4 夢は症例である
母は、最大限の愛情を持って彼女を抱き抱えて、もちろん彼女もそれに応えて小さな頬に笑みを浮かべた。
母の体温、鼓動が、彼女にとっての一番の宝物だった。それは、もし金があったとしても変わらない事だろうと思う。
少し貧乏な家庭だった。彼女より貧乏な人も沢山いたが、彼女より裕福な人も沢山いた。彼女の私の目には、裕福な人は、きらきらして見えた。けれども、母の後ろ姿はより輝いていた。貧しいながらも、明日の為に歩み続ける方が彼女は好きだった。
彼女は、そんな母が大好きだった。
母がいれば、自身の貧乏なんて気にするまでもなかった。
幼稚園なんぞに行かせるお金は無かったから、彼女は家の中で遊ぶ事が多かった。当時は第三次世界大戦で荒廃し切った後だったから、幼稚園なんてものは無かった。あったとしても、彼女の家庭の経済力では通えなかっただろう。
母は朝に碌におめかしもせずにスーツを着て家を出て、そして夕方に帰ってきた。母が帰ってきたら、彼女は描いた絵や人形遊びについて話すのだった。
母がアップルパイというスイーツを買っていた事があった。彼女はそれを興味津々に見つめて、そして口に含むと、焼き林檎の果汁が溢れ出した。
「あのね──」
無心にアップルパイを食べる彼女を見て、母が呟いた。
誰に向けて言うわけでもなく、ただ虚空に向かって言葉を発した。
「ママ、会社をクビになっちゃって──」
「クビ?」
その単語の意味については、彼女の知識になかった。
それでも、母の不安を暗に感じ取ったのか、彼女の声色は心配そうだった。
「ええっとね……ママ違うお仕事をしようかなって思ってるの」
「どんなお仕事?かっこいい?かわいい?」
母は少しの思案の後に、張り付いた笑みを浮かべた。
「そうね……かっこいい仕事よ」
その一言に私は安心して、またアップルパイへと賞味に興味が移ったのだった。
それから、母は夜に家を出て、朝に帰ってくるようになった。
昼間も別の仕事なのか外出する事もあったのだが、基本的には以前とは昼夜逆転した生活を送るようになった。
母が夜仕事に向かう時は、以前とは比べ物にならない程化粧をしていた。母はこんなに変われるのだな、と興味深く思ったものだった。
私は、母と過ごせる時間が増えて嬉しかったが、母は段々と疲弊しているようだった。
母が目に見えて膿を溜め込んでいる最中、12になった私は学校に通うようになった。
「う、うわああああ!!!」
そんなある日、母が突然発狂した。
崩れ落ちたかと思うと、まるで赤子のように泣き出した。眼球は右へ左へと無作為に動き回り、膝から崩れ落ちたままぼんやりと中空を見つめていた。
それはとても恐ろしいものだった。母には私に見えない何かを見ているような気がした。
私は、このままの生活を続けていれば、やがて母が母ならざる物になるような気持ちがして──抑えられないざわめきを押し込むように母を抱き締めた。
私もアルバイトをして働くようになった。母に無理を掛けられないというのもあるし、このまま家の中にいたら、私迄おかしくなってしまうような気がしたのだ。
「ねぇ、栞──これ、これを見て」
ある日、母は私に何かを手渡した。見ると、それは青い涙状の宝石が吊られたペンダントだった。
すっかりやつれた母の手を握ってそれを受け取った。
「今日、栞の誕生日でしょう?」
母はそう言った。
「買ってくれたの?」
母は、目を瞑ってかぶりを振った。
「いいえ、違うわ──でも──これをお母さんだと思ってね」
「……」
その頃には、私もそこそこ大人になっていたから、母の言っている意味も、何となく推察できた。
「ママ、いなくならないでね……」
振り絞って、そう言うばかりだった。母は、何も答えなかった。
それからは、時はすぐに過ぎ去っていった。
段々と壊れていく母と、それを何もできずに見つめるだけの私。
何か声を掛けてあげればよかったのだろうか?それとも大人に相談すれば良かったのか?
