作はなかった。ぼくたちはただ、その場に立ったまま、少しだけ静かになった街を見ていた。割れたガラスの端に、夜景が滲む。滲んだ光の粒が、彼女の頬の骨の上で丸くほどける。ぼくは言葉を探したが、言葉は音になる前に溶けた。


 「ここは、誰のものでもない。だから、誰のものにもならない。」


 「それは、守れることですか。」


 「守りたいと思えば。」


 彼女は瓶に栓をし、ポケットに戻した。匂いは弱くなったのに、体の芯の静けさは残る。ぼくは鉄骨の足元を見る。渡り板の端がここにもあって、赤い。夜なのに、赤だけは夜から切り離されている。


 「さっきの板、赤いの。あれ、渡る時は嘘をつかない。」


 唐突な言い回しに、ぼくは顔を上げた。彼女は視線だけで板を示す。


 「ちいさなルール。守れば、転ばない。」


 「嘘をつくと、転ぶ。」


「だいたいね。」


 冗談の声色ではない。ぼくは片足で板の端を軽く踏む。ざらつきが靴底を引っかき、わずかに音が鳴る。その音に呼応するように、遠くでトラックがブレーキを鳴らした。層が揺れて、また落ち着く。


 「水城君。」


 「はい。」


 「もし、ここが気に入ったら――場所のことを、誰にも言わないで。」


 ここ、という言い方は曖昧で、しかし指先のように正確だ。たったいまぼくらが立っている層と、現実の骨組みを、同時に指している。ぼくは頷いた。彼女はぼくの目を見る。目の中に、割れていないガラスの面が映っているように見えた。


 「誰にも?」


 「誰にも。」


 自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。彼女は、小さく、でも確かに笑った。


 「よし。じゃあ、今日はおしまい。」


 「あの、もう?」


 「最初は短いの。長くすると、次に戻りにくくなるから。」


 時間には密度がある。濃い時間を先に使い切ると、あとが軽くなってしまう。そう言われれば納得できる理屈なのに、体は惜しがっている。ぼくは視線を落とし、板から足を外した。


 層は、合図を逆になぞるように薄くなった。音が角張り、光が粒のまま鋭くなる。ガラスは割れたままのガラスにもどり、鉄骨はただの鉄骨になる。けれども匂いだけは少し遅れて残り、最後に小さく波を打って消えた。


 「来るなら、夜。」


 彼女は通路を戻りながら言う。


 「朝になる前に解散。約束ね。」


 「はい。」


 渡り板を再び踏む。赤が夜に触れる。ぼくは嘘をつかずに、ただ注意深く歩いた。元の路地に出ると、音の層が戻ってくる。換気扇の唸り、遠い笑い声、どこかで割れる氷の音。すべてが、さっきよりは少し遠くに聞こえた。


 「凛。」


 振り向くと、彼女がライトを一瞬だけ点滅させた。細い光は、すぐに夜に吸い込まれる。


 「またね。」


 「また。」


 彼女は人の流れの薄い方向へ歩いていく。ぼくはしばらくその背中を見送ってから、反対側の駅へ向かった。足の裏に残ったざらつきが、歩幅を決める。ポケットの中でキーケースが冷たく、手のひらの熱がゆっくり抜ける。


 改札へ降りる階段の上で、ぼくは短く息を吸い、そして吐いた。自分の中に、薄い層がまだ残っている。匂いは消えてしまったのに、空気の手触りだけが平らだ。思い出そうとすれば遠のき、何もしなければ近づくものの感覚。こんな感じを、何と呼べばいいのか。わからないから、きっとまた行く。


 階段の踊り場で立ち止まり、さっきの言葉を口の中で反芻する。


 ――誰にも。


 ――誰にも。


 言葉は重なり、やがて音の層の底に沈んだ。ネオンが少し強くなり、終電に間に合うよう人が足を速める。ぼくは自分も速く歩く。輪郭が戻る。喉の渇きは、もう感じない。


 次に会うとき、合図はたぶん、あの言葉だ。先に言った方が、会いたい方。そう決めてしまったみたいに胸が熱い。けれども口には出さない。出してしまうと、何かがこぼれてしまう気がする。


 改札を抜ける直前、背中の方から、風が細く吹いた。どこからともなく、リナリアの香りが一瞬だけ混ざる。振り返っても、誰もいない。ぼくは笑って、歩いた。


 秘密は、言葉より先に、体に宿る。さっきの板を渡る時の音、ライトの一瞬、ガラスの縁の冷たさ。どれも、説明の前にもう記憶になっている。


 誰にも、ナイショだ。


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