幸福な初恋の終わり方~王子は傷もの令嬢を寵愛す~
「ヨアンナ。済まないが、私はこの件について長引かせる気は無い」
開口一番に、父上は私にそう言った。二人を隔てる大きな長テーブルには、一口も飲んでいない冷めきった紅茶の入ったティーカップが二つ置かれている。
年頃になっても、私は婚約が決まらないでいた。幼い日に罹った病が原因で額から片頬にかけて残った痘痕を理由に、どこの家からも断られてしまうのだ。
顔に痕のある娘を嫁に貰いたいなどという奇特な男は何処にも居ない。そして私が家にいる間は、兄の結婚も決まらない。つまりは私がどこかに行かなければ、我が家の今後に関わってくるのだ。両親も私も、すっかり困り果てていたのだった。
大きな溜息をついてから父上は私をちらりと見て、あからさまに視線を外した。その態度は親であっても直視できない程に私の顔が醜いことの表れである。どんなに厚化粧をしても、肌にある窪みを完全に隠すことは出来ないのだ。
「そこで、だ。次の誕生日までに婚約が決まらなければ、お前には修道院に行ってもらう」
「はい……承知しました」
「だが、それまでの間はお前も結婚相手を探す努力をしなさい。この際、相手は年老いた男でもバツイチでも身分が低くても何でも良い。参加出来る夜会や舞踏会は全部参加しろ。良いな?」
「お父様、それは……っ」
夜会も舞踏会も、私は一度も参加したことが無かった。何故なら三歳の時に顔に痘痕が出来てから、ずっと家にこもりきりだったからだ。
家族以外の多くの人か集う場所。人々から容赦なく降り注ぐ好奇の目を想像して、私は身体を震わした。
「夜会に参加するなど、私には無理です。もう今から修道院へ行くのでも構いませんので、どうか……!!」
「娘を修道院送りにするなど、最後の手段でしかないんだ。だからあくまで、お前を嫁に行かせるのが第一優先だ。そこは譲らない」
「でも……っ!!」
「悪いが、お前に拒否権は無い。分かったらさっさと出ていけ」
半ば追い出される形で、私は部屋を後にした。
確かに、不器量な娘を修道院に送ったとなれば体裁が悪い。父上からしても、それはできれば避けたいのだろう。自室へ戻ってから、私はひたすらに頭を抱えた。
山のように化粧品を置いたドレッサーの鏡に映るのは、醜い自分の顔。そんな女が男から愛されることはおろか、触れ合うことすら想像できなかった。
「こんな顔、大嫌い」
自らを呪うように、私は呟いた。
こうして、私の結婚相手探しは幕を開けたのである。
+
初めて参加する舞踏会は、大勢の人で賑わっていた。どうやら今回は国の要人が多数参加するらしく、皆浮き足立っているように見えた。
壁際に立ち、私はすっかり壁の花となっていた。しかし、人々はまるで醜い女の存在に気付いていないかのように、素通りしていく。好奇の目で見られると思っていたので、それはせめてもの救いだった。
ぼんやりと広間を眺めていると、一人の令嬢が私の前を通りかかった。
私よりも一、二歳年下だろうか。彼女は人形のように可愛らしい姿をしていた。
陶器のようにつるりとした肌に、波打った長い金髪。シースルー気味の前髪の下、眉は綺麗なアーチを描いていた。小花の散った華やかなドレスがとても似合っている。
その胸元には、大きなルビーのネックレスが輝いていた。
「綺麗……」
あまりの美しさに、私はつい感嘆の声を漏らした。
すると、なんと彼女は私の方に振り向いたのだった。そしてあろうことか、私目掛けてツカツカと歩み寄ってきたのである。
「ねえ。今の言葉、貴女が言ったの?」
そう言った彼女の瞳は、鋭く光っていた。人形のような物憂げでぼやついた瞳ではなく、そこには強い意志が滲んでいた。
刺さるような視線に怯えるように、私はつい後ずさった。
「え、あっ……申し訳ございません、あまりに美しかったので……つい……」
私と違って令嬢が高貴な身分であるのは、一目見て分かった。普通に生きていたならば、彼女と言葉を交わすことすら出来ないだろう。そんな彼女を褒めるなど、身の程知らずである他無い。
「その……」
「貴女、分かってるじゃない!! ね、もしかして宝石とかドレスとか、綺麗なものが好きなの?」
知らぬ間に、令嬢は私の片手を両手で握っていた。くるりと上向いた睫毛の下、紺碧の瞳は硝子玉のようにキラキラと輝いていたのだった。
「え、あ……はい」
「嬉しい!! 何だか私、貴女と気が合いそうだわ!! 貴女見ない顔だけど、もしかして舞踏会に参加するの初めて?」
「はい、そうです……」
「そっか、見たこと無い顔だと思ったのよ!!」
見たこと無い顔。きっと痘痕のことを珍しがって言っているのだろう。私はちくりと胸が痛むのを感じた。
そこまでまくし立てたところで、彼女の後ろから声が聞こえてきた。
「テレサ、何してるんだ。早く来なさい」
どうやら、令嬢は家族と来ているようだった。
「ごめん、今日はお父様とお母様もいるからゆっくりできないわ。また今度話しましょう。絶対連絡するから。貴女、お名前は?」
「れ、レフォード子爵家長女の、ヨアンナと申します……」
「ヨアンナって言うのね、覚えたわ!! 私はテレサ。じゃあ、またね!」
テレサと名乗った令嬢は、そう言い残して意気揚々と去っていった。それは正に、嵐のように一瞬の出来事であった。
記憶違いでなければ確か、我が国ラフタシュの第一王女の名前もテレサだったような。いや、まさかそんな筈は……。