だが、母の問題を認める事は、即ち今までの母が、優しい偉大な母の姿が偏執してしまうと私は考えた。
だから、待った。
いつまでも待った。
状況が好転することを、無限に有る時間に祈りながら。
しかし、目に見えて拡がっていた亀裂は、遂に割れた。
あの日、母は外出して、そして1日、2日と時が過ぎても──帰って来なかった。
私はどこぞの忠犬みたいにじっと家の中で帰りを待っていた。
幸運な事に、優しいアルバイト先のおばさんが心配して私の世話をしてくれたので、何とか凌げてはいた。
3畳のアパートの中で全てが完結していた。
塗装の剥がれた壁には一つの窓が取り付けられていて、そこから月が顔を覗かせた。
月の明かりが、塞ぎ込んだ私の心の匣を照らしつけていた。
6年待った。世間一般には、成人したということだろう。
かつての私の面影はよそに、すっかり体は成長していた。
いつまでも鬱になる事はなく、私は表層では母に関して結論を付けて、そして自分は立ち直ったものだと信じ込んだ。何かから逃げるようにバイトや学生生活に励んだ。1人暮らしは様々な苦難もあれど、そこから立ち直るメンタル処世術を私に与えてくれた。
それでも、私の心の内と、そしてあのペンダントは、変わらず、あの頃から変わらないままだった。
「栞ちゃん!ねぇ!栞ちゃん!」
ある日、私のアルバイト先に、一つ手紙が届いていた。例のおばさんが、机拭きに取り掛かろうとした私を、興奮した様子で呼んだ。おばさんは肝の据わった男勝りな女性だったから、彼女がこんなに上気しているのはあまり見た事がなかった。
それは、母からの一通の手紙だった。何度も見たが、間違いなく、母の字だった。
それには、ただ一つ──香港に居る──そう書かれていた。
「ねぇ、栞ちゃん……」
言われずとも、そうすると決まっている。
少女は旅に出た。どうせ、待ち続ける人生も嫌だから。そして、待ち続けるだけの自分を変えたかった。
それは母の為なのかもしれないし、自分の為なのかもしれない。
だが、過程はそれ程大事ではない。少女が欲しいのはハッピーエンドだ。
それに向かって、狂った足取りで歩いていくゾンビでもいい。
だから、今は起きて。
びっしょりとイヤな汗をかいていた。はぁ、はぁ、興奮した息を整える。
全く、こんなにあからさまな夢を見たのは久しぶりだ。
どうしても母と逢えることを意識してしまうのだろうか。香港に着いた事は勿論そうだし、昨日の鈴音に発言もそうだ。まだ確かに見た訳ではないのだが、彼女には、確かに力と運があるのだろう。特に理由はない。強いて言えば女の勘だ。
だからと言って、我を失うほど自分が期待しているとは思いもしなかったな……
愚かかもしれないな。
「鏑木邸の寝心地はどう?」
ドアが開いて、恩が入ってきた。
腕組みをして、壁に寄りかかる。
「……最高だったよ!」
「はぁ……嘘つけ。お前、だいぶうなされてたぞ」
「本当?心配掛けてごめんね。大丈夫だから……」
すると、恩はやれやれと肩をすくめた。
「昨日、自分で言ってたのにね。大丈夫って言ってる奴で大丈夫な奴を見た事が無いって……」
「あぁ……」
うっかりしていた。そういえばそんな事を言った気がする。
過去の失言に足元を掬われるとはこのことか。愚かだなぁ……
「──昨日はお楽しみの所邪魔して悪かったね」
「い、いやあれは事故みたいなもんで……」
私は焦って弁解する。しかし彼女は険しい表情のまま目を伏せる。
「お嬢様が認めた以上──お前でもこの邸宅の一部なのよ。邸宅を調和させるのも使用人の仕事だから、不和は許されてはいけないの。何が問題なのかは敢えて聞かないけど……お前1人で抱え込まないで。私でもいい、少しは人を頼りなね」
「──恩蘭藍って、案外優しいんだね」
すると、蘭藍は褒められたのが恥ずかしいのか、ぷいと他所を向いた。
「私はそんなに良い人間じゃない」
お?何だ?照れ隠しか?
「またまた〜そんな事言って〜」
「……」
結構可愛い所もあるじゃんか。