変身する日
教壇に立つ先生が言った。
「信じていれば人は変身できます。『どうせ無理だ』などと諦めないでください。君たちは若い! 可能性に溢れている! たとえ非現実的な夢であっても無理と諦めず、信じることをやめずに、その日を待ってください」
僕たちはキラキラと目を輝かせていたように思う。あるいは僕だけ?
僕はその先生のことをあまり好きではなかったのだが、この話をされた時だけは、先生のことを教祖さまみたいに崇めてもいいと思った。
僕は空が飛びたかった。
いつか空を飛べる存在に変身して、山を飛び越えてみたかった。
そんな、人間には無理と思えるような夢を諦めず、その日を待てと先生は言った。僕は、待った。自分の身体が蛹になり、やがて翼が生えて飛び立てる日を。
学校の廊下を歩いているとマテウスが話しかけてきた。話しかけてきたというよりは、いつもの嫌がらせだ。
「よォウ、エーミール! おまえ、今日の先公の話、やたら真面目に聞いてたよなァ?」
無視して先へ行こうとすると肩を掴まれた。
「どーせおまえ、世界を滅ぼす力が欲しいとか思ってんだろ? 巨人になって、すべてを踏み潰したいとか思ってんだろ? ちっちゃくて弱々なヤツの夢なんて容易くわかっちまうよ。でもざーねーんでした! おまえはただのチビで、なんにもできねーカスだからよ!」
「そんな夢なんかもってない!」
僕はマテウスの手を払い、言った。
「僕はただ、空を飛びたいだけだ! 誰にも邪魔されず、自由な空を!」
僕のことばなんか信じないぞというように、マテウスは小馬鹿にする笑いを浮かべただけだった。
「エーミール!」
マテウスを置いて歩いていると、後ろから呼び止める声がする。
「待てよ! エーミール・ハイルナー!」
振り向くとマックス・シンクレールが追いかけてきていた。
クラスの人気者で優等生だ。落ちこぼれの僕には無縁の存在で、会話をしたこともないやつだ。
いつも胸にペンダントをぶら下げている。銀の鎖についているのは地球の形をした卵だ。
「何か用?」と僕が聞くと、彼は心を読み取れないあかるい笑顔で言う。
「さっきのマテウスと話してるの聞いたぜ? キミ、空が飛びたいんだね?」
またバカにされると思って僕は適当に頷き、先へ行こうとした。べつに行くところはないけど、じっとしていると息が詰まるので。
するとマックスが意外なことを言いだした。
「僕もなんだ! 僕も変身できたら空を飛びたい!」
優等生の発言とは思えなかった。
きっと飛びたい理由は僕とはまったく違っているのだろうと思い、「ふぅん?」とだけ返した。
すると彼は僕の心に刺さることばを口にした。
「誰に見せつけるためでもなく、ただ一人で自由に空を飛びたいんだ」
驚いて僕は再び彼を振り向いた。
「キミもそうなの?」
「ああ! ただ空を飛びたいんだ! でも、一緒に飛んでくれるやつがいたら、もっと気持ちが楽しいと思う。その時が来たら、一緒に飛んでくれないか?」
彼の胸の卵がはしゃぐように揺れた。
僕は彼の目を初めて見た。彼の目は、その内に楽しそうなワンダーランドを秘めていた。いくつもの島が浮かぶ海が、七色に輝いていた。それは僕と似ていた。とっても、僕に似ていた。
「よろしく、マックス。一緒に飛ぼう」
僕たちは握手を交わした。
「楽しみだね、エーミール。楽しみにしているよ、変身の日を」
その日はそれからすぐにやって来た。
気がつくと、僕の足はもう地面から離れ、身体は宙に浮いていた。
ある朝目覚めたらとか、蛹を脱いだらとかではなく、気がついたら僕は空を飛んでいたのだった。
山を飛び越えるのはあっという間だった。僕は風に乗り、ぐんぐんと上へ昇っていく。怖いものは何もなかった。思ったほうへ、僕は空を飛び続けた。
自分がどんな姿になっているのかはわからない。たまに高い山の上を飛ぶ時、頂上に僕の影が見えた。それはとても自分とは思えない影だった。おおきな翼を広げていた。
山を越え、急降下すると僕の街が見えてきた。間違いない、あの高い建物はいつも通学途中に見上げている時計台だ。その屋根が遥か眼下に見えている。
風を激しく切りながら、僕の目は痛みを感じることなく、おおきく見開かれて、ただ喜びだけを感じていた。
「エーミール!」
空気を轟かすようなあかるい声に、振り向いた。
一羽のおおきな鷹が、僕のほうへ飛んでくる。マックス・シンクレールだとすぐにわかったのは、彼が空を飛びながら、地球のような卵を胸に抱いていたからだ。
「約束だよ! 一緒に飛ぼう!」
「うん! 僕らは自由だけど、一緒に飛ぶんだね!」
僕らは並んで飛び、お互いを追いかけるように輪を描いて飛び、離れてはまた近づきを繰り返した。
山のむこうに夕陽が落ちきるまで、僕らは空を飛んでいた。
やがて夜が来ると、森の木に止まり、二人で眠った。明日がどうなるかはわからない。目が覚めたらまた人間に戻っていて学校へ行くのか、それともこのまま一生鳥として生きて行くのか──
出来るなら一生このままでいたかった。