その予感が見事的中してしまうことを、思ってもみなかった。
+
ラフタシュ王室から私宛に手紙が届いたのは、舞踏会の翌日の午後のことであった。
手紙の内容は、王女テレサが私を王室の宮殿に招待したがっているという内容だった。そして良ければ、王室の馬車で迎えに来るというのだという。
「一体どういうことだ? ヨアンナ、確かに舞踏会に参加しろとは言ったが、だからといって王女と知り合って来いとは言ってないぞ!?」
「さ、さあ……私も何が何だか」
あまりにも現実離れした事態に、父上はこの上無く慌てていた。初めは何者かのイタズラだと思ったようだが、封筒に押されたシーリングスタンプの紋章は見まごうことなく王室のものであり、本物だと確信したらしい。
「取り敢えず、早急に返信を……」
そう言って羽根ペンを握った父上の手は、酷く震えていた。
父上が便箋に一行文を書いたところで、書斎にメイドが焦った様子で入ってきた。
「た、大変です!!」
「何だ!? 私は今忙しい、後にしてくれ!!」
「大変です、門の前に王室からお迎えの馬車が来てまして!!」
「え、えええっ!!」
慌てて部屋の窓から外を覗くと、白い豪奢な装飾が施された馬車が、我が家の門の前に停まっていた。
そしてその側面には、王室の金色の紋章が輝いているのが遠目でも分かった。
唖然とする私の後ろから、メイドが声をかけてきた。
「その……ヨアンナ様を呼んで欲しいと言われまして」
「そんな急に……」
「何言ってるんだ!! 早く行ってこい!!」
父上に急き立てられ、私は大急ぎで馬車へと向かった。
早足で歩く間も、まだ今の状況に頭がついてきていなかった。馬車の前に辿り着いた頃には、何かの間違いだ、詐欺にでも引っかかったのだろうと思い始めていた。
けれどもそれは、夢でも詐欺でも無かった。
「待ってたわよ、ヨアンナ」
馬車には、あの夜会で会った彼女ーテレサが居たのだった。困惑する私をよそに、彼女は無邪気な笑みを湛えていた。
「え、あ、テレサ王女……?」
「突然押しかけてごめんなさいね、取り敢えず、後は馬車の中で話しましょう?」
「は、はい」
テレサに言われるがまま、私は馬車に乗り込んだ。そして私が座った後、馬車はゆっくりと動き出したのである。
「父上には、まず手紙を出して日取りを決めてからにしなさいって言われたんだけど、どうしても待ちきれなくって。手紙が届くタイミングで迎えに来ちゃったわ」
どうやらテレサは、思い立ったらすぐ行動する性格のようだった。
彼女の雰囲気に押されつつも、私は精一杯笑顔を取り繕った。王女の気分を害してしまった場合、何が起きるか分からない。私は人生で感じたことの無い緊張感を密かに感じていた。
「でもね、ヨアンナ。うちの宮殿には綺麗なものが沢山あるから、きっと楽しいと思うの」
「は、はは……」
綱渡りのような命懸けのお喋りは、宮殿に着くまで続いたのだった。
+
宮殿に着くと、テレサは彼女の部屋に案内してくれた。
高い天井には空を飛びまわる天使の絵が描かれていたり、窓の縁が金縁で飾られていたりと、宮殿の内部は童話の世界そのものであった。はしたないとは思いつつも、彼女の部屋に行く途中、私はつい周囲をキョロキョロと見回してしまったのである。
「着いたわ。ここよ」
金色のドアノブを捻った先に現れたのは、可愛らしいテレサの部屋だった。家具は全て白で統一されており、可憐な外見の彼女の部屋には正にぴったりであった。
椅子に座ると、テレサはテーブルにジュエリーを並べ始めたのだった。
「わあ……」
図鑑や絵でしか見たことの無かった煌めきが、目と鼻の先にある。私はつい、歓声を上げた。
「凄い綺麗!! ルビーにサファイアにエメラルドに……私、初めて見ました」
「ふふっ、じゃあ当てっこしましょう。これは何か分かる?」
「これは……トパーズですね!!」
「凄い、詳しいじゃない!! じゃあこれは?」
こんな調子で、知らぬ間に私はテレサとの会話に夢中になっていた。先程まで感じていた恐怖心は、いとも簡単に消え去っていたのである。
「ね、衣装部屋も見てみる? 貴女、可愛いドレスとかも好きでしょう?」
「ぜ、是非見たいです!!」
楽しい時間は瞬く間に過ぎていった。そして気付いた頃には、夕方となっていたのである。
その頃にはすっかりテレサと打ち解けていたので、帰るのが名残惜しいとさえ感じていた。人生で一番充実した日と言っても過言では無い程に、彼女との宮殿散策は楽しくて堪らなかったのだ。
「テレサ様、今日はありがとうございました。そろそろ……」
「ね、折角だから夕食食べてかない? 父上や母上、お兄様にも貴女を紹介したいの!!」
テレサの一言を聞いて、さっと血の気が引いた。
彼女の父上と母上、それに兄上というとつまり……、この国の国王と王妃、王子だ。
一貴族の小娘がロイヤルファミリーに囲まれて食事をするなど、とんでもない話だ。
「そんな、も、申し訳無いです……!!」
「大丈夫よ、皆きっと貴女を気に入るに決まってるわ。ね、良いでしょ?」
最終的に彼女に根負けする形で、私は夕食に参加することになったのだった。
食堂に行くと、国王陛下と王妃殿下は既に座って待っていた。
「遅かったな、テレサ」
「お父様、今日はお友達も夕食に参加して良いかしら?」
当然、私は彼等と初対面だ。二人を前にして、私は恐る恐る挨拶をした。見知らぬ小娘の登場に余程驚いたのか、国王様も王妃様も目を丸くしていた。
