06.ほめてちょうだい
「うわ、停電だって…結構範囲、広いねえ」
ある雷雨の日、隣の席の先輩が机上のスマホをちらりと見てそう言った。通知でも来たのだろう。
「ほんと? どのあたりです?」
「市内の✕✕町から……川の手前らへんまでかな」
「ええ……マジですか」
なんとなく世間話に乗っただけのつもりでいたのに、出てきた地名にぎくりとする。
「どうしたの」
「…実家のあたりで」
「あらま。お母さん一人暮らしだったよね……心配でしょう」
先輩はそう言って周囲をちょっと見渡すと、声のトーンを少しだけ落とすと言った。
「もしだったらさ、トイレかどこかで電話して様子だけでも聞いてきなよ……課長戻って来る前にさ」
「うん…ありがとうございます」
親切な先輩に小さく手を合わせるとそっと席を離れた。
人気のない休憩室の片隅で電話をかけると、母はすぐに出た。やはり電気は消えているらしい。
「まだ明るいし、寒い時期でもないから大したことないわよ。でもマルちゃんが雷を恐がってちょっとかわいそうだけど」
どこかのんびりとした口調で母は言う。マルちゃんというのは母が可愛がっている小さい雑種犬だ。甘やかされて名前通りに日々丸くなり続けている。
「……帰りに寄るからさ、もしブレーカー落ちてても戻そうとしたりしないでよ、無理して怪我とかしたら大変じゃん」
「わかってるわよ。どうやるのかもよくわからないし……」
「まだ日も長いし、絶対夕方まで待っててよ」
「わかってますって。すぐ年寄りあつかいして」
「後でね!」
電話を切って席に戻ると、課長もまだ戻っていなかった。先輩に礼を言い、定時まで仕事を続けた。
夕方、雷も止み雨もだいぶ落ち着いたなか、車で実家へ向かう。到着してみれば、窓から明かりが漏れている。ブレーカーは大丈夫だったのか、それともきょうだいの誰かが様子を見に来てくれたのだろうか、玄関から声をかけると母が奥から顔を出した。犬も後からついて来たが、他に人の気配はしない。
「電気、大丈夫だった?」
「うん、電話ありがとうね、心配かけて悪かったわ」
「ブレーカー落ちてなかったのね」
「それがね、落ちちゃってたんだけど」
母はそこで少し笑うと、信じられないことを言った。
「マルちゃんがなおしてくれたのよ!」
そんな馬鹿なことがあるものだろうか。猫ならまだしも、マルは犬だ。大きさだって小さいし、太って運動能力も高いとは言えない。さらに言うなら取り立てて賢い犬でもない。
「……どういうこと?」
「だからマルちゃんが…!」
その後話を聞いてはみたのだが、具体的にマルがどうやってブレーカーを戻したのかについては全く要領を得なかった。
わからない。
近所の人やきょうだいが来て直してくれたのかと尋ねても、そうじゃない、マルがやったの一点張りだ。
もしや認知症か何かか……などと思って少々冷や汗が出たりもしたが、その点以外の受け答えは完璧で、どうやらそんな事もなさそうだった。
ため息をついて頭上のブレーカーを見上げた。高さ2メートル近くはあるだろうか。
本当は落ちていなくて、停電が復旧したタイミングで犬が何かしらの行動を取ったことで母が勘違いをしたとか? でもそれは一体どんな行動なんだろう。とりたてて石頭でもない母がこんなに一途に思い込んでいるのもどこか妙だ。普段から甘えるばかりで殊勝な行動を取ることもない、普通の犬なのに。
その犬はただ母の足元でこちらを見上げて、誉められるのを待っている。
犬のフルネームはマルケス・ロドリゲス