23.けもの道
!野生動物を狩猟して食べる描写があります。そういうのが苦手な方はご注意ください。
数年前、父の散弾銃を受け継ぐ形で猟銃の免許を取った。
地元の猟友会にも加入した。サラリーマンと兼業ではあるが、先輩たちに教えを請いながらなんとか猟師としての第一歩を踏み出した、そんな頃の事だ。
猟期のはじめ、熊の狩猟に参加した。
ふもとの農家のすぐ近くで目撃されたのが先週の事。その時外に置いてあったゴミ箱が荒らされていたため、近くで鉢合わせして襲われるなどの事故につながる前にと皆で山に入った。
自分は勢子として、犬や他の猟師と共に山の中熊を追った。斜面の下、やや遠くに逃げて行く熊の背中が見える。やはり速い、そう思った時、連続して2発の銃声が響いた。
熊はその場にがっくりと崩れ落ちた。
仕留められたのは大きな雄のツキノワグマだった。
すぐにハンター達によって解体が始まる。
解体した肉は猟に参加した者たちで分配する事になっていた。
猟に出始めの頃はおっかなびっくり参加したものだが、最近は少しづつ慣れてきて、自分に出来ることを手伝うようになっている。
ベテランの指示に従い手を動かしていると、向こうの方で楽しげな歓声が上がった。
なんだろう。そう思って振り返ると、声を上げたうちの一人が、ほら、と言って何かを差し出した。
よく見るタッパーに入れられた、ベージュ色の柔らかそうな塊。解体の最中なのだから熊の一部ではあるのだろうが、何なのかが分からなかった。
自分自身、不審な顔をしていたのだろう、隣のベテランが白い歯を見せて言う。
「脳みそだよ。足がはやいから現場でしか食べらんないぞ!」
とっさにタッパーを受け取ったが、熊に限らず生の脳みそなど食べたことは無い。ベテランに振り返ると、そうそう食えるもんじゃないから!ともう一度言われた。笑顔で。断ることは出来なかった。
味の方は動揺していたこともあって説明出来るほど分からなかったが、とにかく今まで食べた事のない味と食感だ、という印象だけが強く心に残った。
それから半月ばかり経ってからだろうか。
今年は熊の冬眠が遅い。また民家の近くで目撃された熊を探して、何人かで山に入った。
熊の痕跡を探して山中を歩く。来た道と方向を常に意識しながら移動する。無線やGPSを持っているとはいえ、慣れない山道で迷ったら命の危険もある。
歩きながら、ふと周りの景色に見覚えがあることに気づいた。前に来たことがあっただろうか……ここまで来たことは無かったように思うが……そんな事を考えていた時、不意に頭のなかにひとつのイメージが浮かんだ。
この大木のところからやや右の方に回り込みながら、その先の坂をしばらく下ると、あの尾根の下に出る。
何故か歩いたこともない獣道が、はっきりした画像のように脳裏に浮かぶ。上手くは言えないが、自分の記憶とは少し違った種類のイメージだった。
もう一度よく考えてみるが、やはりここに来たことは無い、そう思った。
尾根の下に出て、ちょっと下りれば、多分目撃された民家の裏手の坂に出る。行けるならちょっと行ってみようか……そう考えて、もう一度腰に着けたGPSに触れて確認する。振り返れば、やや後ろにハンターと犬の姿も見えた。何かあっても、大きな声を出せば聞こえるだろう。
思い切って右の方へ歩き始める。イメージの通りすぐに下りになった。しかしなぜこんなにもはっきり思い描く事が出来るんだろう、そう思った時、不意に5、6メートル先の足元に何かの足跡が見えた。
あの足跡、大きさと形からして熊のじゃないか。近づいて確認のためにかがみ込もうとした時、足元でずるりと滑る感触があった。
しまった、そう思う間もなく咄嗟についた右手首が見たことの無い角度に曲がる。激痛を感じる少し前に右肩に激しい衝撃、そしてそのまま数メートル滑り落ちて、なんとか止まった。
頭上から犬の吠える声がする。
大丈夫か、と問う先輩猟師の声がその向こうから聞こえた。右手をかばいながらゆっくり上半身を起こして、ギリギリ動けます、と返事をした。
集まって来た人達の手を借りてなんとか坂を登る。心得のある人が右手に添え木をあてて、あり合わせの布で吊ってくれた。痛みはするが、病院までは持つだろう。
落ちた急坂を見下ろしながら、肩を貸してくれたベテラン猟師が不思議そうに問う。
「……それにしても、何でこんな所下りちゃったの。こんな急坂、人が下りれるもんじゃないよ」
「ええと、なんていうか……実は」
迷ったが、ありのままを話した。あるはずの無い記憶についても、全部。
笑われたりするだろうかと思ったが、地図を確認していた年配の猟師が頷いて言う。
「たまに聞くよ、そういう話……突然知らないはずのこと思い出したりとか……みんなが言うのは山の中の事だね。まるで、何かの縄張りのことでも思い出すみたいにな」
「縄張りって……」
その縄張りは、人のものでは無いのだろう。
教えてくれた猟師は、もう忘れたかのように地図とGPSを見比べている。
最後まで犬と一緒に坂の下にいた若い猟師が息を切らせて登って来た。改めて見てみると思いのほか遠い、坂の下を指さして言った。
「あの足跡、古さと大きさから言って多分この前撃った熊のじゃないですかね、ほら、先月の」
「縄張りが空いたから違う熊が流れてきたのかも知れないな、前のも雄だったし」
猟師達のそんな会話を聞きながら、あの日口にしたタッパーに入った塊が、ふと頭をかすめる。
熊の脳。
ただ食べられるだけでなく、何かを残そうとしたのだろうか。記憶とか、そういう形で。
それから何度かの猟期を過ごして、山にも猟にもだいぶ慣れてきた。
今でも山で、来たことの無い道を思い出すことがたまにある。しかし、何処でもむやみに踏み込んでいけるものでもない。
熊には行けるが人には決して歩けぬ道がある。
最も重要なのはその見極めだと、今ではそう思っている。
ここでの、足がはやい、というのは食品が傷みやすいという意味です。