そのままつまみ出されるかと思いきや、意外にもそうはならなかった。
「テレサ、食事に誘うなら前もって早く言いなさい。もてなす準備というものがあるだろう? それとヨアンナ嬢、娘の我儘に付き合わせて申し訳無い。まあ座ってくれ」
「と、とんでもございません」
「本当にこの子ったら、昔から頑固で言っても聞かなくて……ごめんなさいね」
「いいいいえ、そんな滅相もございません」
自国の国王と王妃を前にして、私は首を横に振るのが精一杯だった。食卓の椅子に座った後も、背筋が真っ直ぐのまま身動きが出来ないでいた。
「ヨアンナはね、昨日の舞踏会で偶然会ったの!! それで……」
テレサがこれまでの経緯を話し始めたところで、食堂の扉が開く音が聞こえた。
「遅くなりました。……おや」
遅れてやってきたのは、テレサと同じく美しい金髪をした美青年。
「今日は一人、可愛らしいお客様がいるね」
そう言って、ヘンリク王子は私に微笑んだのである。
+
「でね、ヨアンナってば宝石の名前にもとっても詳しいの!!」
「それは凄いな、とっても物知りなんだね」
「い、いえ……本を読むことが多かっただけで」
「読書が好きなのか、それは良いことだ」
夕食は、意外にも和やかに進んでいった。テレサの家族は皆、気高さはあれど優しい人々ばかりだったのである。
家では一人で食事をとるのが常だったので、賑やかな食事は何だか新鮮だった。
「そう言えば、ヨアンナはどこの貴族学校に行ってたの? 私とお兄様は西の貴族学校だったけど。学区的に東?」
この国では、貴族の子女は一年間貴族学校に通うのが通例だ。そこで貴族としてのしきたりや、教養を学ぶのだ。
しかし、当然ながら私は通っていなかった。
「その……家の方針で通っていなくて。一応家庭教師を付けて勉強はしてましたが」
「え」
テレサもヘンリクも、ぎょっと目を見開いた。その表情がそっくりで、二人が兄妹であるのだなと改めて感じた。
気まずくなり、私は一口大にちぎったパン片手に俯いてしまった。すると、テレサが、思いもよらぬことを言ったのだった。
「学校通ってないのにそんな頭良いなんて、凄すぎない? 私もお兄様も学校通っても全然身に付いてないのに」
「そうだな、大したもんだ」
「お前は少しは否定しろ、ヘンリク」
呆れたように、国王様は溜息をついた。そして私の方を向いたのだった。
「うちの娘も息子も学業面ではからっきしでね。君の真面目さを分けて欲しいくらいだ。是非、これからも仲良くしてやって欲しい」
「酷い、お父様!!」
「こらこら、テレサ。折角の可愛い顔が台無しじゃないか」
テレサはむくれたように頬を膨らました。それをヘンリクか優しく窘める。きっと、これが彼らの日常なのだろう。
自分の兄と口をきいたのなんて、いつが最後かも分からない。私にとって目の前の仲睦まじい兄妹は、眩しい存在であった。
「ヨアンナ、明後日の舞踏会も参加するの?」
「はい、その予定ですわ」
「嬉しい!! 見かけたらまた声かけるから!!」
「こらこら、テレサ。ヨアンナ嬢が困ってるだろう」
「は、はは……」
そんなこんなで、無事ロイヤルファミリーとの食事は終了した。
そして夕食を終えた後、テレサは馬車の前まで見送りに来てくれたのだった。
「今日はありがとう。とっても楽しかったわ。はい、これ。プレゼント」
手渡されたのは、一粒ダイヤの輝くプラチナのイヤリングだった。
「そんな……!! こんな高価なもの、頂けませんわ!!」
「友達になった印よ。次の舞踏会に付けてきて頂戴、約束ね?」
「え、あ、テレサ様!?」
私がイヤリングを返すより先に、テレサは私を馬車に押し込めた。
「じゃあね、おやすみなさい!!」
馬車が動き始めたところで、テレサは笑顔で私に手を振ったのだった。
ふっとため息を吐いてから馬車の中で私は、手の中のイヤリングを見つめた。月明かりに照らされて、ダイヤは白く煌めいている。
少し強引だけど、純粋で何だか憎めない不思議な子。
テレサに対してそんな感情を抱きつつ、明後日の舞踏会を楽しみに思い始めている自分がいた。
+
「あ、ヨアンナ!!」
舞踏会の会場に行くと、テレサが直ぐさま声をかけて来た。どうやら今日は国王様と王妃様はいないようで、彼女の隣にはヘンリクが立っていたのだった。
「やあ、元気にしてたかい?」
「はい、お陰様で何事も無く。お二人の方は?」
「もう、ヨアンナはお堅いんだから。そんなに気を使わなくって良いのに」
兄妹は、私に気さくに話しかけてくれた。けれども彼らが王子と王女であるため、私たちは注目の的になってしまったのである。
少し居心地の悪さを感じていると、テレサがある疑問を口にしたのだった。
「あれ、そう言えばヨアンナ、付き添いは? 席を外してるの?」
「……いえ。その……父上も兄上も仕事で忙しいので」
本来であれば、舞踏会は付き添い人と共に参加するのがルールだ。しかし、父上も兄上も不出来な私の隣に立ちたくないのは明白だったので、仕方無く一人で参加したのである。
「何それ!? 付き添い無しに舞踏会に参加しろだなんて、あんまりだわ!!」
「本当に、困ったものだ。夜にご令嬢が一人歩きするなんて、心配だよ」
「ど、どうぞお構い無く……」
その顔なら仕方が無いと納得するかと思いきや、テレサとヘンリクは私を心配してくれているようだった。ここまで来ると、二人にだけ痘痕が見えない魔法でもかかっているのかと恐ろしく思い始めてしまう程である。
