05-2.クレーム案件(後)
続きです。
部屋に荷物だけ置いたあと、一度ホテルを出て仕事を済ませ、夕食を買ってまた部屋に戻った。
先ほどはすぐ部屋を出たのでじっくり見たりはしなかったが、今よくよく見回してみても変わったところは見受けられない。むしろきれいな部屋だと言ってもいい。トイレもちゃんと流れたし。
今夜一泊だけの事だ。明日の夜には仕事も終えて家に帰るんだから。鍵もチェーンもちゃんと閉めたし……一人そう呟きながら缶ビールのプルタブを引く。普段は週末にしか飲まないのに、つい買ってしまったのも不安の表れだったりするんだろうか……頭に浮かんだそんな考えと一緒に、ビールをぐっと飲み干した。
夜中に不意に目が覚めた。電気を消して眠ったので、当然部屋の中は真っ暗だ。今何時だろうとスマホを手に取ろうとして、体が全く動かないのに気がついた。
これが金縛りって奴か、という単純な驚きと、一体何でこんなことに、という恐怖がないまぜになって全身を駆け巡る。何とか動こうとするが全く上手くいかない。じわじわと時間が過ぎるのに合わせて恐怖が驚きを上回っていく。
唯一動くらしい眼球を出来る限り動かして、周囲の様子を少しでも探ろうとする。ベッドの足元の方に目が行ったとき、ちょっと例えようのない衝撃を受けた。
男が一人立っているのが見えたのだ。こちらに背を向けて、姿勢よくすっと立っている。
真っ暗な部屋で、自分の前髪だってろくに見えない位なのに、なんであの後ろ姿が男だってわかってしまったんだろう。
全身から汗がどっと噴き出した。冷や汗だろう。体は全然動かないし、目も離せないし、当然声も全く出ない。しかしついさっきからガチガチ言ってるこの音は何だ。呼吸も鼓動も今まで経験したことが無いくらい速い。あの男に聞こえやしないか心配だ。
そう思った時、件の男がふっとこちらに振り返った。そのままゆっくりとベッドの脇を歩いてこちらに向かって来る。
さらに鼓動が速くなり、心臓がこんなスピードで拍動出来るというのがむしろ不思議だった。そして一段と大きくなったこのガチガチ言う音、これが自分の奥歯同士がぶつかり合っている音だと突然気付いた。歯の根が合わないってこういう事か、などとゆっくり考える暇もなく震えている間に男は枕元まで到達すると、ぐっと腰をかがめてこちらの顔を覗き込んだ。
近い。息がかかるほど近いが、体温とか気配とかそういう生きた人間が当たり前に持っているものが全く感じられない。冗談じゃない。案外男前なのも恐怖を煽ってくる。マジでやめてくれ。
男はしばらく無表情でこちらをじっと見ていたが、不意に小さく首を振ると、ザラザラした声で確かに言った。
「違う、お前じゃない」
その後の事は記憶に無い。まるでマンガか何かのように気がついたら朝でした、という訳だ。無論部屋の鍵もチェーンもちゃんと閉まっていた。
ただ全部消したはずの部屋の電気がなぜかひとつ点いていて、それもまた少し嫌な感じがした。
朝食も付いていたがとても食べる気にはなれなかった。少し、というかだいぶ時間は早かったが、シャワーだけ浴びてさっさと出ることにした。駅も近いし、時間ならどこでだってつぶせる。
ひとりエレベーターに乗ってロビーに向かいながら、鍵をかけろってこういう事かよと小さく呟く。しかし、ゆうべのあの男がご丁寧にドアを開けて入ってくるようなちゃんとした存在だとはどうしても思えなかった。
難癖つけたりしない、って昨日言ってしまったから、あからさまに文句言ったりはしないけど、昨日の人がフロントにいたら軽めの嫌味の一つも言ってやろうかな、などと思いながらフロントに向かう。
しかし今朝そこにいたのは若くて愛想のいい女性スタッフで、結局何も言えずに普通にチェックアウトをして、荷物と重たい心を引きずりながらホテルを出た。
荷物をロッカーに入れるために駅へと向かう。信号待ちで朝からよく晴れた空を見上げながら考える。
あの男はこっちを見てお前じゃないって言ったけど、もし、お前だとか見つけたとか言われていたら、一体どんなことになっていたんだろう。
青空と朝の清々しい風と全くそぐわない、どんよりとした恐怖の塊がまた心の底でそっと頭をもたげる。それを振り払うように、青信号を確認して足早に歩き出した。