「だったら、これからは三人で参加しましょうよ。私達、社会勉強のためにこういう会には必ず出席しなさいって言われてから、大抵は参加してるだろうし。お兄様も居たら心配無いものね?」
「え、えええ!!」
「ああ、それは名案だ。流石テレサ」
彼女の提案に驚く私を他所に、二人はすっかり乗り気になっていた。
人並みに心配されていることに、私は嬉しく感じていた。
夜会に一人参加して、結婚相手を見つけるのは無理な話だ。いっそ三人で参加するのであれば、相手は見つからなくとも楽しくは過ごせるだろう。
しかし、その案にはある問題があった。
「ご親切にありがとうございます。でも、三人では踊れませんので」
当たり前だが、舞踏会のダンスは二人一組だ。そして見目麗しい兄妹が組むべきであるのは誰の目から見ても明らかだろう。
「どうぞ、お二人で踊ってきてくださいな。私はここで……」
「だったら、お兄様とヨアンナで踊ってよ。私、毎日お兄様と顔を合わせてて、もう見飽きましたの」
「て、テレサ様!?」
「あ、そこの貴方、私と踊って下さらない?」
いきなり兄に対して暴言を吐いたかと思えば、テレサは適当な男に声をかけて、さっさと私達を置いて居なくなってしまった。
「そう言うことだから、俺と踊ってくれないかな? ヨアンナ嬢」
少しだけ困ったように言って、ヘンリクは私に手を差し伸べたのだった。
「……私でよろしければ、是非」
吸い寄せられるように、私は彼の手を取った。
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
ヘンリクと共に、私はダンスホールへと向かった。不安と緊張で、私は爪先まですっかり震えていた。
「大丈夫、俺がリードしていくから」
覚束無い足取りの私を、ヘンリクは優しくリードしてくれた。
「まあ、ヘンリク王子と踊ってらっしゃるのはどなたかしら? 見たことない方だわ」
「あら本当。どなたかしら」
私達を噂するヒソヒソ声が、遠くから聞こえる。しかし私が厚化粧をしていて遠目であるからか、痘痕には気付かれていないようだった。
「でもまあ、王子殿下なら誰と踊ってても不思議ではないな」
誰と踊ってても不思議では無い。それは一体どういうことだろう?
その一言だけ、少しだけ気にかかったのだった。
けれどもそんな些細なことは、胸の高鳴りで頭の中から押し出されてしまった。
「ふふ、そんな俯いてばかりいたら、品の良い素敵な顔が勿体無いよ」
ダンスの最中、ヘンリクは私にそう囁いた。彼としては軽いお世辞なのだろうけど、私を赤面させるには十分すぎる言葉であった。
こんなこと、あるはずが無い。もしかしたら私は、都合の良い幸せな夢を見ているのかもしれない。
そうも考えた。しかし、繋いだ手の温もりはこれが夢では無いことを私に教えた。
恥ずかしさのあまり、ヘンリクの顔を横目で見ることすらできない。そんな私を、彼は面白がっているようだった。
「可愛いね、ヨアンナ。それにイヤリングもとても似合ってる」
「……っ、そんな、お戯れを」
「ふふっ、やっぱり一度目だったら駄目か」
こうして夢のような一夜は、あっという間に過ぎ去っていったのである。
+
「ねえ、ヨアンナはお兄様のこと、どう思ってる?」
「え……?」
入浴後に寝室にやって来るや否や、テレサは唐突に私に問いかけたのだった。
いつもは宮殿に遊びに行く場合も日帰りなのだけれども今日は違った。泊まりでの滞在、所謂お泊まり会なのである。
「ど、どうしたのですか? いきなり……」
「ううん、ちょっと気になったから聞いてみただけ」
ベッドに上がりながら、テレサは言った。天蓋付きのベッドは、私と彼女が乗ってもまだまだ余白が余る程に大きなものだった。テレサが一緒に寝たいと言ったので私は隣で寝ることになったのである。
袖口や襟元にレースが施された純白のナイトドレスを着た彼女は、まるで天使だ。天使は私の心のうちを探るように、こちらをじっと見つめていた。
「正直に、どう思ってる?」
「その……とてもお優しくて、素敵な方だと思っております」
テレサがヘンリクを心から慕っているのは言動から滲み出ている。きっと、私が兄に恋心を抱いてないか心配なのだろう。それを察して、私は当たり障りのない回答をした。
実際、ヘンリクのことは素敵な人だと思っている。けれどもそれは、恋心ではなく、憧れに近いものであった。
私なんかではなく、彼はもっと素敵な女性と結ばれるべきだと、そして幸せになって欲しいと願っていたのだ。
「やっぱりそうよね。じゃあ、男性としてはどう思ってる?」
「え、え……?」
「私ね。貴女とお兄様、とってもお似合いだと思うの」
テレサの一言は、私を酷く困惑させた。
自分がヘンリクと幸せになりたいなどとは思わない。思える自信が無かったのだ。身の程知らずなことを考えても、所詮夢物語。傷つくのは避けたかったのである。
「貴女が義姉上になってくれたら、きっと毎日が楽しいに決まってるもの。それに、お父様もお母様も貴女のことは良い子だっていつも褒めてるくらいだし」
「で、でも、ヘンリク様がどう思ってらっしゃるかは分かりませんし」
「あら、お兄様だって、貴女のことをとっても可愛いって褒めてるわよ? だから言ったんじゃない」
ヘンリクの笑顔を思い浮かべ、私は顔を赤らめた。お世辞だとは分かっていても、そう言われている光景を思い浮かべるだけで恥ずかしくて仕方なかったのだ。
「ね、私含めてみんな貴女が大好きなの。あとは貴女の気持ちだけ。どう?」
そう言ったテレサの瞳は、爛々と輝いていた。無邪気な仔犬のように悪意の無い瞳。うっかり頷いてしまいそうになっていた。きっとこの場で頷いたら、明日の朝にでも彼女は両親や兄に言いに行くに違いない。
それはダメだ。しかしテレサのことを妹のように思い始めていた私としては、期待に満ちた彼女を裏切るなんて到底できない。
「ま、まだ自分の気持ちが分からなくて。ヘンリク様とは知り合って日も浅いので……」
頷くのをギリギリで堪えて、私はそう言った。
「それに、顔に痘痕のある女なんて、お優しいヘンリク様であっても嫌に決まってますわ」
入浴後ということもあり化粧はしておらず、スキンケア後に粉を叩いただけの顔は、何時もより肌の凹凸が目立って見えた。
黙っていると、テレサは何故か私に顔を近づけて来たのだった。
目と鼻の先には、美しいかんばせ。同性ではあるが、どきりとしてしまう。
「て、テレサ様……?」
「ごめん、貴女とお喋りするのが楽しくて全然気付かなかったわ」
「え?」
彼女の目に、醜い跡が見えていなかったというのか。信じられない一言に、私は唖然とした。
「多分だけど。気付いてないのは私だけじゃないと思うわ。だって私からすれば貴女は大切なお友達だし、そんな細かいこと見てないわよ、他の三人も」
ずっと私を縛っていた鎖を、テレサはいとも簡単に引きちぎってしまったのである。
「そんなことより。ねえ、ヨアンナはお兄様のこと、どう思う?」
一人の人間として扱ってもらえる。私は今きっと、人生で一番幸福な時を過ごしているのだろう。
けれども、私は首を横に振った。
「もう少しだけ、考えさせてください」
「……そっか。今はまだそうよね。急かすような言い方をしてごめんなさい」
テレサは少しだけしょんぼりしたものの、何とか引き下がってくれた。内心ホッと胸を撫で下ろすものの、良心が痛むのを感じた。
「もう夜も遅いし、寝ましょうか」
「はい、そうしましょう」
テレサは明かりを消し、寝室を静寂が包んだ。
真っ暗となった部屋で、胸の鼓動がうるさくて私はなかなか眠れないでいた。彼女の一言で、ヘンリクの姿が頭から離れなくなってしまったのである。
舞踏会で彼と踊った時のことを思い浮かべていたところで、隣からモゾモゾと身体を動かす音が聞こえてきた。
「ね、ヨアンナ。まだ起きてる?」
「……はい」
「少しだけ、昔話に付き合ってくれない?」
「はい、私で良ければ」
いつものような明るい声色でもなく、彼女には珍しく淡々とした口調であった。それに驚きながらも、私は頷いた。
「ありがとう。実は私ね、昔はすっごく醜くて汚らしい子供だったの」
「え……?」
それは、美しい外見の彼女からは想像出来ない告白だった。
「私生まれつき肌が弱くて、酷い皮膚炎だったのよ。いつも全身痒くて、顔も身体もぐちゃぐちゃに掻きむしってた。消毒しても薬を塗っても痒みや痛みは止まらなくて。我慢して薬を塗って、かきやぶれが治りかけてまた掻きむしっての繰り返しよ」
「……」
「時折入浴後に包帯を消毒液に浸して、身体にぐるぐる巻いてたりしてたわ。ミイラみたいにね」
彼女の声からは、依然として何の感情も読み取れない。困惑しながらも、私は話に集中した。
「病気だから仕方が無いの。それでもね、子供って残酷だから。身体を洗ってないんじゃないかとか不潔とか、大人が居ないところで同年代から酷いことを沢山言われたわ。だから、人に会うのが嫌で仕方無かった」
好奇の目を恐れる気持ちは、痛いほどに想像出来た。何故なら私は、今だってそうだからだ。けれども分かる分、彼女に対してどのように声をかければ良いか分からなかった。
「そんなんだから、ずっと部屋にこもりきりだった。気持ちも荒んでたから、下らないこと癇癪を起こしては周りに当たり散らしてた。メイド達にも両親にも、凄く手を焼かれてたわ」
振り向くと、テレサは私に背を向けて寝ていたので彼女の表情は分からなかった。しかし、その華奢な背中は僅かに震えている気がした。
「でもね、お兄様だけは違った。毎日部屋に遊びに来てくれたの」
「え?」
「可愛いテレサ、元気?って。散々私が当たっても、気にすることなく次の日にはまた部屋に来るの。怒られたことは一回も無いわ。一度、私がお兄様の顔を思い切り引っ掻いてその傷が額に残ってるんだけど、それでもお兄様は絶対怒らなかった」
きっとヘンリクは、何時もの調子で穏やかに彼女を窘めたのだろう。
「皮膚炎が治ってから、皆手の平を返してきたわ。今まで散々陰口言ってたくせに、美しいだの可憐だの天使だの。でも、顔がぐちゃぐちゃだった時から変わらないのよ。お兄様が『可愛いテレサ』って言ってくれるのは」
態度を変えずに接してくれる存在は、テレサにとって大きな支えになったのだろう。
そんな素敵な存在、私には居なかったけれども。
「でね、最初は家族だからそうしてくれたと思ってたの。でも成長してから気づいたわ。お兄様は、皆に平等に優しいのだと。その優しさの一欠片を私も分け与えられたんだって」
そこまで言って、テレサは仰向けに寝返りを打った。枕にはウェーブがかった美しい髪が投げ出され、星の光を受けて艶めいていた。
「少し前に、お兄様との婚約が破談になった女がいるんだけどね、彼女からしたら愛は有限であって''特別大切な人に''注ぐための限定的なものだった。それに対して、お兄様からしたら愛は無限のものであって、皆に平等に分け与えるべきものなの」
「お考えが、正反対だったのですね」
「そうよ。そして彼女は、女好きっていうお兄様の世間の評価をそのまま鵜呑みにした。確かにお兄様は色んなご令嬢と噂は絶えないけど、全部ご令嬢から声をかけたものなのにね。それと、自分以外の女に親切にするのが許せなかったみたい」
「……」
「男性の親切は恋愛感情に起因するとか言うけど、お兄様は違う。だって、妹の私にも、老婦人にも、身分の低い女にも優しいんですもの。それを女好きと言うと思う?」
つまりは恋愛感情の有無に関わらず、彼は女性に優しいということらしい。確かにそれは、女好きとは少し違うだろう。
「生まれた時から美しくて、蝶よ花よと育てられた彼女からすれば愛は限定的なものだから、''平等な愛''を支えとしていた私みたいな存在がいるだなんて考えつかないんでしょうね」
宙を見つめながら、テレサは少しだけ眉間に皺を寄せていた。
「妻としての特別な愛が欲しいのは仕方が無いと思う。でもね、女好きっていう有象無象の噂をまず信じて、どれだけお兄様本人の言葉を聞いたのかしら?って私は言いたいの。愛についてどう考えているか、絶対に一度くらいお兄様は話してるはずよ。それを聞いても、二人の考えに折り合いを付ける方向に行かなかったのかって疑問なの。自分の意見をぶつけるだけで話し合おうとしなかった彼女が、私は許せなかった」
察するに破談となったのも、一悶着あったからなのだろう。しかし、平素穏やかなヘンリクがご令嬢と喧嘩するなど全く想像出来なかった。
「ね、ヨアンナ。貴女は愛情は有限だと思う?」
この問いには誤魔化さずに答えなければならないと、私は直感した。
有限とは、言わばホールケーキのように、切り分けて食べてしまえば無くなってしまうものだ。それに対して無限とは、山麓の湧水のようなものを指すのだろう。
少し考えた後、私は口を開いた。
「私は、愛は有限ではないと思います」
「それは何故かしら?」
「結婚したり子供を産んだりして、生きていく上で大切な人は増えていくばかりです。けれどもそれが故に、元いる大切な人たちを無下に扱うようにはなりません。つまりは大切な人が増える度に、愛情の総和は確実に増えるものと言えます。それに限度は無いと思うのです」
自分なりに論理立てて、私は懸命に説明した。
「ふふ、貴女ならそう言ってくれると思った」
するとテレサは、嬉しそうに笑ったのだった。
「貴女の意見が聞けて良かったわ。じゃあ、今度こそおやすみなさい」
彼女の言葉を最後に、私達は眠りについたのだった。
+
夜会で、私は再び《壁の花》となっていた。今回もテレサとヘンリクと合流する予定だが、二人は公務の都合で到着が遅れるとのことだった。
私の誕生日は、もう目前となっていた。けれども結婚相手はまだ見つかっていない。舞踏会や夜会で私に話しかけてくる者はやはり居ないのだ。父上から縁談が来たとも言われないので、修道院に行くことがほぼ確定したようなものである。
修道女となって生活をすることに抵抗は無かった。きっと、テレサやヘンリクと過ごした楽しい思い出を支えに過ごしていくに違いない。それはささやかではあれど、幸せな生活となるだろう。
そう思った矢先、近くを通った若い男が私にぶつかったのだった。
「おい、邪魔なとこに立ってるなよ」
「も、申し訳ございません」
男は私を疎ましげに睨みつけた。慌てて私は頭を下げたが、彼は何かに気付いたようだった。
「もしかしてその痘痕……子爵家の!!」
彼の発した一言で、周囲の視線が一斉に私に向けられた。
その視線は、槍のように鋭く、氷柱のように冷たいものに感じられた。
「何だ、知り合いか?」
「いや、昔親伝いに縁談を持ちかけられたが、顔に酷い痘痕があると聞いて父上が断ったんだ。お前だったのか!!」
彼は奇しくも、過去に父上が縁談を持ちかけた家の令息だったのだ。
「痘痕……?」
「よく見ろ、額から頬にかけてあるだろう?汚い痕が」
「あ、本当だ」
指さされて慌てて手で痘痕を隠すものの、もう遅かった。男の一言を皮切りに、人々がざわつき始めたのだった。
白粉やファンデーションを何度も塗り重ねて必死に隠したものの、全て無駄であった。
「よくもまあそんな醜い顔で、夜会に参加できたものだな」
「申し訳、ございません」
「お前のような女は夜会などには不似合いなのは分かりきったことだろう?」
この場から早く逃げたい。けれども、恐怖で足が全く動かなかった。降り注ぐ好奇の視線を掻い潜って逃げれる程の勇気が、私には無かったのだ。
誰か、助けて。
「分かったらさっさと……」
「あら、この場に不似合いだなんて。ご自分のことをよく分かってらっしゃるじゃない」
「そうだな。しっかり自己分析が出来ていて、拍手をあげたいくらいだ」
「何だと!?」
男が振り向くと、そこにはヘンリクとテレサが立っていた。二人とも見たことが無い程表情に怒りを露わにしていたのだった。
「ヘンリク王子、テレサ王女!? 何故ここに……」
「招待されたからに決まってるだろう。そんなことも分からないほどに頭が悪いのか? まあ、女性に対するそのゴミのような態度を見ればお察しか」
「本当にね。確か貴方、男爵家の次男でしたっけ。私ね、人の顔を覚えるのは得意なの」
テレサは彼に歩み寄り、扇子で思いっきり頬を叩いたのだった。
パチン、と激しい音が鳴り、周囲のどよめきは増すばかりであった。
「私のお友達を傷付けて、ただで済むと思ってんの!? ふざけないで!!」
男はぽかんとしていた。そんな彼を、テレサは憤怒の表情で睨みつけていた。
彼女がもう一度扇子を振り下ろそうとした矢先、ヘンリクが割って入ったのだった。
「よせ、テレサ。後のことは父上に任せよう。君、手癖の悪い妹が悪かったね。謝罪と''今後の話''は父上から君の父上伝いにさせてもらうよ」
それはある意味、死刑宣告に近い言葉であった。
「お、お待ちください、それは……」
「うるさいな。君のような下卑た人間とはもう話したくないんだ。じゃあ、行こうか」
なおも何か言いたげな男を無視して、ヘンリクは私の手を引いて歩き出した。そのまま、守るように腰に手を回してくれたのだった。
「到着が遅くなってすまなかった。怖かったね」
「い、いえ……」
「あーもー、本当に気分悪いわ。ヨアンナ、気にすんじゃないわよあんなヤツ。話を聞くだけ無駄なんだから」
隣を歩きながら、テレサは私の手を握ってくれていた。知らぬ間に、先程までの身体の震えは止まっていた。
ふと気付くと、二人は夜会の会場の出口へと向かっていた。
「あの、夜会は?」
「欠席するに決まってるでしょう? ね、お兄様」
「ああ、参加者があんなんだったら、夜会の格もたかが知れてるからね。理由を説明したら父上も納得するはずだ」
「折角だからうちに帰ってお茶にしましょう? 丁度お土産でもらった美味しいハーブティーがあるの……って、ヨアンナ!?」
なぜだか、自分の目からは涙が零れていた。
「申し訳ございません、すぐ収まりますので……」
口ではそう言ったものの、嗚咽が止まらない。すると、テレサは外を指さしたのだった。
「少し外で休んでからにしましょうか。お兄様、庭園のベンチに連れていってあげて。私、夜会の主催者に欠席する旨を伝えてくるから」
「ああ、分かった」
こうして、私はヘンリクと二人きりになってしまったのである。
庭園に出るまで、彼は私の背中をずっとさすってくれていた。渡されたハンカチに顔を埋めると、薄らと香水の匂いが鼻先を掠めたのだった。
「あそこに座ろうか」
促されるまま、私はベンチへと腰掛けた。
……と思いきや、私は何故かヘンリクの膝の上に座らされたのだった。
「あ、え!? ヘンリク様!?」
「ああごめん。テレサが昔ぐずった時、いつもこうしてたから癖なんだ。嫌だった?」
「い、いえ……」
少しだけ目線が高くなりダンス以上に距離が近く感じられて、私の胸の鼓動はうるさくなっていた。
憧れの彼がこんなにもすぐ傍にいるなんて。有り得ない状況に、涙はすっかり乾いてしまっていた。
「テレサが来るまで、少しゆっくりしてよう」
そう言って、ヘンリクは眦に残っていた涙を指で拭ってくれたのだった。
とはいえ、男性と二人で何を話せば良いか分からない。テレサに早く戻ってきて欲しいと思い始めたところで、ヘンリクは口を開いたのだった。
「テレサから、色々俺のことを聞いたかな? 婚約破棄した話とか」
「……はい」
どきりと心臓が跳ねる。緊張のあまり、私は一言応えを返すのが限界だった。
「そうか。例えばの話だけど、俺が君の夫だとして、夜会で他のご令嬢と楽しげに話しているのを見かけたら、君はどう思う?」
お泊まり会の日のテレサのように、ヘンリクは私に問いかけた。
その問いの意図は見えないが、容姿端麗で魅力的な彼のことだ。そんな光景は容易に想像できた。
しかし、ヘンリクと私が結婚しているのは全くもって想像出来なかった。取り敢えず、今の私と彼の関係性で考えてみることにした。
美しく魅力に溢れるご令嬢が、彼と楽しく話している光景を思い浮かべる。自分の嫉妬心を引き出すかのように、私はこの上無く素敵な女性を思い浮かべた。
けれども、怒りや束縛心は全く湧かなかった。
「お邪魔になったら申し訳無いので、その場では話しかけないと思います。けれどもヘンリク様が楽しくお話しされるということはご令嬢もきっと魅力的な方なのだなと、それは興味があるので、後で質問するかもしれません」
思うがままに、私は答えた。
「これってさ、前の婚約者と喧嘩になった場面のことなんだ」
「え?」
「参加した夜会で、とあるご令嬢が男に絡まれててね。それを見た俺は彼女を助けたんだ。どうやら付き添いで来た父親が知り合いとの歓談に捕まったらしくて、一人でいるのが心細いようだったから、父親が戻って来るまで会話していたんだ。それを見た当時の婚約者は、怒ってその場で詰め寄って来た」
恐らく、とんでもない修羅場になったに違いない。
「当然だけど、助けた令嬢は悪くない。俺を糾弾するにしても、無関係な人のことも巻き込む視野の狭さが許せなかった。だから彼女には、かなり厳しい言い方をした」
ヘンリクは、軽くため息をついた。彼は少しだけ疲れているようにも見えた。
「婚約者とは愛情に対する考え方で大きなずれがあった。結婚相手として大切にするが、だからといって他の女性を無下に扱うことはしないと伝えたけれども、彼女は納得しなかった。女遊びを辞めて欲しいと、あらぬ噂を信じて此方に感情をぶつけてくるばかりだった」
「……」
「俺の気持ちは彼女に何一つ伝わっていなかったんだ。大切にしているはずなのに、ね」
寂しげに目を伏せて、ヘンリクは呟いた。
「愛情というのは、俺からすれば際限の無いものだと思うんだ。そう考えるのは悪いことなのか、と自問自答し続けて今に至る訳だ」
「悪いこと、じゃないと思います」
テレサの姿を思い浮かべながら、私は言った。彼女のように''平等な愛''に救われる存在もきっと沢山いる。私にはそう思えたのだ。それに、私もまた彼の優しさに救われている一人なのだから。
「……ありがとう、そう言ってくれて嬉しいよ」
私の頬に片手を添えて、ヘンリクは心から嬉しそうに笑った。
「そう言えば。これ、忘れないうちに渡しておくよ」
彼は私に、一枚の封筒を差し出した。
「五日後に、うちの庭園でガーデンパーティーをするんだ。それの招待状だよ」
五日後は、丁度私の誕生日……修道院に行く日だった。当然、二人はその事を知らない。唐突に、罪悪感で胸が締め付けられるのを感じた。
「テレサも凄く楽しみにしてるから、返信待ってるよ」
「はい、ありがとうございます」
切ない痛みを振り切って、私は無理矢理に微笑んだ。すると、彼は笑い返してくれた。
微笑み合った後に、じわりと胸の奥に温かな感覚が広がる。そして私はようやく気付いたのだった。
自分は彼に対して、恋心を抱いているのだと。
+
それから五日後。私はとうとう誕生日を迎えた。
「長い間、お世話になりました」
「ああ」
書斎で、私は父上に別れの挨拶をした。顔を合わせたくないらしく、母上と兄上はそこには居なかった。
ヘンリクから渡されたガーデンパーティーへの招待状は、結局送り返さなかった。欠席連絡をすると、彼らが驚いて理由を聞いてくるのは明白だからだ。
せめて波風を立てることなく、二人の前から居なくなりたかった。
初恋も何もかも、楽しい思い出のままに胸にしまっておきたかったのである。
書斎を出た後、私は招待状の入った封筒を開く。そこには招待状と、テレサからもらったイヤリングが入っていた。修道院へは私物の持ち込みが殆どできないが、どうしてもその二つだけは捨てられなかったのだ。
もうすぐ、修道院の馬車が迎えに来るはずだ。私は封筒をポケットにしまい、家の門前へと向かった。
門の前には、既に一台の馬車が停まっていた。けれども私は、ある異変に気が付いた。
その馬車には、見覚えがあったのだ。
けれども、それは有り得ない話だ。馬車へ歩きながら、私は必死に思い浮かんだ考えを否定した。けれども馬車が近くなる度に、真実味は増していった。
そんな、何かの間違いだ。
心の中で叫んだ時、品の良い執事が馬車の扉を開けた。
そして出てきたのは、ヘンリクだった。
強い風が、二人の間を吹き抜けていった。私の乱れた前髪を手櫛で整えながら、彼は優しく微笑んだのだった。
「あの夜会ぶりだね」
「どうして、ヘンリク様が……?」
「だって、これから行くんだろう? ガーデンパーティーに。招待状の返事が来なかったから、迎えに来たよ」
「それは……できません」
懸命に首を横に振ると、ヘンリクは驚いたように少し目を見開いた。
「私は今日、修道院に行くのです。だから、もうすぐ迎えが……」
「修道院? ……ああ、あの見窄らしい馬車のことか」
「え、え?」
「丁度ここに着いた時に、門前に別の馬車が停まっててね。理由を説明して、帰ってもらったよ。修道会の紋章が付いてたからそれのことだよね」
「ヘンリク様!?」
彼の大胆すぎる行動に、今度は私が目を見開く番だ。そのまま、私はその場にへたりこんだのだった。
修道院の馬車が行ってしまった今、私にはもう行き場所が無い。途方に暮れ、俯いてしまった。
するとヘンリクは跪いて、私の頬に手を添えた。
「邪魔者も居なくなったところで。君にお願いがあるんだ」
「……え?」
「ヨアンナ、俺と結婚して欲しい」
私は思わずヘンリクの顔を見つめた。その瞬間、時が止まったように錯覚した。
「今日のパーティーで言うつもりだったけど、ちょっと先走りすぎたかな」
「え、あ……」
「良かったら、そこで正式に婚約者として両親に紹介するつもりだ。婚約期間も、うちで過ごすと良い。テレサもきっと喜ぶよ」
幸せな夢ならば早く覚めて欲しい。起きたときに辛くなってしまうから。私は必死にヘンリクに言い募った。
「お待ちください、どうして、私なのですか、こんな醜い女と結婚しても貴方は……!!」
そこまで言ったところで、唇が重ねられた。
口付けの後、身体を硬直させる私に言い聞かせるようにヘンリクは言った。
「俺はありのままを受け入れてくれた、君と結婚したいんだ。そして、君を幸せにしたい」
「そ、んな……」
「ヨアンナ。これから行くのは暗くて寂しい場所なんかじゃない。明るくて楽しい場所だよ。君には、そこが似合ってる」
太陽の光で、彼の金髪は艶めいて見えた。その光景は、後光が差してるように思える程美しいものであった。
「一体なんの騒ぎだ!?」
そんなヘンリクにすっかり見蕩れていると、後ろから叫び声が聞こえた。振り向くと、父上や使用人達が此方へ走ってくるところだった。
私を助け起こしてから、ヘンリクはスカートの裾を軽く叩いて言った。
「さ、返事は馬車の中で聞くよ。取り敢えず、招待状は持ったよね」
「……はい、勿論です」
頷いた瞬間に、涙があふれる。けれどもそれは、今まで流してきた涙とは全く違うものであった。
ヘンリクに手を引かれ、私は馬車まで駆け出した。